鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

東條英機とペットな関係、あとミャックスとかシュークリームとか。

2020-03-07 19:55:18 | 歴史
はい、お久しぶりです。
いつの間にか令和2年になっちゃいましたね。新型コロナとか流行ってますけど皆さんお元気ですか。

私も一応匿名で質問を受け取れる例の「質問箱」というのを開設してまして、
まああんまり頻繁にはチェックしていないんですが、
この間久しぶりに開いたら去年の末にこんな質問を頂いておりました。



ふむ、どれも中々面白いですし、かつ短い文章ではお答えしづらい部分のある質問です。
という訳で、掟破りかもしれませんがこちら、ブログの方でお答えさせていただくこととしましょう。
ご回答が遅くなってしまった点については大変申し訳ありませんでした。


1.東條英機はシャム猫を友人からもらって可愛がっていた

一見強面の「カミソリ東條」が実は猫を可愛がっていた、というのはギャップの強さからか面白いエピソードとしていろんなところで言及されています。
平岩米吉『猫の歴史と奇話』(築地書館、1992年新装版)では、次のように言及されています。

「また東条英機が、昭和十六年ごろ、知人から贈られたシャム猫(当時は泰国猫)を飼ってから、たいへんな猫好きになったというのも面白い。
しかし、強気一徹の彼が、猫などに心を惹かれるというのは、いささかきまりが悪かったとみえ、表面は無関心を装いながらも、多忙な官邸の出入りに、
一々、猫の様子を家人にたずね、食物や飲み水にいたるまで、こまかい注意を与えていたという。東条英機は今日のシャム猫流行の先駆者だったのである」(213頁)

東條家がある時期から猫を飼っていたこと、東條英機が家人に猫の食物などに注意を与えていたということについては、
東條勝子夫人の証言(「東條勝子夫人の追憶(談)」上法快男編『東條英機』東條英機刊行会、芙蓉書房、1974年)にもあります。

「趣味と言えるかどうか、英機は犬を好いておりました。
猫は"猫かぶり"等の言葉から気に食わぬと申して嫌っていたようですが、子供達の要望でその嫌いな猫をかうことになりましたら、
かえって『猫にめしはもうやったか、犬はいつもいるから忘れないだろうが、猫にも忘れぬ様にしろよ』と申すようになりました」(690頁)

この証言によれば、東條家で猫を飼うことになったのは「子供達の要望」を受けてのことだったようです。
知人からシャム猫を贈るという話が出て子供達がそれに賛成したのか、子供達が猫を飼いたいといったので知人から猫を貰ってきたのかは分かりません
(この辺りは東條家の人々が書いた本を読めば何かしら載っているかもしれませんが)。

蛇足ながら、著名な軍人のうち、猫を飼っていたことが明らかな人物として斎藤実がいます。
『東京朝日新聞』1911年5月11日付7面の「現代犬猫列伝 海軍大臣の愛猫」によれば、練習艦隊がタイ(当時のシャム)に帰港した際に土産として二匹を持ち帰ったもので、
夫人が喜んで名前を考えたもののあまりいいものが思いつかず「ジロ」「キチ」という平凡な名前にしたとのこと。
斎藤は1936年に二・二六事件で殺害されますが、この当時も「ミイ」という猫を飼っていたようです(樋口正文編『斎藤実追想録』斎藤実元子爵銅像復元会、1963年)。


2.フランスのモーという地名をミャックスといって、それがあだ名になった。

東條英機の「ミャックス」というあだ名については、佐藤賢了『東條英機と太平洋戰争』(文藝春秋新社、1960年)の冒頭で言及されています。
ちなみにこの本は表紙などでは旧字体が使われていますが、本文扉では「東条英機と太平洋戦争」と新字体になっており、本文でも「東条」の表記が用いられています。

