鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

東條英機の「ゴミ箱漁り」について。

2016-08-21 12:49:51 | 歴史
昨今「東條英機がゴミ箱を漁って庶民が贅沢品を買ってないか調査していた」という主張が一部で散見されるようになっておりますが、私はこの主張に反対する立場から今後の為にこの場に関連資料をまとめておきたいと思います。

まず、「東條はゴミ箱を漁って(視察して)いたか」という問題。これに関しては当時の新聞記事や東條自身の言行録などから議論の余地なく事実と考えられます。



ゴミ箱からも民の声を聞け 東條さん官吏道を一席
【宇都宮電話】地方事情視察の東條首相は十七日朝五時半早くも宿舎宇都宮市八百駒の玄関にどてら姿を現し、そのまゝ下駄をつゝかけて裏町に“暁の奇襲”を試みた、
朝まだき旭町、江野町方面に足を向けふと(原文ママ)勝手口のゴミ箱に吸ひつけられた東條さんは、しばらく沈思、何事かうなづいて立ち去つた、七時には栃木県庁に
現はれ全庁員を集めて別面所報のごとき地方庁官吏三原則をあげて訓示し、たまたまけさの裏街視察に言及
 けさ勝手口の塵芥箱を見て国民生活の大事な部分に触れることが出来たと思つた、塵芥箱は実に家庭の縮図で卵の殻が捨てゝあれば卵がどの程度に配給されてゐるか、
 軒下に積んである薪木の令で薪炭材の需給状態がどの程度か推知出来るのである、けさ見たものでは燃料のやうなものが案外捨てられてあつたが声なきを聞くこそ官吏の親心でなければならん
と四十五分間に亙り諄々と説いた(以下略)

(『朝日新聞』東京版、昭和17年4月19日付夕刊2面)




去年の薪に民を知る 東條さん札幌で“暁の裏口視察”
【札幌電話】来道第一夜を札幌に明かした東條首相は十一日朝四時廿分紺絣に焦茶の袴といふ姿でまた/\暁の街頭視察をした
 その家の生活状態を知るにはゴミ箱を調べるにかぎるといふ信念を持つ東條さんは道傍にあるゴミ箱の中から菜つ葉の切れはしをつまみ出して『この葉は食へないのか』と警備の私服警官にたづねる…(中略)…
薪をつみ重ねた物置をのぞいて『この切口から見ると下の方は去年の残りだ、去年のが残つてゐるのを見れば焚きつけには不自由しないやうだ』と下情通ぶりを見せる、…(以下略)


この記事は昭和17年7月の読売新聞のものですが、詳しい日付などは残念ながら記録を取りこぼしてしまいました。後ほど補足できれば幸いです。なおこの北海道視察に関連するものとして、東條の「北海道視察に関する内奏及閣議報告資料(案)」(昭和17年7月13日付)が残っています。

「二、所見
   (中略)
 (ロ)食料はかすかす間に合ひ居る状況に在りと認めらる。
   (中略)
 (ニ)石炭、炭、薪等燃料の準備は充分なりと認めらる。
   (後略)」

(伊藤隆・廣橋眞光・片島紀男 編『東条内閣総理大臣機密記録―東条英機大将言行録』東京大学出版会、1990年、63頁)


また東條自身は、ゴミ箱の内容を視察することについて次のように述べています。

「私が朝早く町を巡視しゴミ箱を見たりするのを一部の者は笑つたり馬鹿にしたりするけれど、私はほんとに国民の実生活について心配して居り、其実情を此の目で確認したいと思ふからなのである。報告によると魚はこれだけ配給された、野菜はこれだけ配給された、……と相当出廻つていることになつてるのに、それ程ないとの不平も聞くので、若し真に出廻つてるなら魚の骨が、又野菜の芯等がゴミ箱に捨てられてあつて然るべきと思ふからである。又そうすることによつて配給担当者も注意してくれると思つたからである」
(伊藤隆・廣橋眞光・片島紀男 編『東条内閣総理大臣機密記録―東条英機大将言行録』東京大学出版会、1990年、506頁)


このように残された記録を見てくると、少なくとも当時の資料から「ゴミ箱を漁って庶民が贅沢品を買ってないか調査していた」という風に読み取るのは相当困難ではないかと思われます。記録に残されているのは、庶民の贅沢を取り締まる東條の姿ではなく、庶民がしっかりと生活できているか、配給がきちんと行き届いているかを自分の目で確かめようとする東條の姿なのですから。

作家の梅本捨三は、これらの事柄について「例のゴミ箱さがし事件など、こともあろうに、仁徳天皇の『民のかまどは……』の模倣であり、水戸黄門諸国漫遊のイミテーション、人気とりの愚策であると酷評するむきも多い。だが、東條は、そんな気持ちはみじんもなかったようだ。惚れたならアバタもエクボであるが、嫌われれば、すべては色眼鏡でみられるものだ。自分の目で、国民がどんな生活をしているのかを確認してみたかったと解釈するのが、東條の性格分析上正しいのではなかろうか」(『東條英機・その昭和史』秀英書房、1979年、31頁)と評しています。私も、基本的に楳本と同じ意見です。

梅本の評言の妥当性を示す逸話として、東條が昭和18年10月に大森捕虜収容所を予告なしに視察したことが挙げられるでしょう。この視察は「栄養失調によって捕虜の死亡率が高くなっているという、彼の耳に達した報告によって促進されたもの」(ビュートー『東條英機』下巻247頁)で、東條は浴場、収容小屋、調理場などを視察しましたが、この際の態度は「一イギリス人に非常な感銘を与え、後にこの男をして東條は「悪いやつではない」―「親父のような男だ」といわしめたほだであった」(前掲書248頁、原文ママ)といいます。なお、この評を残した英軍捕虜はミッチェル兵曹長という人物だったようです。東條の収容所電撃訪問については八藤雄一『あゝ、大森捕虜収容所 戦中、東京俘慮収容所の真相』(共伸出版、2004年)という本にも詳しく述べられているようですが、非売品らしいこともあって私はまだ読んだことがありません。そのうち読んでみなければなりませんね。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-04-07 01:00:37
読みごたえあっておもしろかった 戦争独裁者で決めつけてしまうより善意から戦争を選択したと取ったほうが人間性がかいまみえておもしろいまた、深読みしていやいやあいつは人気取りにブラフを撒いた後世に逸話のひとつでも飾りたかったとも読める前者を信じる
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