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オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

売られ続ける日本 買い漁るアメリカ(本山義彦)

2013-03-29 | 読書

1998年、USTR(米国通商代表部)は既に日本に外圧を加えて規制緩和をさせる方針だった。
レポートの表現がすごい。「飴と鞭を持って、棍棒を持って穏やかに話する術、外圧の行使を躊躇すべきではない。」日本市場を開放してアメリカと一体化させる意図はそのときから既にあったのだ。小泉内閣の構造改革はアメリカのこの方針に忠実に従うものだった。核の傘ならぬ経済の傘と言う表現がされている。「国際法上かなり問題のある条項を短期的個別的な貿易問題に限定してしまうと、日本は猛反対する。そうさせないために包括的な長期取り決めを締結し日本の歴史的遺産を守ろうとする日本の姿勢をそらすことができる」と実に明快に書いてある。「交渉のトピックは医薬品、会計基準、小売流通、税制、投資、政府調達、専門家の認定制度、試験制度などの国内規制が含まれることになる。」この戦略を受け入れさせるためには「日本企業をたたくのではなく、広範囲な企業、労働組合、消費者、環境保護団体を取り込む必要がある。特に規制を行う官僚に対しては政治家のトップが直接的に関与する体制を構築して強く当たるべきである」と内政干渉に当たる戦略まで考えている。「東京に対して、この構想を真剣に実施しないと安全保障上の代価が大きいことを理解させ、同時にオセアニア、シンガポール、韓国との間で構想を実施すべきである。これらの国と構想を実現していけば日本も参加するようになるだろう」とレポートは告げる。表向きは共和党が発議したものとされるがロックフェラーが共同議長を勤めている。アメリカの金融資本の戦略なのである。そして小泉内閣がこの通りのことを実践して大成功?を収めたのである。

ここまで読むと、こういう長年のアメリカの経済戦略がTPPと言う形に結実し、日本はアメリカの思惑通りその手中に落ちたと言わざるを得ない。

アメリカの最大の目的は投資と医療、保険の分野だろう。
投資については「海外からの対日投資の促進、外国企業が日本経済に実質的影響を与えるために会社法の改正を行う、国内外の投資を容易にし、M&Aを行いにくくしている規制を取り除く」と2002年「日米投資イニシアティブ報告書」で明確に記述されている。韓国は1998年外資の100%出資を認める規制緩和を行い、敵対的M&Aを自由化した。1992―2002年の間に日本政府も19項目の外資規制緩和を行った。
医療では外資参入を実現させるべく、混合診療の解禁を既に2004年に求めている。患者の中にも混合診療解禁を求める声がある。混合診療を認めれば、保険外の高額診療を受けつつ、保険内で行える診療も同時に受けることができる。患者のメリットは大きいように見える。しかし、混合診療のシステムを作ってしまうと、今でも財政が逼迫している日本の保険制度ではどんどん保険外の診療が増えていき、今なら当たり前の保険診療も保険外高額診療となる可能性が大きい。アメリカでは病気になると、全財産を失ってしまう例は決して少なくない。現在、富裕層は高額診療を保険外で受けることができる。これを一般にまで拡大する混合診療は金の切れ目が命の切れ目と言う状態を拡大することになる。
アメリカからすれば、高額の認可されていない新薬を自己負担で使いやすくなる混合診療を認めさせれば、米国製の薬が日本で売れる。それが当面の狙いだ。
米国の医療費は一人当たり60万、日本は31万で、WHOの医療制度に対する評価は日本が1位、アメリカは15位である。
日本の医療システムを健康保険後進国のアメリカ並みのシステムに変容させようとするアメリカの狙いに日本の官僚は屈しようとしている。
そして実に、神戸に医療特区を設けて、ベクテルという巨大コングロマリットが都市再生プロジェクトを進めていると言う。

保険も外資系が参入してきて、日本の保険会社が苦しい闘いを強いられているのは周知の事実だ。製造業の空洞化と言う言葉が定着して久しいが、外資系の参入に日本人は鈍感に見える。外資系は土足で乱入、日本政府に規制緩和を迫り、効率優先、利潤追求のスタンスで日本社会そのものを変容させていく。
USTRの報告書によると「日本に参入するのは米国保険会社の権利であり、第3分野(がん、医療、傷害保険)を外資に提供し、日本大手の参入を阻止するのが日本政府の任務であり、そうした流れを作ったうえで新種の自動車保険などを米国の会社に提供すべきである。」
これは規制緩和どころではない。自国の企業の業態の拡張を妨害してまで米国企業を参入させる日本の政治指導者は売国奴でしかない。こうした背景があって、日本の第3分野の保険は完全に外資系に席巻されているのである。
アメリカの究極の目的は日本の医療と保険の巨大市場であることは明白だ。
「規制改革及び競争政策イニシアティブ」を協議する会合が2001年から8年間毎年もたれ、経済産業省のHPでその報告書がまとめられている。そこではあらゆる分野の構造改革が話し合われ、アメリカの方針が明示されている。その要望が完全には実現されなかったから、アメリカはより着実により強制的に効果が出る手段TPPを考えたように見える。