「ミヤックスというのは、戦史教官東条英機中佐のアダ名であった。そして私が、東条さんを知ったのも、この陸軍大学校時代である。
東条中佐は、三年学生のわれわれに、欧洲戦史の講義をしていた。東条さんは、学生時代ドイツ語をまなんだが、フランス語はやらなかった。
それで、フランスの地名もすべてドイツ読みをした。MEAUX(モー)をミヤックスと発音するのである。しかも、その地名が講義中何回となく出てくる。
そのたびに学生はクスクスと笑った。が、いくら笑われても平気で、とうとうそれで押し通した。それ以来、学生はこれを東条教官のアダ名として奉ったのである」(9-10頁)

同様のエピソードは、1925年に同じく陸大の三年学生として東條に接した稲田正純の証言(「稲田正純の証言」上法快男編『東條英機』東條英機刊行会、芙蓉書房、1974年)にもあります。

「頑固な一例をあげれば、地名一切をドイツ語読みで押し通し、それが東條さんの仇名になっていた。
Saint Quentin(サン・カンタン)をセントクエンチン、Meaux(モー)をメアウツクスはまだしも、
有名なシャンパン酒の生産中枢Reims(ランス)をレイムスと読み上げて、学生が笑おうが一切知らん顔の半兵衛なのであった」(635頁)

まあ、東條は漢字についても誤読を平気でやっていたという西浦進の証言(西浦進『昭和陸軍秘録』日本経済新聞出版社、2014年。なおこの元となった速記録では「百姓読み」とされていた模様)もありますし、その辺は気にしない人だったんでしょう。


3.東條英機はシュークリームが好きだった。

これについては、大森洋平『考証要集 秘伝! NHK時代考証資料』(文春文庫、2013年。私はKindle本で買ったので頁数を示せません、すみません)の「好物」の項目に
「⑤東條英機:シュークリーム(吉松安弘『東條英機暗殺の夏』新潮社)」とあるのが確認できますが、吉松の本を私がどこかにやってしまったために現時点ではそれ以上のことは分かりません。
確認でき次第追記します。

土屋道雄『人間東條英機』(育誠社、1967年)によれば、「東條は甘いものが好きで酸いものは嫌ひであつた」(201頁)そうで、
「里芋、さつまいも、甘栗、鰻の小串、秋刀魚の塩焼などを好んで食べた。また、すき焼や柳川鍋が好きだつた。漬物類は、奈良漬以外は滅多に口にしなかつた」(202頁)といいます。

また、シュークリームが戦前においてどの程度認知されていたかという点については、『朝日新聞』のデータベースが参考になるでしょう。
「シュークリーム」で検索すると、1924年2月に中牟田子爵家でシュークリームを食べた一家四人が付着していた緑青による中毒を起こしたという事件が報道されており(「菓子中毒は緑青から シユークリーム騒ぎの原因」『東京朝日新聞』1924年2月15日付朝刊7面)、同年4月にも小学校教員の一家がシュークリームで中毒になったという記事が掲載されています(「またシユークリームで教員一家が中毒 二日にたべて未だ臥てゐる」『東京朝日新聞』1924年4月5日付夕刊2面)。
戦前のシュークリームに関する記事はどうにもこうした中毒関連の記事が多いのですが、数を見てみると1912年に1件、1924年に6件、1925年に4件、1926年に8件(うち1件は広告)、1930年、1931年、1932年に各1件ずつ、1935年に2件、1938年、1939年、1940年、1941年に各1件ずつの「シュークリーム」の文言を含む記事が掲載されています。少なくとも、昭和戦前期において誰も聞いたことがないようなハイカラなお菓子、というような存在ではなかったようです。



値段については、1926年2月18日付『東京朝日新聞』夕刊2面に掲載された、日本橋白木屋の広告が参考になります。1つで6銭、10個の箱入りで60銭なのは安売り特価で、通常は「市価一個八銭」だったようです。

