さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

身体と記憶

2009年09月13日 17時14分57秒 | Web log
日本にいたころに読んだ本だったか、見たテレビだったか
覚えていないけれど、こんなエピソードに出会った。

ある人が、臓器移植を受けた。確か肝臓だったと思う。
その後、その人の人格が変化したという話だった。
着るものの嗜好が変わり、性格すらも変わった。

まるで、亡くなったドナーが憑依したかのようになった
のだという。

そこで、話はこう展開する。

記憶というのは、脳の中だけに蓄積されるものではないの
ではないかということだ。

そして、最近読んだ記事にこんな下りがあった。

人間が持つのと同じ脳を再現するためには、身体が必要だ
ということが最近の研究でわかったということである。

詳細はよく分からないが、脳科学者のコメントなので
信憑性が高いのではと思われる。

脳、身体、記憶

これが、すべて個別に行われているのではなく、相互関係に
よって成り立っていると思われるのは非常に興味深い。

また、脳疾患をわずらい身体が思うように動かなくなった
老人がリハビリの一環として、毎日少しづつ歩くようにした。
少しずつ身体の自由が戻ってきたと同時に、ダメージを受けた
脳の一部も機能を取り戻し、長い年月をかけて、身体、そして
脳が回復したという話も聞いた。

かなり高齢のおじいさんであったが、今では毎日かかさずジョギング
できるまでになったという。

身体と脳、そして身体に蓄積される記憶・・

母が茶道を嗜んでいたこともあり、何度かお茶会に行ったことがある。
作法、作法、作法でがんじがらめになって、全く楽しめなかった。

お辞儀のしかた、お茶が回ってきたときにどうするか、飲み終わった
ときはどうするか、もう頭がいっぱいいっぱいである。

で、お茶の先生にそのことを話したときに
「頭の中で、次はこうして、ああしてと考えなくなるくらい何度も
何度も繰り返すことで、作法が身について、自分のものになっていく
ものなんです。」

これは、武道にも通じるものがあるかと思う。

頭で理解し、それを何度も繰り返し、最終的には身体が覚える。
反射的に反応するようになると言ってもいいかもしれないけれど、
しかし、身体を自ら動かすということには、かならず脳が関わっている。

目で見る、耳で聞く、脳に信号が届く、手・足が動く・・・という風に。

要するに訓練とか練習とかは、情報を得てから、身体を動かすまでの
情報処理のスピードを速くするということかと考えていたのだけれど、
先に書いたように脳「だけ」ではなく『身体』に記憶を蓄積する能力が
あるのだとすれば、訓練によって情報処理のスピードを上げるだけでなく
身体に覚えさせているという要素もあるのかとも思う。

しかも身体の記憶とは、性格とか嗜好までにも及ぶというのだから、
驚きだ。

人体の不思議である。

気持ちはいつも

2009年09月11日 22時57分01秒 | Web log
オーストラリアにいても、気持ちはいつも日本にあると思う。

日本のニュースを追いかけ、日本のことを考えている。

これがいけないのかなぁとも思う。

オーストラリアにも慣れてきたし、友達もいるし
今日はオーストラリア人の友達と電話でぺちゃぺちゃと
しゃべって「オーストラリア人化したんじゃないの?」
と言われて、ゲラゲラ笑った。