戦後史の正体(5)終章

2013-03-28 | 読書

第6章 冷戦終結と米国の変容
莫大な冷戦時代の防衛費でソ連は崩壊し、米国も多額な財政赤字に苦しむことになった。冷戦が終わったのだから防衛費は半分になってもいいはずだった。日本から米軍は引き上げても良かったはずだった。
しかしそうはならなかった。新たな仮想敵・悪の枢軸国を名指しすることで防衛力を維持する政策をアメリカは取った。当然、他国に経費・人員の負担を強いることになる。湾岸戦争で日本は総額130億ドルの負担をした。そしてなおかつ金だけ出して人的貢献はしないなまずるい国とされたのである。
そして冷戦後の最大の敵国は日本であった。それは日本の経済力の脅威だった。
経済的摩擦があって日本とアメリカの関係は悪くなる一方だった。これ以上日本が経済的に発展しないようにアメリカは工作をし続けた。

第7章 9.11とイラク戦争後の社会
9.11の報復のため、アメリカはアフガニスタンに攻め入り、それだけでは足りず、イラクに攻め入った。この時、日本はアメリカに要請されたから参加したのである。憲法9条がなかったら間違いなく戦闘要員としての参加だったろう。防衛経済両面で小泉内閣の対米従属路線は徹底していた。日米安保の範囲は極東から世界に拡大され、将来起こるかもしれない脅威を予防するために他国を攻撃することになり、日本もこれに協力しなければならなくなった。拒否すればどんな報復を受けるかわからない・・・・
そして経済面では規制緩和による新自由主義の経済政策、超格差社会の到来である。ゆうちょ銀行となった民間銀行は2009年、米国債を3000億円購入した。ついに国民の虎の子・郵便貯金を使って、米国債と言う不良債権を自由に購入できる時代になったのである。

 福田康夫首相とアメリカの軋轢がウィキリークスの暴露で明らかになった。
「ブッシュは洞爺湖サミットでアフガンへ陸上自衛隊の派遣要求」
「福田は派遣は不可能と返答した。」
サミット1週間後、「大型輸送用ヘリコプターの派遣、復興チームへの自衛隊の派遣、医療ネットワークの設置、アフガン選挙資金2億ドルの拠出、司法機関強化へ200億ドルの貢献」の要求を突きつけてきたと言う。さらに2008年金融危機が起こったとき、ファニーメイと言う住宅金融機関に融資の依頼が来ていたと言う。福田康夫は両方とも断ったと言われている。自分の首と交換に要求を蹴ったと孫崎氏は推測する。

 ここまで見てくると、鳩山由紀夫は米国のトラの尾を完全に踏んでしまったのである。「沖縄の米軍基地の見直し・地位協定の改正・東アジア共同体の構築」である。官僚・政治家・マスコミがよってたかって鳩山をつぶした。米国がつぶしたのではなく、日本の支配層がつぶしたのである。官僚や政治家達は米国の利益のために何もいわれなくても動く精神構造になってしまっている。アメリカの指示に従わなければ日米関係が悪くなる、どんな報復をされるかわからないから、アメリカのいうとおりにするのである。自己保身のために対米従属路線をとる政治家ばかりが目立つ。日本の未来は暗澹たる物である・・・・・・


戦後史の正体(4)