満洲国皇帝の即位詔書について、あるいは夏コミ原稿の補遺。

2019-07-04 20:38:39 | 歴史
光陰矢のごとしとはよく言ったもので、気がつけばあれだけ日本中が沸いた令和改元からもう二ヶ月が過ぎてしまいました。その間一回も更新していないこのブログもどうかとは思いますが。

さて、令和改元においては実際に改元が行われる一ヶ月前に新たな年号(=元号。以下、煩瑣を避けるために「年号」で統一します)の「事前発表」が行われたことで、一部保守派とか面白右翼おじさんたちの反発を惹起したことは記憶に新しいところです。確かに日本においては改元前に年号が発表されるということは近現代においては無く、結果として昭和改元の際に光文事件が発生するような状況がありました。

ですが、じゃあ改元前の年号発表の例は全く無いのか? というとそんなことはありません。1934年、満洲国において執政溥儀の皇帝即位に伴って行われた大同から康徳への改元は、事前に次の年号が発表され、しかも途中でその予定された年号自体が変更されたりしているのです。

とはいえ、私がここでお話したいのは改元そのものの話ではないのでその辺りの詳細は省略。今年の夏コミで頒布予定の『曠々満洲』第10号に掲載されるはずの拙稿「満洲国皇帝の即位儀礼―明清代との比較を中心として―」をご参照いただければ幸いです(露骨な宣伝)

違うんですよ。私がお話したいのはその改元が行われた根拠となるもの、すなわち康徳皇帝溥儀の即位詔書についてなんです。



2019年7月4日現在、Googleで「満洲国 即位詔書」と画像検索するとこのような結果が出てきます。一番最初に出てきてる満洲国臨時政府の皇帝即位詔書はまあどうでもいいとして、問題は三枚目のこれです。



これは瀋陽(旧・奉天)の「9.18歴史博物館」に展示されているもののようですが、同様のものは長春(旧・新京)の「偽満皇宮博物院」でも展示されているようですし、またインターネット等を通じて古物取引もされているようです(押捺されている印が異なるため、厳密には同じものとはいえないのですが、まあ同様の様式によるものだとはいえるでしょう)。ついでに言うと、検索結果の二番目に出ているおじさんが広げているものも同じです。

私はこの様式の満洲国皇帝の即位詔書とされるものを「横書式即位詔書」と呼んでいるのですが、この横書式即位詔書、私は満洲国当時に公的に頒布されたものであるかどうかは極めて怪しいと思っています。
なぜ怪しいと思うのか、以下に三つの理由を申し上げましょう。

(1)なんで横書き?
一般的に言って、満洲国当時における出版物、印刷物における文章は縦書きなのが普通です。新聞やポスターなどで横書きが見られないわけではないのですが、これらは基本的に短いスローガンや見出し、あるいはデザイン上の必要があってのものです。


満洲国ポスターデータベースより。これでも横書きなのは見出しだけで、下部の「執政宣言」は縦書きになっています。)


横書式即位詔書の場合、そういった必要があっての横書きではないように思えます。中国語の印刷物において横書き(横組)が全面的に採用されるようになったのは中華人民共和国が成立してからしばらく後の1956年のことで、それまでは基本的に縦書きでした。1934年当時の満洲国でも同様に縦書きが基本だったことは、当時の新聞(『盛京時報』)や出版物(『即位大典慶祝大会紀念録』)などからわかります。

 

(右:『盛京時報』1934年2月28日付 左:『即位大典慶祝大会紀念録』1934年刊行)

もしこの横書式即位詔書が1934年当時に頒布されたものであった場合、そこには横書きをせざるをえない理由がなければならないのですが、そのような理由は私には思いつきません。

(2)「康徳御印」ってなに?
横書式即位詔書には、下部の「御名」と「御璽」の間に「康徳御印」(もしくは「康徳禦印」)という印が押捺、あるいは印刷されています。


Wikimediaコモンズより。これはどうやら長春の偽満皇宮博物院の所蔵らしい)


 

