日本古来の生活様式の中では日本人は自然に
丹田力が鍛えられていました。
床に座ることで、あぐらや正座が常であり、
また、着物なので帯を着用することになり
丹田が意識されます。
なぜ丹田をコレほどまでに重視するのか。
一つは、天地が始まる以前の気元精(げんせい)を内包しており、
一切を生み一切を存続させる根元の気を
我々は丹田に持っているということであります。
もう一つは、身体能力力学的な考察から、
丹田から近いところを重心とすると
上半身から余分な力が抜け、頭が平静となり
心身が安定し、上虚下実の構えとなります。
すると日常生活において、脳の働きと丹田力が
調和した動きとなり、能率的に動きやすく
疲れが少なくなるという点でございます。
禅においては、姿勢を但し、丹田に気を落着け
公案を工夫し、心身脱落、自由自在の境地に至り、
自らの仏性を悟るのでございます。
日本古来の武術でも、日々形を鍛錬し、丹田を創り上げ、
いかなるときでも丹田を中心とした動きが自然に表現され
心身共に自由自在の境地に至り、
自らが神仏、万物一体、宇宙であること
大悟に導くものであったのです。
剣を用いる場合、小手先で相手を制するのではなく、
肚(丹田)でもって相手を制することが肝要であり、
弓を引くのも、的に当てる術は、
肩でもなく、肘でもなく、指先でもなく、力を抜き
身体の中心であるから発する一揆を貫通させて、
矢を放つ前に的を貫くことであります。
剣豪・山岡鉄舟が丹田について
「およそ撃剣は敵の身構えに、心を置いてはならない。
ただ心を常に丹田に置いて斬ろうとも思わず、
斬られるとも思わず、思案分別を棄て果てて、
敵が太刀を振り上げるのを見るや否や、
そのまま直ちに入らなければならない。」
と言葉を残しています。
もはや思いめぐらすことも忘れ、敵も我もなく、
道具もなく、人もいない境涯に至って、
ただ丹田の一気から発するのだ。と。。
星のようなヒトデのような飾りの位置が丹田です(しばらくするとズームインします)
さて、我々も日常生活において丹田力を
鍛錬なしに(笑)使ってみたいところです。
座っているのなら腰骨を立たせ、臍下丹田を意識し、
そこから丹田力が満ち溢れ、白色光線に己が包まれている
イメージをするだけで、他人に押されてもびくともしなくなります。
そして、手を触るものに自らの丹田力が伝わっていることを
イメージするのもよいのではないでしょうか。
これは、妄想ではなく丹田力を使う極意なのです。
すると上半身から、いい塩梅に力が抜け、
心と身体が安定し、全身が個々の動作に協力し合い、
人間として最も自然な動きとなるじゃあーりませんか。
このことは、奇跡の書「ヒマラヤ聖者の生活探求」第3巻では
イエス・キリストが盗賊を丹田近辺から白色光線を出し、
一網打尽にするシーンがあります。
「イエスが語り終わると、その聖体の太陽叢の真中から、
目も眩むばかりの純白の光がサッと渓谷を貫き、
先駆して行く群盗の少し先の峡谷が、急角度で左折する
あたり近くまで放射された。」
ここまで来るとヘソで茶を沸かすことなど朝飯前だと思われますw
臍下丹田の力でお笑い界トップの位置に君臨しているw
※参考文献 古武術と身体 大宮司朗 原書房
丹田力が鍛えられていました。
床に座ることで、あぐらや正座が常であり、
また、着物なので帯を着用することになり
丹田が意識されます。
なぜ丹田をコレほどまでに重視するのか。
一つは、天地が始まる以前の気元精(げんせい)を内包しており、
一切を生み一切を存続させる根元の気を
我々は丹田に持っているということであります。
もう一つは、身体能力力学的な考察から、
丹田から近いところを重心とすると
上半身から余分な力が抜け、頭が平静となり
心身が安定し、上虚下実の構えとなります。
すると日常生活において、脳の働きと丹田力が
調和した動きとなり、能率的に動きやすく
疲れが少なくなるという点でございます。
禅においては、姿勢を但し、丹田に気を落着け
公案を工夫し、心身脱落、自由自在の境地に至り、
自らの仏性を悟るのでございます。
日本古来の武術でも、日々形を鍛錬し、丹田を創り上げ、