2013-03-27 | 読書

第5章 自民党と経済成長の時代
池田政権は安全保障面で対米従属路線を取ったが、経済面ではアメリカの反対を押し切って対中貿易枠組みを作った。外交追随、経済自主の形が自民党の基本パターンとなる。池田の所得倍増計画は1969年達成され、佐藤首相に政権は引き継がれる。
この頃の外務省は自主独立路線の官僚も多く、米国に対して批判的言動を取る人もいた。「核保有国が自分のところは減らそうとせず、他国に核を持たせようとしないのはだめで、大国本位の条約に賛成できない。他国の核の傘に入りたくない。大国に哀れみをこうて安全保障を考えるべきでない。」
こういう考えに基づき、核保有国の軍縮義務、非核保有国の安全保障の確約、原子力の平和利用を妨げないという政策を打ち出す。この動きは安保理決議として結実した。「核保有国は核を持っていない国に対して、核兵器を使ったり、使うと脅してはならない。」
佐藤は沖縄をはじめて訪れた際、「沖縄返還実現しない限り、戦後は終わっていない。」と格調高くぶち上げる。この言葉は外務省と打ち合わせなしだったという。そして訪米時、ジョンソン大統領から数年以内に返還と言う合意を取り付ける。この時交渉にあたった千葉北米一課長は「日本の要求を拒めば、琉球列島と日本本土の両方で基地を失ってしまうかもしれない」と言って米国を脅すこともできる人物だったと言う。
核抜き、沖縄返還が実現すると同時に2つの密約も結ばれた。
「核持込が必要になれば事前協議の上、持込ができる。事前協議は好意的な回答を期待する。」
「繊維製品の貿易の上限を定める。」
佐藤は密約はないという立場をとり、繊維問題では合意事項を実行しなかったと言う。
実質的には沖縄返還は密約により縄(沖縄)と糸(繊維)を交換したわけだが、佐藤は完全に繊維の密約をなかったものにしてしまった。そこからアメリカの報復が始まる。第一弾はニクソンの突然の訪中だった。中国政策については事前協議をする約束だったにも限らず、突然の訪中だった。第2弾の報復はドルと金の交換停止と10%の貿易課徴金だった。わざわざ8月15日を選んで発表したと言う。課徴金はその後円高となり、取りやめになったが、結局佐藤首相はその後まもなく辞任する。次の田中首相は日本の繊維業者に巨額の損出補填を約束し、繊維問題を一気に解決した。
当時の外務省が作成した外交政策大綱を読むと、その対米自立の姿勢に驚く。
・核抑止力、大規模の海空攻撃、補給力のみをアメリカに依存し、他は自衛力をもって当たる。
・在日米軍基地は縮小整理し、自衛隊が引き継ぐ
・国連軍に対する協力、状況が許せば、自衛隊派遣を実施する。
・軍縮で日本が米国の走狗であるとの印象を与えることの絶対ないよう配慮する。

田中角栄は米国に政治生命を絶たれた。なぜ・・・?
ニクソンの訪中の果実を横取りして先に日中国交回復をしたからだと孫崎氏は考える。キッシンジャーが「汚い裏切り野郎どもの中でよりによって日本人野郎がケーキを横取りした」と激怒していたとか・・・・田中と会って日中国交正常化を延期してくれと頼んだにも関わらず、田中は一蹴したと言う。中曽根康弘や田原総一朗は「田中のエネルギー自立戦略にオイルメジャーが反発した。」という説を取る。孫崎氏は田中の石油戦略が殆ど失敗した点を上げてこの説には懐疑的だ。

中曽根康弘は日本列島を(アメリカの防波堤になる)不沈空母にするといってアメリカのご機嫌をとり、日米間の蜜月時代を作り上げた政治家だった。しかし、その代償は大きい。潜水艦を見つける対潜哨戒機P3Cを百機以上購入している。これはソ連のICBM搭載の潜水艦をオホーツク海で見つけるためのものだった。表向きは石油を運ぶ海上交通路をソ連の攻撃から守るためとしてP3Cを購入している。潜水艦搭載のICBMに無防備である米国を守るために哨戒機を百機も購入させられたのである。この意味するところは恐ろしい。戦争の初期の段階から日本はアメリカの先兵として働き、真っ先に攻撃される状況だったのである。

日本にもたまには米と互角に対峙する政権も現れた。しかし、戦後70年、殆どの場合は米従属路線だった。しかも自主独立路線の政権は米の工作が入っているかどうかは定かでないが、疑獄事件等でつぶされ短命だった。
米国は朝鮮戦争のとき、ベトナム戦争のとき、自衛隊を使おうとした。この時、憲法九条があったから自衛隊の海外派兵を拒否できたのである。米従属路線の内閣も憲法九条があったからノーと言えたのである。今安倍政権は喜んで憲法九条を改悪しようとしている。安倍政権がたとえ自主独立の政権でアメリカの横暴な要求にノーと言えたとしても、近い将来、米従属の政権になったとき憲法九条がなければもはやアメリカの自衛隊海外派兵要請を断る理由はなくなる。アメリカの報復(意地悪)を恐れて国民の命をアメリカを守るために差し出すことになることは火を見るより明らかだ。憲法九条は国民の命を守る、自衛隊を日本を守るために使うことのできる最後の砦なのである。