電話を切って、「日本の友達としゃべるようにこっちの
友達と長電話できるようになったのか」と思った。

ちょっと感慨深かった。

でも、オーストラリア人化したと言われて、

「わたしは、昔から、わ・た・し・だ!」と心で叫んだ。

っていうか、その人はステレオタイプ化された日本人像に
わたしが当てはまらないといいたかったのだけれど。

オーストラリアに来て、自分は本当に日本人なんだなあと
つくづく思うし、日本の文化を誇りにさえ思うようになった。

日本にいたときは、日本の嫌なところしか目に入らなかったのに。

これは、終わった恋を振り返って、別れた彼(彼女)のいいところ
ばかりが思い出されるというのと似ているのかもしれない。
別れる前は修羅場だったのに、である。

本当に人間というものは都合のいい生き物である。

失わないと本当の価値が分からないというのは。

そして、仮にオーストラリアを離れることがあっても、
同じ事を繰り返すんだろう。

そうなる前に、とりあえず心をしっかりここに下ろす必要が
あるとは思うのだけれど、日本のことを考えてしまうのである。

こまったものである。

味覚も成長する

2009年09月10日 19時06分16秒 | Web log
子供を見ていると味覚って成長するんだなぁってすごく思う。

育児書とかに、乳幼児期から何でも食べさせましょうと
書いてある。で、母親は頑張っていろんなものを
食べさせようとする。

でも、ダメな子はダメなのだ。

先天的なものが大きい。

食べるのが好きなベンジャミンは、無理強いしなくても
食べ物に好奇心があって、人の食べているものを
食べようとしたり、お皿にあるものを抵抗なく食べる。

なんでもこいって感じ。
でも、挽肉とトマトはだめらしい。

マイクに似たジョナサンは、臭いとか味覚に敏感らしく、
葉っぱの食感がダメだったり、辛いのがダメだったり、
ソースの味がだめだったり、コーンの皮がだめだったり、
とにかく好き嫌いが激しかった。今も多少ある。

小さいときは納豆とトマトくらいしか食べなくて、
本当にこの子は大丈夫だろうかと不安に思ったもんです。

で、すこしづつ導入した。

肉もしばらくは鶏肉しかだめだった。
やがてミートソースが食べられるようになり
ミートソースにも色々野菜をまぜて食べさせた。

それからハンバーグ。切り刻んだ野菜を混ぜ込んで
ハンバーグを作った。

ゆでたまごも5さいくらいまで食べられなかったと思う。

ぶつぶつ言いながら、でもすこしづつ、諦めずに
色んなものをトライしつづけた。

最近は本当に色々食べられるようになって、感慨深い。

ホイシンソースという中国版甘みそを炒めた挽肉に混ぜて
レタスに包んで食べるレタスカップという料理も最近
食べさせたら、なんとか食べていた。

魚もサーモンと白身魚とツナとまぐろなら、オッケーである。

涙ものである。

話は変わりますが、わたしは食べることに貪欲で、小さい頃は
食べたいと思ったら母親の目を盗んでも食べるような子供だった。

今はどうだか知りませんが、父の葬式に飾られた花輪は
缶詰の詰め合わせだった。

その中にスイカの缶詰があった。

スイカのシロップ漬けである。

父の葬式は冬の寒いときだったので、
「寒いときにスイカが食べられる!」と喜んだ私、
こっそり缶を開けて食べた。

缶切を使ってこっそりあけた5歳児。その貪欲さ。
あっぱれである。

でも、ゲロまずでした。

すぐさま吐き出して、こっそり捨てました。

後で母に告白したような記憶がすこしあるような
気がするけど、はっきりは覚えていない。

まずかったスイカの缶詰の記憶のほうが、数百倍
強烈に覚えている。

スイカは生に限る。

話は逸れましたが、味覚は個々人によって違う。
抵抗なく色んなものを食べる子もいるけど、
そうじゃない子もいる。

でも、全くダメというわけでもなく、身体能力が成長によって
少しずつ高まるように味覚も成長するようだ。

で、ふと無理なく食べられるときがくる。

でも、どうがんばってもダメなものはダメということも
あるかと思う。

そこが微妙なところだ。

何でも食べさせましょうって、時が来ていないのに、
拷問のように食べさせるのはどうかと思うし
食べないからといって落ち込んだり心配するのも無駄だと
分かった。

少しづつ、少しづつの継続かなと思う。
で、幅が広がっていく。

私の場合、家族で外食をしたい。
おいしいものを食べに行きたい。
自分が食べたいものを遠慮なく料理したい。
(今は子供が食べられるものを考えて考えて作ってますから。)

その切実な思いが、継続して子供を訓練しつづける
原動力になっているんだと思う。

貪欲なのは、5歳のときから変わっていないようで・・

無邪気な罪

2009年09月07日 16時56分49秒 | Web log
先週、学校にジョナサンを迎えにいったら
「学校で64ドル拾った」という。

「じゃ、オフィスに届けなくちゃね」と答えると

これ以上、嘘は通用しないと思ったジョナサン、
すぐお金の出所を白状しました。

「ティモシーが、僕にくれたんだ。ティモシー、
僕にポケモンのゲームを買って欲しいんだって。
だから、このお金で買うんだ。」

何を言っているのか、最初はいまいち真相がつかめなかった
のですが、色々話を聞いてみると、

①ジョナサンが、ポケモンのDSゲームを買うために一生懸命
お手伝いをして小銭を稼いでいることを親友のティモシー
に話した。

②ティモシーはジョナサンを助けたいがために、一日も早く
ゲームを手に入れてもらいたいがために、自分がお金をあげる
約束をした。

③家族の誰にも言わず、自分の貯金箱からお金を学校に持ってきて
ジョナサンに渡した。

④だから、ダディにもティモシーのお母さんにも誰にも話さないで欲しい。

という内容でした。

ようやく真相がつかめたときに、実は感動しました。
なんと麗しき友情。まだ子供なのでお金の価値を分かっていない
とはいえ、友達を助けたいために自分のお金を差し出すティモシーの
心に感動しました。