いかなるときでも丹田を中心とした動きが自然に表現され
心身共に自由自在の境地に至り、
自らが神仏、万物一体、宇宙であること
大悟に導くものであったのです。
剣を用いる場合、小手先で相手を制するのではなく、
肚(丹田)でもって相手を制することが肝要であり、
弓を引くのも、的に当てる術は、
肩でもなく、肘でもなく、指先でもなく、力を抜き
身体の中心であるから発する一揆を貫通させて、
矢を放つ前に的を貫くことであります。
剣豪・山岡鉄舟が丹田について
「およそ撃剣は敵の身構えに、心を置いてはならない。
ただ心を常に丹田に置いて斬ろうとも思わず、
斬られるとも思わず、思案分別を棄て果てて、
敵が太刀を振り上げるのを見るや否や、
そのまま直ちに入らなければならない。」
と言葉を残しています。
もはや思いめぐらすことも忘れ、敵も我もなく、
道具もなく、人もいない境涯に至って、
ただ丹田の一気から発するのだ。と。。
星のようなヒトデのような飾りの位置が丹田です(しばらくするとズームインします)
さて、我々も日常生活において丹田力を
鍛錬なしに(笑)使ってみたいところです。
座っているのなら腰骨を立たせ、臍下丹田を意識し、
そこから丹田力が満ち溢れ、白色光線に己が包まれている
イメージをするだけで、他人に押されてもびくともしなくなります。
そして、手を触るものに自らの丹田力が伝わっていることを
イメージするのもよいのではないでしょうか。
これは、妄想ではなく丹田力を使う極意なのです。
すると上半身から、いい塩梅に力が抜け、
心と身体が安定し、全身が個々の動作に協力し合い、
人間として最も自然な動きとなるじゃあーりませんか。
このことは、奇跡の書「ヒマラヤ聖者の生活探求」第3巻では
イエス・キリストが盗賊を丹田近辺から白色光線を出し、
一網打尽にするシーンがあります。
「イエスが語り終わると、その聖体の太陽叢の真中から、
目も眩むばかりの純白の光がサッと渓谷を貫き、
先駆して行く群盗の少し先の峡谷が、急角度で左折する
あたり近くまで放射された。」
ここまで来るとヘソで茶を沸かすことなど朝飯前だと思われますw
臍下丹田の力でお笑い界トップの位置に君臨しているw
※参考文献 古武術と身体 大宮司朗 原書房
ヤッズ★の場合、、、、
↑
ここが丹田ということになりましょうか!
これからPCの前では姿勢を正しく中腰にせねばならなぬことが、今回の記事でよく分かりました。早速、く実行です。
>ヤッズ★の場合、、、、
↑
これは、前張りだと思っておりましたが。。。
>これからPCの前では姿勢を正しく中腰にせねば・・
夏なんで、中腰でPCに挑むと、実相顕現となる前に
つい口からエクトプラズムを漏らしてしまいそうでつΣ(゜д゜lll)
丹田に蓄えられた気は、ミトコンドリアの活性につながり、生命活動の源となる。三位一体とは、バクテリア、古細菌、ミトコンドリアのDNAことをいうのでしょうか。
気が丹田に下がらず、頭が爆発しそうです。
しかし、あうわさんのブログを拝見していると、
丹田からふ気出してしまいまする。。
>よく、人の体にメスをいれてはいけない・・・
人間の体には、不要なモノが無いようですが、
旧西洋医学では、人体を個別にパーツとして観ていたことや
見えない体(霊体)の存在を認めない為
病んだ箇所を削除してしまえば治るという考えが主流だった為では、ないでしょうか。
>丹田に蓄えられた気は、・・・生命活動の源となる。
おっしゃるとおりだと思います。
先天の氣(父母から受け継いだ元精)と後天の氣
(食物や呼吸等)等見えないけど大切なものが
細胞に動めいているのですねぇ。
>三位一体とは、バクテリア、古細菌、ミトコンドリアのDNAことをいうのでしょうか。
どうなんでしょう、いろんな見方ができますね。
>気が丹田に下がらず、頭が爆発しそうです。
クンダリー二が下がりませんか?
以前、危険な状態になり、人体の穴という穴から
意識で放出させたことがあります。
人間やればできるもんですね。
男性だったら精液を大放出させる手もありますが。
最終手段として、夏なのでエクトプラズムを
放出させると大喝采を浴びるようですが((((*´ー`)