さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

神様はいじわるだ

2009年09月19日 08時27分56秒 | Web log
ジョナサンが4歳のとき、おじいちゃん(マイクのお父さん)
が亡くなった。

オーストラリアに遊びに来た後、末期がんに冒されていることが
わかり、1年半の闘病を経て亡くなった。

亡くなる前に、6ヶ月になるベンジャミンを連れてみんなで
イギリスに行った。意外と元気そうに見えた。
それから半年後、いよいよ危篤だと連絡が入り、マイクが
ジョナサンを連れてイギリスへ向かった。

どの程度かわからないが、ジョナサンはマイクの傍らで
その経過を見ていた。『死』を経験した。

それからというもの、ふとスイッチが入ると、突然、泣きだす。

2、3週間前は「シュレック」のDVDを見ているときに突然泣き出した。
シュレックですよ、シュレック。娯楽映画ですよ、ごらく!!!

おとといは、友達のうちで日が暮れるまでそれはそれは楽しく遊んだ後、
帰宅する途中の車の中で。

で、

「死にたくない」

「誕生日なんかこなくていい、大きくなりたくない。大きくなって、
年取ったらみんな死ぬんだ。ママもダディも僕も死ぬんだ。」

「神様はいじわるだ。どうして人はずっとずっと生きられないの?
おじいちゃんも、おばあちゃんも、もう1人の会ったこともない
おじいちゃんもみんな死んじゃった。会いたいよ。さびしいよ。」

などと、私に訴えてくる。

まるで、父を亡くしたときの自分を見ているようで辛くなる。

何から何までマイクに似ているジョナサンだけれど、こういうところは
わたしの小さいころと同じだ。残念ながら、感受性の強い子だ。

感受性が強いって、損だと思う。負う必要のない余計な悲しみとか
痛みまで背負ってしまうから。

ま、変えようがないので、仕方がないけれど。

で、ジョナサンが泣き出すと、ジョナサンを抱きしめながら
一緒に泣いてしまう。一気に5歳の時の私に戻ってしまう。

で、親として何を言うか。

何も言えないです。

黙って一緒に泣いて、その悲しみを受け取るしかない。

色んな宗教が死んだあとどうなるかについての答えをだしています。
けれども、それと、死別の悲しみは別問題だということが、置き去りに
されているような気がする。

単純に「会いたいのに、会えない」「話したいのに、話せない」
無念さをどうして否定できよう。

無教会主義を提唱した、キリスト教思想家である内村鑑三が
愛娘ルツ子を病で亡くした際に、お葬式の場で「バンザイ」と
叫んだという逸話を聞いたことがあります。

偉大な思想家について、こんなこといっちゃっていいかと
思いますが・・・・





それって強がりなんじゃ・・・・・ね?






大好きだったら、もう一度会いたい、会って話がしたい
と思うのが普通じゃないですか?
悲しみに打ちひしがれてもいいじゃないですか?
落ち込んだっていいじゃないですか?


ねぇ?


悲しみや痛みが深ければ、深いほどその人を愛していた、
必要としていたという証かと思うのですけれど。

それに神様がいたら、悲しんでいる人をとやかく言わないと
思いますけどね。

でも、逆にジョナサンのように「神様はいじわるだ」と
言う人がいてても、神様は「そんなこと言われても・・ねぇ。
わたしを恨んでもいいですけれど、こればっかりは、
どうしようもないのですよ。」としか、いいようがないと
思います。

理由はどうあれ、生きている限り、死んでしまうのは
必然だから。

じゃ、なんで最初っから人間を死する存在に定めたのかって?

「死」がないところに、神という『概念』は存在し得ないからだ
と私は思うのですが。

反論をお持ちのみなさん、どうぞご自由につっこみを入れて
ください。

よろしく。




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