でも、きちんと筋は通さなければならない。

お金の価値もまだ分からないのに、親に内緒で友達にあげたのは問題。
たとえティモシーの親が了解したとしても、家ではそのお金は受け取れない。

でも、2人の純粋な気持ちに傷をつけたくない。

相手を思うティモシーの気持ちを大事にしてほしいから、頭ごなしに
怒ってほしくない。

と悶々と考え、マイクが帰ってくるのを待ちました。

運悪く、その日はマイクの帰りが遅く、本当なら一刻も早く、相手方に
電話をすべきなのは分かっていましたが、結局翌朝になりました。

で、一通りマイクに説明した後、ジョナサンからは「ダディには内緒
にするようにと言われている」ことを伝えました。

で、偶然マイクがそのお金をジョナサンの貯金箱(透明)から見つけた
ことにし、ジョナサンにといだだし、話を聞きだしました。

そして、お金をもらったことよりも、父親に内緒にするように
母親に強要したことが大きな間違いであること、ティモシーが親に内緒で
そのお金をジョナサンにあげたことも正しくないこと。そのお金は即
ティモシーに返さなければいけないことを、言い聞かせました。

翌朝、マイクが相手方に電話をし、ティモシーのお母さんも
わたしと同じようにティモシーの友達に対する思いを尊重したうえで
親に内緒で友達に大事なお金をあげるのはよくない、とよく言い聞かせた
とのことでした。

その後、ティモシーのお母さんに直接話を聞いたら、一通り怒られた後
ティモシーは「すぐに学校に行かなくちゃ!」と言ったという。
学校に行く時間にはまだまだ早かったので、「なぜ?」と聞いたら

「一刻も早く学校に行って、ジョナサンに謝らなくちゃ。
だってこれは僕らのピンキープロミスだったから」だそうで。

ピンキー・プロミス=小指の約束です。

2人の無邪気な罪にとても愛おしさを感じました。

悲しみを止めてはならない

2009年09月07日 16時01分20秒 | Web log
今、ちょっと気になっている禅僧の書いたエッセイの
中にこんなことが書いてありました。

1年前に息子さんを突然交通事故で亡くした中年夫婦の
話を聞いていた時の話です。

『私はしばらく言葉が出ませんでした。ただ、旦那さんと
このご婦人の顔、そして気丈に振舞ってはいるものの、
どこからか悲しみが染み出してくるように見える
奥さんの顔を見ているうちに、こう思いました。

この人たちの悲しみを止めてはいけない。今は十分に
悲しむべきときだ。悲しみに沈んで当然のときだ。
ただ、上手に悲しまないといけない。その悲しみが
自分と他人を傷つけないように、悲しみの流れを
導いていかなければいけない。』

身近な人の死はどんな人にも危機的な精神状態を
もたらす。

悲しみ、怒り、無念、深い喪失感、絶望感・・・
言葉では言い尽くせない深い闇が心を覆い
尽くす。

僧侶は言う。

『その悲しみが自分と他人を傷つけないように』と。

死によってもたらされる悲しみが、どれだけの力を持ち、そして
研ぎ澄まされた剣のように人の心に大きな傷を残し、その傷が
他人をも傷つけてしまう力をもちうると見抜いている僧侶に
わたしは心底共感しました。

受けた悲しみは痛みとなり、そして自分や他人を傷つけることに
よって逃れの道を探ろうとするが、結局それはその傷を深めている
だけにすぎない。肉体の傷が自然に癒されるように、いつか
心の傷もあるいは自然に癒えるのかもしれない。