(中華古玩網より。これは「禦印」。また、左上にはなぜか溥儀の紫禁城時代の鑑蔵印「無逸齋精鑒璽」が押捺されている)


そもそも「御璽」という文字自体が原本に鈐された満洲国皇帝の御璽の代わりなのに、なぜそれに加えて印を押捺する必要があるのでしょうか。
また、この「康徳御印」は満洲国皇帝の正式な印璽ではありません(詳細については再度の宣伝となりますが拙稿「満洲国皇帝の即位儀礼―明清代との比較を中心として―」をご参照いただければ幸いです)。溥儀が満洲国皇帝時代に私的に用いていた印もいくつか確認していますが、当時の新聞や雑誌に掲載されていたり、あるいは溥儀と直接の関係があって贈与されたりした等の出所が明らかな書画類に用いられた印には、現在までのところこの「康徳御印」は確認できていません。



中国の書画販売サイトなどに掲載された、溥儀の書画とされるものにはこのように押捺されているものをまま見かけますが、そうした書画の中には例えば「大同二年」、すなわち1933年の作品とされているにもかかわらず「康徳御印」が押捺されていたりするものがあります。



これなどは印影自体もぎこちなく、偽作、あるいは偽印の可能性が大いにあるといってよいでしょう。仮に「康徳御印」が溥儀によって実際に用いられていた印であったとしても、それが後に誰かの手に渡って利用された、あるいは偽造された可能性は排除できません(「禦印」に至っては現状、横書式即位詔書以外の用例が見当たりません)。

(3)詔の内容に誤りがある
満洲国皇帝の即位詔書はその重要性から、満洲国当時に発行されたいくつもの文献に(当然ながら縦書きで)全文が収録されており、原文である中国語(満文)版、訳である日本語(日文)版を確認することが出来ます。
これら他の文献史料で確認できる即位詔書の全文(満文版)は、以下のようになります。



奉天承運皇帝詔曰
我國肇基國號滿洲。於茲二年。原天意之愛民。賴友邦之仗義。其始凶殘肆虐安忍阻兵。無辜籲天。莫能自振。
而日本帝國。冒群疑而不避。犯衆咎而弗辭。事等解懸。功同援溺。朕以藐躬。乃承天眷。
假我尺柄。授我丘民。流亡漸集。興其謳歌。兵氣濳銷。化爲日月。夫皇天無親。惟德
是輔。而生民有欲。
無主乃亂。籲請正位。詢謀僉同。敢不敬承天命。其以大同三年三月一日。卽皇帝位。改爲康德元年。
仍用滿洲國號。世難未艾。何敢苟安。所有守國之遠圖經邦之長策。當與日本帝國。強力同心。以期永固。
凡統治綱要成立約章一如其舊。國中人民。種族各異。從此推心置腹。利害與共。或渝此言。有如皦日。
無替朕命。咸使聞知。
  御名御璽
    康德元年三月一日
              國務總理大臣
              各 部 大 臣
                       (『[満洲国]外交部公表集』第3輯より)

さて、ここで問題となるのが「原天意之愛民。賴友邦之仗義」の部分。日文版だと「天意ノ愛民ニ原ツキ友邦ノ仗義ニ賴リ」となる箇所ですが、ここが横書版即位詔書では「原夫天意之愛民」となっているのが下の画像でお分かりになるかと思います。



この「夫」はアジ歴で公開されている帝政実施前の「即位改元詔」案文から即位後の『[満洲国]外交部公表集』『即位大典慶祝大会紀念録』に至るまで、出所の明らかな公的史料からは確認できません。明らかな誤植です。
他のどうでもいいような(?)文章ならいざ知らず、皇帝の即位詔書という重要な文章で誤植をして、それがそのまま表に出たというのはもしこれが公的に製作されたものなら考えづらいことです。『政府公報』(日本の『官報』に相当)のような逐次刊行物ならいざ知らず、横書式即位詔書のような凝った印刷物だとそれはちょっとどうなんだい? という感じです。