経済的にもアメリカのやり方は汚い。日本が力をつけてアメリカをしのぐようになり、貿易摩擦が起きたときのアメリカのやり口を思い出して欲しい。自由競争の御旗を立てた自由経済の旗手アメリカが日本を標的に数々の無理難題を吹っかけてきた。自動車の自主規制、半導体協定(米国製の半導体を20%以上買うことを約束)、通商法301条による関税の100%引き上げ、そして極め付きがプラザ合意による極度の円高。ドル安になることを嫌ったアメリカは円の独歩高を仕組み、アメリカ市場のみならず、アジアにおける日本の競争力も壊滅的に破壊したのである。そして、日本の銀行7行が世界ランキングに入ってきた1980年代、「自己資本比率が8%を超えない銀行は国際業務をできない」と言うBIS規制で日本経済を徹底的に疲弊させてきた。もういい加減目を覚ました方が良い。これからまたTPPという罠をかけて日本に何を仕掛けてくるつもりなのか?不気味である・・・・・
製造業の衰退しているアメリカの狙いの核心は農業、医療、金融、保険あたりだろうか?日本の製造業がこれ以上アメリカマーケットに進出する枠はない様に思う。日本の製造業にとってこれからはインド・アジア・南米あたりが重要になってくる。アメリカの政策は時代によって大きく、そしてすばやく変わる。それに対応して機敏に対応できる日本は過去にも現在にも存在しない。アメリカのご機嫌をとりつつ、アメリカのおこぼれを享受する以外、日本の生きる道はないのであろうか。

戦後史の正体(3)

2013-03-26 | 読書

第4章 保守合同と安保改定
ダレス国務長官は「保守政党が一致して共産主義との戦いでアメリカを助けるなら経済的支援を期待してよい」と岸に言い、CIAを通じて自民党に政治資金が提供され続けたことがアメリカの公文書で明らかになっている。鳩山の退陣で首相になった石橋湛山も自主路線の推進者でアメリカと互角に渡り合った政治家だ。アメリカの北東アジア部長は「石橋は強情で占領中に追放されたという個人的屈辱を乗り越えられずにいる。対中貿易と沖縄問題に不安がある。我々がラッキーなら石橋は長続きせず、岸が首相になるだろう」と本音を漏らしていた。
石橋はアメリカの思惑通り、たった2ヵ月後、肺炎で激やせし、退陣したが、その後15年間も健在だった。
後を継いだのは新安保条約締結を強行した昭和の妖怪岸信介だった。アメリカに期待されて首相になった岸は当然親米派かと思うところだが、孫崎氏は岸は安保改定に尽力した自主路線の政治家だったと評価している。旧安保が不平等条約だったという認識の下に新安保を締結すべく、沖縄返還や行政協定の全面的改定にまで言及しているのである。岸はアメリカが期待する次世代の政治家として資金的援助をはじめ欧米旅行の手配やニューズウィークの支局長から英語のレッスンを受けるなど政界のエリートコースを歩いてきたものとして巣鴨拘置所時代から利用価値があると注目されていた。岸本人も冷戦後の世界でアメリカに使われることを意図し、自分の正しいと思う政策を実現しようとした気骨のある人物だったと言う。「政治と言うのは動機が良くとも結果が悪ければだめだ。動機が悪くても結果がよければいいと思う。これが政治の本質じゃないかと思う」岸自身の証言である。
岸はアメリカ陸軍の大幅な撤退や安保条約に基づくすべての措置が国連憲章の原則に合致することなどを求めて、アメリカとの協議に入った。しかし、アメリカ側は安保の改定には応じる姿勢は見せたものの行政協定の見直し要求には激しく拒絶する態度を崩さなかった。岸は「行政協定は全面的に改定すべきである」と国会で答弁したものの行政協定は地位協定と名を変えて現在もそのまま続いている。
岸内閣をつぶした安保闘争で驚くべき分析があった。安保闘争を支える全学連の資金は財界から流れ、財界の目的は岸打倒だったという。表向き全学連の資金はカンパや加盟校の上納金と言うことになっているが、多額の資金を財界のドンといわれる人々から受けていたという。唐牛健太郎が同郷の土建屋田中清玄からカンパを受けていた事実をさすものだろうが、はした金だったと記憶している。CIAから岸に流れた政治献金とは比較にならない。全学連を財界が援助し反安保闘争を盛り上げ、岸内閣打倒を目指したと言うのはちょっとかんぐりすぎだと思う。資金援助をしたドン・極右勢力と言われる田中清玄は、日本共産党の出身でその転向により誹謗中傷を受けたとも言われている。田中は、戦前の一時期、日本共産党の委員長を経験したのち、転向し紆余曲折を経て土建業者となった。また、その転向後の政治思想的な位置は、リベラル右派で、反岸信介闘争の資金援助を全学連に対して行ったとしても自然の成り行きである。田中は、反安保運動にシンパ的な論調で文芸春秋に記事を書き、それを見た全学連の幹部が資金援助を頼みに出向いたと言う経緯もある。田中清玄は高い知的能力をもちあわせ、国際的な学者たちとも親交が深かった土建業者であって、その後も就職の世話など唐牛の面倒を見ている。個人的な好意による援助だったと私は思う。