しかし保障はない。

そして彼がその中年夫婦の救われない悲しみをどのように導いたのか
とても興味深く思いました。

『と、ここまで思ったとき、ふと気がつきました。恐山は自然に
その導きができるのではないか。人が変な理屈をつけるより、
恐山に任せたほうがよいのではないか。』

何も答えらしい答えを出さなかった僧侶に出会えた夫婦は
大きな慰めを得たことと思います。

たとえ彼の口からでた慰めではなかったとしても。

ときにそれは、もっと大きなそして深いものになりえるに
違いありません。

心というのは、消して理屈では癒せない。

Farther's Day

2009年09月07日 15時08分52秒 | Web log
昨日は父の日でした。

ジョナサンは学校で、お父さんについて書いた絵本やら
手紙やら書いてきて、それ以外にもプレゼントを作って
持って帰ってきました。

わたしは、滅多に自分で洋服を買わないマイクに
ポロシャツとショーツを準備しました。

で、食事をどうしようかなぁと考えていたときに、
英国式サンデーディナーにしようと思いつきました。

サンデーディナーとは、毎週日曜日のお昼に食べる伝統的な食事です。

ローストビーフ、温野菜(にんじん、芽キャベツ、グリーンピースなど)、
ヨークシャープディング、そしてポテト(マッシュポテトだったり、
茹でたものだったり)がお皿に乗ります。

イギリスに遊びに行くと日曜日に必ずマイクのお母さんが作ってくれた
食事です。

ジョナサンが食べてくれるかどうか不安でしたが、純粋にマイクの
ために作りました。

ローストビーフの焼き加減、芽キャベツの茹で加減など
ちょっと不安でしたが、なんとか完成。

ワインと共に食事をしながらひと時、お父さんとお母さんの話に
花が咲きました。

私「お母さんのローストビーフはもっとバサバサだったよね。
あのバサバサ加減は、グレービーソースに何気に合うんだね。」

私「芽キャベツは、もっと軟らかかったような気がするけど。」
マイク「だから、DADはいつも文句言ってたのさ、柔らかすぎるって。
このくらいのほうが歯ごたえがあっていいんだよ。」

ジョナサンは、ヨークシャープディングを気に入ったようで
ムシャムシャ食べてました。

そんな彼を見て、なんだかうれしくなりました。
新しいものは見ただけで「おいしくない」と決めてしまう
ことが多いジョナサンですが、ヨークシャープディングには
抵抗がなかったようで。

お父さんもお母さんも、もう亡くなってしまい、
この話を分かち合えないのが本当に残念です。

サンデーディナー、もうちょっと頻繁に作らなくちゃなぁと思いました。

無神経な『慰め』方

2009年09月04日 22時37分36秒 | Web log
なぜか勝手に話を『まとめて』しまう人がいる。

私がしばらくの間、具合が悪くて大変だった直後、
「でも、もう良くなったんでしょ?」とか、
「こどもじゃなくて良かったね」という。

内心「それは私が答える領域だと思うんだけど・・」と思う。

更に「○○さんも、うちもみんなインフルエンザにかかったんだよ」
と言われて

「それはそうなんだけれど・・そんな、一般化されても・・・」
とむっとしている自分がいる。

そして、「どうして、そうやって勝手に話をまとめてしまうのかなぁ」
と思う。

どうして「大変だったね」と言えないのかなぁと思う。

別に同情を求めているのではない。

問題はその人の無神経さ。

それがとてつもないことであればもちろん、たとえ些細なことでも、
つらさとか、悲しみとか、痛みというのは絶対的に個人のものであって、
他人には分かりえない。

『わたしはその人の気持ちが分かってあげられる』と断言する人がいたと
したらそれは傲慢ではないかと思う。同じ経験をしたから多少想像できる
ことができたとしても、それはその人の想像の域を超えることはできない。

私が私でしかありえないように、悲しみとか苦しみとか痛みも
その人のものであって、全く同じように感じることはできない。

でも、分かってあげられないことを承知の上で、でも少しでもその重荷を
共に負えることができるなら、そうしてあげたいと願うからこそ、
少なくともそれをそれとして受け入れてあげたいと、わたしは思うのだが。

「大変だったね」の一言で、気持ちがふっと軽くなるときもあるのだ。

上に挙げた人のように私個人に起こっている事柄を勝手に一般化されたり、
答えを出されたりすると、頭の中が???となる。

例えば、目の前に子供を交通事故で失った人がいたとする。
で、『あなたじゃなくて、良かったですね』とか
『でも、もう去年のことなんでしょ』なんていう人がいるだろうか?

あるいは『人はいずれ死にますから』なんて一般化したところで、
慰めにも何にもならない。

冒頭に書いた会話は、あまりに微妙すぎて、
「そんなことに腹を立てるなんて心が狭いよ」と言われそうだけれど、
こうやって極端な例を出せば、どれだけその人が言っていることが
無神経か分かってもらえると思うのですが。

考えすぎかな?




「巣立ちの時」なんて嘘っぱち?

