さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

祈り

2011年03月21日 20時37分34秒 | Web log
人間というものは、最後の最後はそれが正しいか、正しくないかよりも

「信じたいことを信じる」ものなんだなぁと、今回の原発の件で 思いました。


つくづく、本能は理性を凌駕するものなのだと思いました。


専門家の意見も立場によって「安全」という人もいれば「きわめて危険」という人もいたりして

もともと原子力発電に否定的な人は「危険度」を強調しているし

必要不可欠と思っている人は科学的なデータを元に「まだまだ安全なレベル」であることを主張する


結局、立場によって意見が異なるということは

根本的に何を信じているか?が基本にあって、それを元に理論を構築しているにすぎない。

理屈なんて、自分が持って行きたい結論にもっていくためのものなのでしょう。


批判とかするつもりはまったくなく、人間も所詮動物ですし、自分だって実際現場近くにいたら

どのような行動、言動をとるかわからない。


私に関して言えば、遠くにいるから、理性を働かせようとする余裕のようなものがあるに

過ぎないのだろうと思います。


これだけの災害に地を揺り動かされた 日本中が 

一体、何を信じればいいの???

という問いかけをし続けている状態なのかもしれません。



New York Times のウェブサイトに掲載されている 地震の写真を見ました。

http://www.nytimes.com/interactive/2011/03/12/world/asia/20110312_japan.html#10


ただ、ただ 言葉を失います。

これだけの状況に曝されてしまったら、感情的に負のスパイラルをたどるのも、
当然といえば当然なのかもしれません。


こんなときに、安全だとか、希望を持てとか、そういう言葉が耳に届いても

何も聞きたくないほどの

無力感に打ちひしがれてしまうのが


人間として 当然の姿なのだと思います。


無念にも命を落としてしまった多くの多くの人々も

そして生き延びて、地獄絵を見た人々も

救援活動のために現地入りした自衛隊を始めとする人々も

テレビ等のメディアを通じてこの悲惨な状態を目にした人々も


一体、どんな思いを抱えているのか


声にならない慟哭 が 天にこだましているような

そんな 気がして仕方がない


*******************************


どうぞ


津波にさらわれていってしまった

光も届かない 深海深く閉じ込められた 無念の嘆きが 


わたしたちの 祈りと共に

天高く 上っていきますように


そして


『希望』という命となって わたしたちの心に甦り


再び、力強く歩き始める 力となって


行く手を照らす 光となって


わたしたちを支え、導いてください

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