とまあ、以上の三点がどうもこの横書式即位詔書が「怪しい」という理由です。
ついでに怪しいのが、横書式即位詔書がどのように発見されたか。

先ほどのGoogle画像検索の2枚目は2009年4月8日に報道されたエキサイトニュースの記事にあるものなのですが、これは元々サーチナの記事だった様子。
サーチナでは見られないようですし、エキサイトニュース版にしても古い記事ですからいつ消えるとも分からないので、以下に画像ともども転載しておきましょう。サーチナとエキサイトニュースさん許して。



>【中国】清朝最後の皇帝の即位詔書が公表される
>サーチナ 2009年4月8日 11:23
>4月7日、河南省開封市に住む民間の収集家、廖大林さんがメディアに清朝十二皇帝の最後の皇帝となった宣統帝溥儀の即位詔書を公開した。
>この詔書は1934年3月1日に発行されたもので、横58.5センチ、縦42センチである。詔書には旧満州国の紋章と国旗がプリントされており周囲には金箔装飾のコーリャンがあしらわれている。
>詔書は全部で269字からなり旧満州国の元号「康徳」の御璽が押されている。(CNSPHOTO)

んー、そもそもこの記事の時点で色々と表現が不正確ですね。これは「清朝最後の皇帝」である「宣統帝」の即位詔書じゃないですし、「1934年3月1日」に発行されたものであるかどうかもよく分かりません。
「1934年3月1日」、つまり康徳元年3月1日はこの即位詔書の文言そのものが発布された日であって、この横書式即位詔書がどこで誰によりいつ印刷され発行されたのかは不明とするのが適当でしょう。

ここで廖氏がカメラに見せているのは、左上に長方形の印が見えるところからすると、上記の「無逸齋精鑒璽」が押捺された横書式即位詔書と同様か、もしくは同一のものと考えられます。
そしてこの「公表」がニュースになったところから考えると、もしかすると横書式即位詔書は2009年に廖氏が公開したものが現代における初出で、他の色々なところで展示されている横書式即位詔書はその複製なのかもしれません。
「禦印」が「御印」になっていたりするので、そこはまた別系統なのかもしれませんが。



中国の個人コレクターが蒐集した文物のニュース、というと思い出されるのが2015年に報道されたこの「岸信介の軍刀」の話
「中国人民抗日戦争勝利70周年」を記念して「明治天皇、載仁親王、岸信介、伊藤博文、川島芳子、土肥原賢二らの軍刀108振りなど、重要な史料」が「愛国コレクターの王雪氏から提供され」て北京市第五中学校を会場として展示されたというニュースなんですが、岸は軍人じゃねえから軍刀は持ってないだろとか散々つっこまれてニューズウィーク日本版でも取り上げられたりしました
もしかするとこの廖氏が公開した「即位詔書」=横書式即位詔書も…なのかもしれません。横書式即位詔書の一部を展示している偽満皇宮博物院にしても、私が観に行った時には記念章の名称を取り違えて展示していたりしていたので…。

とはいえ、一足飛びに結論を出すのは早計に過ぎるというもの。
現時点では、先ほどの三点を指摘し、特に内容に誤りがみられるので横書式即位詔書を史料として用いるのは避けた方がよいのではないか、という程度にとどめておきましょう。




最後に再三の宣伝で申し訳ありませんが、今度のC96、日曜日西D67bで参加する「満洲研究会」の『曠々満洲』第10号にこういう記事を寄せております。
興味を持っていただけたら是非お手に取っていただければ恐悦至極。

東條英機の「ゴミ箱漁り」について。

2016-08-21 12:49:51 | 歴史
昨今「東條英機がゴミ箱を漁って庶民が贅沢品を買ってないか調査していた」という主張が一部で散見されるようになっておりますが、私はこの主張に反対する立場から今後の為にこの場に関連資料をまとめておきたいと思います。

