さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

小林秀雄の言葉『命の力』について

2010年02月19日 22時13分22秒 | Web log
小林秀雄の言葉

「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。
この思想は宗教的である。」

に出会った。

この言葉を引用して、宮本輝が

 ――私はなぜ小説家になれたのか。そんなものに答えはない。
だが、自分の背負ったノイローゼという病気を、わが内的必然と観じたとき、
私は初めて肚が決まったのである。そこから私の中にある命が湧いた。――

と語っている。

とても勇気付けられる言葉ではあります。

(わたしはノイローゼではないですが、負の経験をプラスに変えうる可能性
あるという意味で)

運命とか、神の摂理とか、因果とか、宿命とか、『外的偶然』を『内的必然』
として表現するいろいろな言葉がありますが、
それを信じるかどうかは別として、どこまでいっても人間は自分の人生に
意味のようなものを見いだしたい生き物なんだと思います。

運命か、それとも神か、とにかく何かを呪ってしまいたいほど、『外的偶然』によって
身に降りかかった負の出来事を前向きに解釈しようとするときに、内的必然として
受け入れるのに『それが起きてしまった意味』のようなものが必要になるのだろう。

確かにそうかもしれない。

それで後ろ向き、あるいは絶望していた心に、力がわいてくるときが
あるのかもしれない。

それで本人が納得、あるいは救われるのならば、いいこと
なんだと思う。

でも・・・それには時間がかかると思う。

間違っちゃいけないのは

あくまでも本人が時間をかけて、そのように解釈し、受け止める
作業をしなければならないのであって、第三者がそれを利用して
慰めたり、励ましたりするのは、むしろその人の心を
ズタズタに傷つけてしまうということだ。

余計なお世話なんである。

逆に、その痛みの中にある本人も、無理やり自分の心のありようを
矯正するかのように、早急に『内的必然』を無理やり当てはめて解釈する
必要もないのだと思う。

目の前にそういう人がいたら、わたしは心の中で

とても勝手に

「嘘くさい」と思ってしまうに違いない。

ひねくれものですから。

本人も本当の気持ちに気付かずに、本気でそう思っているの
かもしれないのだけれど・・・

時間が経って、自然にそうできる時間がおとづれるときがくるまで、
それをそのままにしてたって、いいんだと思う。

命の力が生まれるときまで。

時が満ちれば・・・・と、わたしは思う。

でもですよ、失意を残したまま・・・というのもありだと思うんです。
「命の力」が全ての人に生まれてくるか、というとそればっかりではない。

わたしは愛する人を病気で失い、失意を残したまま、後を
追うように自らも病で亡くなっていった人を知っている。

確かに病だった。でも、病気以前に、命の力をなくしていたか
のような最後だった。

残された人にとってはとてもつらい出来事だったが、
寄り添うように生きてきた2人にとっては、それが
必然だったのかもしれないとも思う。

もっと強く生きて欲しかった、とわたしを含め、回りの人々は
今でも思っているのだけれど・・

でも、それを本人が望んでいたかどうか・・・
実際のところ、望んでいなかったのでは・・・

と、思う。

命の力・・・ある意味わかるけど、でもわからないなぁ。

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