孫崎氏は「岸の自主路線を危惧したCIAや米軍関係者が工作を行い、岸内閣を反安保運動の盛り上がりを使って倒そうとした。そして樺さんの死亡で安保闘争が盛り上がり、岸の退陣の見通しがついた時点で今度はデモを押さえ込む方向で動いた」と分析する。昭和の妖怪岸首相も不平等協定である地位協定を改定できず、志半ばで引きおろされたということか・・・・・そう言う見方をすれば、岸内閣時、できもしない安保条約と行政協定同時改定を声高に叫んで岸下ろしに一役買った池田勇人の狡猾さがクローズアップされてくる。彼は財界の命を受けて岸引き下ろしに一役買い、その後政権を握ってからアメリカのちょうちん持ちになった。そして、徹底した「低姿勢」と「寛容と忍耐」を前面に打ち出し、国民との対話を重視する姿勢をとることに務めた。そして財界の覚えもよく、アメリカ従属路線をとり、所得倍増という看板を掲げ日本の黄金時代に突入していくのである。岸が悪者で池田が善人というようなイメージを持っていたが、岸のやろうとしたことを点検してみると逆の様相が見えてくる。マスコミも最初は安保反対闘争を支援する論説が多かったが、七社共同宣言でその論調が180度転換する。安保反対を書いていた記者は地方に次々と左遷されたそうである。こうしてその後不平等地位協定の改定をアメリカに要請する政治家は誰一人現れていない。

さて岸が政治生命をかけた新安保と旧安保の違いは何だったのだろうか?
・武力の行使は国際連合の目的に合致すると言う枠をかぶせた。
・共通の危険に両国が対処するよう明記された。
 しかし、「日本の施政下にあるところへの攻撃」「相手からの攻撃」に対してともに行動すると言う制限条項が盛り込まれた。米国の意図は当然もっと広い地域をカバーするものだったろう。しかし、集団自衛権を臆面もなく宣言する現政権とは異なり、海外派兵を行って日本人の生命をみだりに危険にさらすことを避け、旧安保にはなかったアメリカの日本防衛の義務化を明記することができたのである。岸信介は現実路線を歩みながら日本の国益を守ることに努力した政治家だったと言えるのかもしれない。


戦後史の正体(2)

2013-03-25 | 読書

第2章 冷戦の始まり
昭和の妖怪岸信介は巣鴨の獄中で1946年の時点ですでに冷戦の始まりを予想し、その進展を心待ちにしていた。冷戦が始まれば、米軍が自分の利用価値に気づくだろうという思惑からである。事実、アメリカの駒の一つ、日本は「二度と立ち上がれない状態にする」から、「ソ連に対抗するために日本を共産圏の防波堤にする」に変わっていったのだ。日本経済は「死体置き場」から「経済復興を目指す」という方針に様変わりし、戦犯は釈放され、政治界に復帰、まさに岸の予想したとおりになった。
そして朝鮮戦争が勃発し、日本に経済力をつけさせ、軍事力を利用しようというスタンスになり、日本を非武装化し米軍を早期に撤退させる方針だったマッカーサーは解任された。沖縄での駐留が恒久的になったのは、まさに朝鮮戦争勃発、冷戦の始まりが要因だった。
安倍政権が自製の憲法制定を目指しているが、日本の再軍備、戦力の向上は朝鮮戦争以来のアメリカの意志である。アメリカに協力してアメリカのために最前線で戦うという意志を国民が持つならば憲法改正もいいだろう・・・・・