2009年09月02日 20時58分05秒 | Web log
こちらもまだまだ肌寒く、不安定な天気が続いておりますが
日が少しづつ長くなっているのがわかる今日この頃。

単純に、うれしいです。

そしてくしゃみ、鼻水。花粉症?

春が近づいているのを感じます。

家にきれいな緑色をしたオウムが二羽毎日くるのですが、
ある日もう一匹のオウムも一緒に来ていました。

あぁ、家族なんだ・・・と思って様子を伺っていた
のですが、どうも一匹が、もう一匹を追い払おうと
している。

オウム同士のいじめかなぁ・・と思ってみていると
でも、追い払われている一匹が、必死でついていこうとしている。

近づいては追い払われ、また近づいては追い払われを
何度も繰り返していた。

もしかして、これは家族かな?と思い始めた。

お父さんとお母さんそして子供。

子供を独立させようと、父親は必死で子供を追い払おうとしている。

でも、子供はまだ一緒にいたくてしょうがないのかな・・

まだ繁殖期ではないですが、春になったら繁殖期に突入するので
いつまでも親と一緒じゃ、独立して家庭をもてないわけですね。

だから、親は必死で、それこそ必死で追い払う。

日本で「パラサイト」なんて言葉が流行りましたが、
それは自立しない子供の責任もさることながら
自立させない親にも問題があるんじゃないのかなぁ
なんて思います。

ま、日本は母子癒着社会ですから。

父親は会社でほとんどの時間を過ごし、母親は子供に依存する。
そして子供は母親に依存するという構造ができあがっていますから、
これを変えるのも難しいかと思いますけれど。

「必死に追い払う」ことに親(特に父親)が果たすべき責任が
あるのではないのかな、なんてオウムを見て考えました。

そして、実は「巣立ち」なんてうそっぱちで、自然に巣立っていく
のではなく巣立たざるを得なくなるというのが本当に近いのでは
ないかなぁなんて思ったり。

「子供にしても親にしても、なんだか切ないね・・・」と
自分で作り上げたストーリーに感傷的になってしまった私。

そうじゃないかもしれませんけどね。ハハハ

Wii Fit がんばってます

2009年09月01日 15時36分42秒 | Web log
Wii Fitを始めてから12日が経過しました。
中3日くらい、休んだりしましたが、いまのところ
毎日30分を目標にがんばってます。

主にヨガとワークアウトを中心に。

体中の筋肉、結構痛いです。

いろんな筋肉を使うので、肩の周りとか、おしりとか
そういうところまでエクササイズされているみたいです。

体重はずっとフラットです。脂肪が落ちて、筋肉にかわっている
といいのですが。

さて、新型インフルエンザの流行とともに冬に突入したパース。

わたしたちがインフルエンザに感染したときは、流行の
真っ最中。検査をしても、検査の処理が追いつかない状態で、
よっぽどの重症患者にしか検査をしなくなりました。

ところで、日本では季節性のインフルエンザだと、その場で
すぐ判断できましたけれど、こっちにはそういうのがありません。

Pathorogyというところにサンプルが送られて、1週間後に結果が
お医者さんのところに送られてくるというシステム。

だから、24時間とか、48時間が投薬リミットのインフルエンザでは
まったく機能しないシステムなんですね。

で、もともと必要がないかどうかはっきりしなければ、無駄な薬は
処方しないという感じなので、インフルエンザらしき症状が
あっても、タミフルの投薬もなされぬまま、インフルエンザは
ウイルス性ですから薬の処方はありません。状態が悪化したら
またきてくださいってな感じで、治るのを寝て待つしかありません
でした。

マイク曰く「だから死亡者数が増加したんじゃないの?
僕たちにもタミフルすら処方しなかったでしょ?」

それもそうですけれど、こっちの人は熱がでたぐらいでは
病院に行かないということもあって、熱がでて2日も経ったら
タミフルとか効かないですからね。

だから、お医者さんも「良くなるまでゆっくり寝て、治してください」
くらいしか言えないというのが本当のところかと思います。

ここまでくると、病気に対する考え方というか
文化の違いなんだなぁと思います。

本当に必要でなければ、薬を処方しないというのは薬に依存しがちな
日本に比べると、いいかなぁとも思うのですが。

自然に治るなら、自然に治しましょうという感じ。

でも、新型インフルエンザは、ちょっと違いますよね。

ということで、日本ではこんなことはないと思われますが
流行のピークが無事に収まることを願っています。

署名

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