まず、「東條はゴミ箱を漁って(視察して)いたか」という問題。これに関しては当時の新聞記事や東條自身の言行録などから議論の余地なく事実と考えられます。



ゴミ箱からも民の声を聞け 東條さん官吏道を一席
【宇都宮電話】地方事情視察の東條首相は十七日朝五時半早くも宿舎宇都宮市八百駒の玄関にどてら姿を現し、そのまゝ下駄をつゝかけて裏町に“暁の奇襲”を試みた、
朝まだき旭町、江野町方面に足を向けふと(原文ママ)勝手口のゴミ箱に吸ひつけられた東條さんは、しばらく沈思、何事かうなづいて立ち去つた、七時には栃木県庁に
現はれ全庁員を集めて別面所報のごとき地方庁官吏三原則をあげて訓示し、たまたまけさの裏街視察に言及
 けさ勝手口の塵芥箱を見て国民生活の大事な部分に触れることが出来たと思つた、塵芥箱は実に家庭の縮図で卵の殻が捨てゝあれば卵がどの程度に配給されてゐるか、
 軒下に積んである薪木の令で薪炭材の需給状態がどの程度か推知出来るのである、けさ見たものでは燃料のやうなものが案外捨てられてあつたが声なきを聞くこそ官吏の親心でなければならん
と四十五分間に亙り諄々と説いた(以下略)

(『朝日新聞』東京版、昭和17年4月19日付夕刊2面)




去年の薪に民を知る 東條さん札幌で“暁の裏口視察”
【札幌電話】来道第一夜を札幌に明かした東條首相は十一日朝四時廿分紺絣に焦茶の袴といふ姿でまた/\暁の街頭視察をした
 その家の生活状態を知るにはゴミ箱を調べるにかぎるといふ信念を持つ東條さんは道傍にあるゴミ箱の中から菜つ葉の切れはしをつまみ出して『この葉は食へないのか』と警備の私服警官にたづねる…(中略)…
薪をつみ重ねた物置をのぞいて『この切口から見ると下の方は去年の残りだ、去年のが残つてゐるのを見れば焚きつけには不自由しないやうだ』と下情通ぶりを見せる、…(以下略)


この記事は昭和17年7月の読売新聞のものですが、詳しい日付などは残念ながら記録を取りこぼしてしまいました。後ほど補足できれば幸いです。なおこの北海道視察に関連するものとして、東條の「北海道視察に関する内奏及閣議報告資料(案)」(昭和17年7月13日付)が残っています。

「二、所見
   (中略)
 (ロ)食料はかすかす間に合ひ居る状況に在りと認めらる。
   (中略)
 (ニ)石炭、炭、薪等燃料の準備は充分なりと認めらる。
   (後略)」

(伊藤隆・廣橋眞光・片島紀男 編『東条内閣総理大臣機密記録―東条英機大将言行録』東京大学出版会、1990年、63頁)


また東條自身は、ゴミ箱の内容を視察することについて次のように述べています。

「私が朝早く町を巡視しゴミ箱を見たりするのを一部の者は笑つたり馬鹿にしたりするけれど、私はほんとに国民の実生活について心配して居り、其実情を此の目で確認したいと思ふからなのである。報告によると魚はこれだけ配給された、野菜はこれだけ配給された、……と相当出廻つていることになつてるのに、それ程ないとの不平も聞くので、若し真に出廻つてるなら魚の骨が、又野菜の芯等がゴミ箱に捨てられてあつて然るべきと思ふからである。又そうすることによつて配給担当者も注意してくれると思つたからである」
(伊藤隆・廣橋眞光・片島紀男 編『東条内閣総理大臣機密記録―東条英機大将言行録』東京大学出版会、1990年、506頁)


このように残された記録を見てくると、少なくとも当時の資料から「ゴミ箱を漁って庶民が贅沢品を買ってないか調査していた」という風に読み取るのは相当困難ではないかと思われます。記録に残されているのは、庶民の贅沢を取り締まる東條の姿ではなく、庶民がしっかりと生活できているか、配給がきちんと行き届いているかを自分の目で確かめようとする東條の姿なのですから。