第3章 講和条約と日米安保条約
サンフランシスコ条約がオペラハウスで48カ国の代表によって調印されたのに対し、安保条約は下士官クラブでたった4名、日本側は吉田首相一人の調印だった。時間的には講和条約-安保条約-行政協定の順序でサンフランシスコ体制はできた。アメリカ側の本当の目的は行政協定にあった。条約は国会での審議や批准を必要とするが、都合の悪い取り決めはすべて行政協定の方に入れてしまったというのだ。これは外務省の意向ではなく、「合意文書と言う形で密約を結び、国民の知らないところで運用してしまう」という姑息な素晴らしい手段を考えたのはアメリカであったという。もちろん日本政府が拒否できる立場になかったのは言うまでもない。
アメリカの重要条件は「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間駐留する権利を確保する」ことで、これは現在もそっくりそのまま受け継がれ、それに反した提案をした鳩山由紀夫が失脚したのは記憶に新しいことである。しかも安保条約の記述は「駐留軍を日本国の安全に寄与するために使用することができる」とあるだけで、法律的には日本を守る義務は生じないという。吉田首相はこの日本の主権を放棄した不平等条約に調印したのである。そして治外法権も認めた行政協定によって沖縄の人達に多大な苦しみを与え続けているのは周知の事実である。米軍の犯罪者は軍法会議にもかけられず、やり放題だった時代が長く続いたのである。
吉田内閣の退陣にも面白い見方があった。吉田茂は日本の再軍備に消極的だったから、退陣させられ、代わって日本の再軍備に意欲的だった鳩山一郎内閣が誕生したと言う。そして、この時、外務大臣だった重光は米軍撤退について驚くべき提案をしている。
6年以内に地上軍を撤退、それから6年以内に完全撤退、防衛分担金を廃止するなど、驚くべき内容が提案されていた。1955年の時点である。その頃の官僚や政治家には気骨のある人物がまだ大勢いたことが推察できる・・・・それが現在は沖縄普天間基地の移設問題、オスプレイ問題ですら、日本の言い分は一顧だにされない。鳩山は自主路線の政治家でソ連との国交回復に尽力した人物である。歯舞色丹の2島返還がダレスの恫喝で鳩山があきらめたことは有名である。
原発もアメリカの意向を反映したものだった。第五福竜丸の被爆により日本が反原子力、反米に動くのを阻止する妙案だった。正力松太郎の懐刀だった柴田秀利は「原子力は諸刃の剣だ。原爆反対をつぶすには平和利用を謳い上げ産業革命の明日に希望を与えるしかない」とアメリカ代表を前に熱弁をふるうと、そのときのアメリカ代表ワトソンは柴田の肩をたたいて「柴田さん、それで行こう」と彼をギュッと抱きしめたという。
このように長い間、アメリカに従属して繁栄してきた日本がいまさら自主独立の路線をとることは人材的にも不可能だ。東大や京大にもロックフェラー財団の資金が入り、親米派の学者でなければ生き残れない。米国に抵抗したり、批判したりすることで冷や飯を食わされるのを避けるのは当たり前のことだろう。アメリカの支配は70年の間に日本人の精神構造まで及んでいるように見える。この成功がアメリカを奢らせ、ベトナムやイスラム圏でも成功すると思ってしまったのがアメリカの覇権が衰退する間違った判断だったように思える。


戦後史の正体(1)

2013-03-25 | 読書

元外務省・国際情報局長孫崎享氏がアメリカ追随の日本の戦後史を読み解く。
第一章 終戦から占領へ
日本の軍部は開戦時と同じく、甘い状況判断で最後まで無条件降伏に反対していた。最後は玉砕・自害する。そして何人かは自害して責任を取った。しかし、こう言っては申し訳ないが、数人の自害で責任を取れるものではないほどの大罪を犯しつつ、最後まで国民に玉砕を強いたのである。結局、天皇のご聖断を仰ぎ、無条件降伏することに決まり、1945年9月2日、降伏文書に調印した。
最初の米軍からの布告は紙幣は米軍が印刷した軍票、裁判権は米軍、公用語は英語だった。この布告をマッカーサーに交渉して取りやめさせたのは重光外務大臣だった。重光は数少ない自主路線の人であった。その後首相になった吉田茂は基本的にはアメリカ従属路線の政治家でGHQのウイロビーと親しく、投宿していた帝国ホテルに足繁く通い、政策の決定や内閣の人選が行われたという。吉田の傲慢なイメージとは裏腹にアメリカに追随しなければ何事も決まらなかった現実があったのだろう。驚くことに米軍専用の慰安所の設立が決まったのが終戦3日目で政府の肝いりだったと言う。日本女性の純潔を守るために慰安婦を新聞で堂々と募集した事実は知っていたが、政府がここまで米軍にこびへつらっていたとは・・・・今もそれは変わっていない。
重光は日記に「節操も自主性もない日本民族は敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これを歓迎し、マッカーサーを神のように扱っている。自分の信念を持たず自主独立の気概もなく、強いものに追随する浮き草のような民族なのだろうか」と書いている。

東京裁判については犯罪ではなかった行為のために勝者が敗者を裁くのは常で、これは現在も堂々と行われている。各界の要職についていた人も19万人の規模で追放されたという。米国のご機嫌をとろうとする行為も仕方がないのかもしれない。
自主路線の重光は降伏文書に署名後わずか2週間で罷免され、その後戦犯として有罪判決をくだされている。吉田はマッカサーと対等に渡り合い、日本の経済的復興を成し遂げたように評価されているが、日本の復興は朝鮮戦争特需によるところが大きい。占領後、米軍は日本を徹底的に破壊した。「侵略したアジア諸国より日本人の生活水準が上であっていい理由は何もない。日本の占領統治は懲罰的であるべきで日本から戦争能力を剥奪するべきだ。」と言う方針のもとに工場施設の海外移転も検討され、米軍駐留費は国家予算の2―3割に達していた。減額を要求した石橋湛山蔵相は1947年、公職追放されている。米軍の風向きが変わったのは冷戦の勃発で日本の利用価値に気づいてからであった。
ブレジンスキーが日本を「安全保障上の保護国」と記述している状況は現代まで続いている。間接統治で決定命令するのはアメリカ、それを実現するのが日本政府と言う連携が戦後70年続いている。吉田首相は占領下の日本では類まれなる名役者だった。実質はアメリカの言いなりだったが、国民の目には互角にやり合っている、自主的に振舞っているというポーズをとっていた。吉田が悪いわけではなく、自主的に振舞えるような状況ではなかったのである。