作家の梅本捨三は、これらの事柄について「例のゴミ箱さがし事件など、こともあろうに、仁徳天皇の『民のかまどは……』の模倣であり、水戸黄門諸国漫遊のイミテーション、人気とりの愚策であると酷評するむきも多い。だが、東條は、そんな気持ちはみじんもなかったようだ。惚れたならアバタもエクボであるが、嫌われれば、すべては色眼鏡でみられるものだ。自分の目で、国民がどんな生活をしているのかを確認してみたかったと解釈するのが、東條の性格分析上正しいのではなかろうか」(『東條英機・その昭和史』秀英書房、1979年、31頁)と評しています。私も、基本的に楳本と同じ意見です。

梅本の評言の妥当性を示す逸話として、東條が昭和18年10月に大森捕虜収容所を予告なしに視察したことが挙げられるでしょう。この視察は「栄養失調によって捕虜の死亡率が高くなっているという、彼の耳に達した報告によって促進されたもの」(ビュートー『東條英機』下巻247頁)で、東條は浴場、収容小屋、調理場などを視察しましたが、この際の態度は「一イギリス人に非常な感銘を与え、後にこの男をして東條は「悪いやつではない」―「親父のような男だ」といわしめたほだであった」(前掲書248頁、原文ママ)といいます。なお、この評を残した英軍捕虜はミッチェル兵曹長という人物だったようです。東條の収容所電撃訪問については八藤雄一『あゝ、大森捕虜収容所 戦中、東京俘慮収容所の真相』(共伸出版、2004年)という本にも詳しく述べられているようですが、非売品らしいこともあって私はまだ読んだことがありません。そのうち読んでみなければなりませんね。

「A級戦犯」たちの「最後の一ぱい」――Novitiate Altar Wine

2015-07-30 19:35:29 | 歴史
2015年7月現在、石川県金沢市武蔵町の浄土真宗宗林寺で、東條英機ら「A級戦犯」の絶筆や遺書などを一般公開しています。この寺は「戦犯」たちの教誨師をつとめた花山信勝師の生家だそうで、その関係で遺品が残されていたとのこと。(参考:ヨミウリオンライン

…上記のニュースを目にしたとき、私が次の一文でした。

>公開されているのは、A級戦犯として絞首刑となった7人の署名や遺書の写しのほか、処刑直前に飲んだワインの瓶や、戦犯が拝んだ仏像など

処刑直前に飲んだワイン。確かに、花山の著書『平和の発見』には、

「…コップに一ぱいのブドー酒を口につけてあげて飲んでもらう。
 …東條さんの『一ぱいやりたい』も、どうやらこれで果たされ、大変な御機嫌であった」(昭和24年、朝日新聞社、309頁)

との記述があります。東條らが「最後の一ぱい」として飲んだワインは、果たして何だったのか?
銘柄を知りたい、そして叶うことならそれと同じものを飲んでみたい!
自他共に認める東條ファンの私にとってはめちゃくちゃ気になる事柄だったのですが、残念ながら私の住む埼玉県本庄市から金沢までは到底気軽に行ける距離ではありません。
しかしながらありがたいことに、Twitterで懇意にさせて頂いている@hirataitaisho氏が観に行った際の情報を提供してくださいました。

氏によると、ワインのラベルには次のような文字が書かれていたとのこと。写真は氏が貰った『北國新聞』5月31日付の記事より写真の一部分を拡大したものです。




Novitiate
Altar Wine
Novitiate
CALIFORNIA PORT
PRODUCES AND BOTTLED BY
Novitiate of Los Gatos
LOS GATOS, CALIFORNIA