庶民にしてみれば、アメリカ追随であろうとなかろうと、生命の危険がなく生活が安定していればどうでもいいことである。ボスが軍部からアメリカに変わっただけで、その方が良かったとも言える。日本国憲法ももちろんアメリカが作成した草案を翻訳し、少し修正しただけのものであるが、当時は戦争能力を剥奪するのが目的だから世界でもまれに見る平和憲法になった。日本人の手で憲法を制定すると言うのも自主独立の政府があってこそ言えることで、今のようにアメリカ言いなりの政府ではアメリカのいいように自衛隊が利用されるだけである。今の平和憲法があったればこそイラクに従軍しないで済んだのである。国連軍も組織されていないのにアメリカの意向だけでイラクに自衛隊を派遣した責任は誰も取っていないし、その検証もされていない。イラク戦争そのものがアメリカの言いがかりでアメリカが起こした戦争であった。そのときアメリカ人の大多数がイラク侵攻に賛成したのである。


別海から来た女

2012-12-26 | 読書

佐野眞一にも失望したし、木嶋佳苗にも興味はないが、斜め読みで一応読んで見た。
本書は3人の男性を殺害した罪により1審で死刑判決を受けた木嶋佳苗被告についてのノンフィクションである。だが、著者は被告よりも、結婚と性を餌に、金をだまし取られ、殺された情けない男たちの群像劇としてこの事件を描きたかったという。男性たちはなぜ出会って間もなく、場合によっては肉体関係さえない中年の女性に大金をつぎ込んだのか。
 その答えを求めて著者は、被告と交渉のあった男性やその家族、木嶋被告の親族を取材し、真実を見つけようとする。印象に残ったのは、被告と同居していた男性が、寂しさが紛れるなら相手の容姿はどうでもよかったと話し、一番楽しかったことは一緒にご飯を食べたことだと語る姿だ。なぜ男はそんなに寂しいのか。この事件で殺害された男、そして騙されそうになった男は、マザーコンプレックスというくらいに母親から自立していなかった。そして、血縁・地縁から引き離され、独居する老人が多かった。
一方、木嶋は痴情や怨恨など人間のマイナスの感情さえ持たず、悪意さえなかったように見える。

木嶋佳苗は、酪農を主産業とする北海道の奥地で生まれ育った。しかし、彼女の家は酪農家ではなく、現地ではエリート的な存在のホワイトカラーの家庭だった。木嶋佳苗の母親の家に何度か取材を申し込んで、拒否された、その時のインターホンからもれる母親の声の調子が、まるで楽しんでいるかのように明るく、ふふふ・・という笑いさえ含んでいて、たじろがされたというエピソードが載っている。彼女の家族は誰一人として裁判の傍聴にも証人にも参加することはなかった。彼女の父親は、司法書士になろうとして何度も失敗し、結局、司法書士見習いとして一生を終えた人だった。そして、彼女は「父親は弁護士である」と何度も嘘をついている。この家庭の中に、生きることは嘘をつき続けること、快適に生き続けることが最優先で、そのためには手段は選ばないと教えこむ何ものかがあったのではないか、と思える。北海道の開拓地、別海に視点を求めるところは、佐野らしい着眼点だが、木嶋はサイコパスではないかと切り捨てているようなところもあり、別海という土地との関連性もうまく本書のテーマに統合されていない。
貧困に喘いだ経歴もなく、怨恨や憎悪も無く淡々と、金を搾取し、絞り終えると、殺していく。そこには弱肉強食の生物界の掟だけが機能しているように見える。

 「かつて文学の一大テーマだった殺人は、もはや文学のテーマからもすべり落ちてしまったようにも見える」と佐野も指摘しているように、このノンフィクションは失敗作である。深部で葛藤が描かれる人間の物語ではない。
 
そして殺人事件を描く際に、被害者が亡くなっている場合、真実を突き止めるのは難しいと改めて思う。今回のように性が絡む場合、死者に鞭打つ結果にもなる。おぞましくグロテスクな物語だった。