これを手がかりに調べてみましたところ、このワインはアメリカはカリフォルニア州のロス・ガトス(Los Gatos)という町のノヴィティエイト(Novitiate)・ワイナリーで作られた、聖餐式用の赤ワイン(Altar Wine)だったということが判明しました。つまり、米兵が日常のミサで使っていたワインだったのです。

東條が希望した「最後の一ぱい」は無論日本酒だったのですが、米軍の施設には日本酒の用意はない。そこで、このワインが急遽「最後の一ぱい」として用意されたわけですね。

このワインが造られたノヴィティエイト・ワイナリーは、1888年にイエズス会士の神父らによって建設されたもので、Novitiateとは「修錬院」の意味です。ここでは聖餐式用のワイン以外にもデザート・ワインなどがおよそ100年にわたって生産され、禁酒法時代にも例外的にワインの生産が許されていました。しかしながら残念なことに、1986年にイエズス会はこのワイナリーを閉鎖。東條ら「A級戦犯」が最後に飲んだワインは、これによって幻の存在となったわけです。誠に残念極まりない。

但し、同ワイナリーの施設は現存しており、1993年からテスタロッサ・ヴィンヤード(Testarossa Vineyards)という会社がワインを生産しています。
その中にはピノ・ノワールを使ったワインもあるようなので、これが現在ではもっとも東條らが最後に飲んだ味に近いワイン、ということになるでしょうか。

因みに私も探してみましたが、現在では残念ながら日本でこのNovitiate Pinot Noirを入手することは困難なようです。もし入手経路に関してなにかご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。小躍りして喜びます。

(本文参考サイト:California Life+Styleワイン・カントリー日本語ガイドTestarossa Winery and Tasting Room Los Gatos California


追記:有志の方よりNovitiate Altar Wineの鮮明な写真をいただきました。ありがとうございます。

帝国趣味的石造物観賞ノススメ。

2015-03-11 03:56:46 | 歴史
3月ももう中旬となりましたが、日本海側では昨日今日あたりが大分荒れ模様らしいですね。
先月、私はそんな日本海側の鳥取、島根両県を5日間ほどかけて旅行してまいりました。
本記事は直接旅行のことを書く訳ではないのですが、まあきっかけとしてのネタ振りということで。

旅行先で神社や寺院などに行くと、そこら中に石碑やら石灯籠やら狛犬やらがあるのが目に付きます。
ただなんとなく眺めているだけならどうって事は無い単なる石造物ですが、細かく見てみるとこれが中々どうして面白いものです。
こういったものには大抵奉納した人や組織の名前、また奉納された年月や目的などが書いてありますが、結構心をくすぐられる内容のものがあるのです。特に私のような帝国日本が大好きな人間にとっては。

 

一例として、今回訪ねた鳥取県の白兎神社にある狛犬を見てみましょう。
台座に「凱旋記念」とあります。奉納年月日は昭和10年10月17日です。
どのような戦いから「凱旋」したのかは詳しく書いてありませんが、時期的に考えて満洲事変あたりと考えるのが妥当でしょうか。

 

こちらは島根県にある玉作湯神社の石灯籠です。旧軍関係の収集家にはすっかりお馴染みの在郷軍人会の徽章が彫られており、同会による奉納であることが推測されます。奉納年月日は昭和10年4月。
台座部分には「日清北清日露戦役従軍者」や「満州事変従軍者」などの奉納者一覧が刻まれています。今気づきましたが、これは「満洲」になってませんね。奉納者の名前には位階勲等が付されています。

こうした帝国日本の残滓とも言うべき石造物は、なにも有名な神社ばかりにあるわけではありません。地方の神社では戦前に建てられた神社名の石碑のうち、「村社」や「県社」などの社格をコンクリートで埋めて抹消した(まあ読めるんですが)ものがそのまま使われていることは良くありますし、「御大典記念」や「紀元二千六百年記念」などの文字がある祠や石碑もそこら中で見られます。多分あなたの家の近所にある神社にもあると思いますので、興味がおありの方はぜひ探してみて下さい。