そしてその後角田美代子の事件が公になった。木嶋の上を行くおぞましい犯罪者に思えたが、人間らしく自殺してしまった。木嶋は生涯孤独だったし、自分だけの快楽のための犯罪だったが、角田の場合は血より濃い人間関係があった。マインドコントロールなどと言うわけのわからない概念で取り巻きの罪を矮小化してはならない。角田はある時点から一緒に生活する家族のために残虐な罪を重ねていったとも考えられる。

ふがいない僕は空を見た

2012-08-06 | 読書

題名から推察すると、うぶで頼りない高校生の話だと思った。一年前に図書館に予約していたが、やっと借りることができた。結構衝撃の話題作らしく、この秋映画が公開されると言う。
第1章目から露骨な性描写に辟易した。作家が女性だから、ここまで微に入り細に入り書けるのだと思った。男性が読んで面白い本なのかな?ちょっと疑問だ。

本屋大賞で2位に選ばれ、山本周五郎賞も受賞した。高校一年生の斉藤卓巳は、好きだった同級生に告白されるも、頭のなかはコスプレが趣味の主婦・あんずのことでいっぱい。週に一、二回はあんずの家を訪れては、セックスにあけくれる。女性主導の性描写が生々しく、時代はここまで来ているのかと唖然・・・・・・。卓巳の母が助産院を経営していることで性と生の結びつきを衝撃的に描いた作品と評価されているようだが、この視点は男性作家にはない。生が抜けると単なるエロ本になってしまう際どい作品だ。4畳半襖の下張り事件のとき、エロ本とはどういうものか、エロ本巨匠の本を数冊読んだことがある。そのとき納得したことだが、宇能鴻一郎の作品はエロ本随一だと思った。即物的に描いても決してムラムラは来ない。いやらしい想像をたくましくさせる筆力がエロ本には必要なのである。そう言う意味では女性作家の性描写は即物的すぎてぎょっとするだけである。女性の感性ではエロ本は書けないとそのとき思った次第である。
性描写が露骨で生々しい一方、内面描写はさらりとしていて、友達の福田君や松永さんの頑張り具合に比べると、最後までふがいないままだった主人公の魅力がいまいち分からない。
「セイダカアワダチソウの空」は、性のことは横に置き、斉藤の友人である福田のなんとも苦々しい日々を描く。貧困の皺寄せは、いつも子ども達に来る。「花粉・受粉」は卓巳の母親に焦点を当てた最終章。この最終章は独立した話としてはいい作品だが、全体の流れからみれば、取ってつけたようで、未消化の部分が残る。要するに最後2章は古い世代の価値観が色濃く、それが若い世代のふがいなさとまるで対照的に描かれるだけで、テーマとして統合されて行かない。まるで平行線だ。
 
丁度機会だから、橋下氏もはまっていると言うコスプレについて少し考えて見る。
単なるコスプレ愛好家は多い。キャラが好き、きれいな写真を撮りたい、作品を語りあう仲間が欲しい、などなど理由はさまざまだが、思い思いの完成度の高い服装とメーキャップで集まり、パフォーマンスを披露する。この格好で性的行為に及ぶ人は少ないと思っていた。コスプレと性的嗜好の結びつきは一部の変態的男性の性嗜好だと勝手に思っていた。
それをこの小説はむしろ女性主導でやってくれるのだから、ちょっと驚いた。
 
セックスレス夫婦が多くなる中、夫婦の性生活に関するアドバイスにコスプレが登場しているところを見ると、結構広くコスプレセックスは普及しているのかもしれない。 この場合、「疲れた、面倒だ」と言う感覚を振り払って性のインパクトを高める効果がコスプレにあるということになる。
乏しい資源―時間、銀行口座の残高、セックスの意欲、忍耐、22時を過ぎても起きていられる強い意志―を賢く分配して努力すれば、即ち夫婦生活に経済学を適用すれば、「疲れないセックスライフ」が得られると言う。確かに安価で購入した衣装を着て、ベッドインすると大笑いして元気が出るかもしれない。しかし、笑っていては返って逆効果だし・・・・そのキャラにのめりこんでいなければ長続きはしないなあ。それに安価で購入できる制服と完璧な手作りのコスプレではあまりにも次元が違いすぎる。敬愛するキャラになりきって演技をすれば、至福の高みに上り詰める事だって出きるのかもしれない。そう言う意味では橋下氏のコスプレはラブホテルで借りた制服らしいから、変態男性の嗜好だな・・・・・
まあ、性的嗜好は非常に個人的なことだから、とやかく言うのはよそう・・・・・・

怒りて言う、逃亡にはあらず  松下竜一

2012-07-25 | 読書

泉水博と言う名は私の記憶からは完全に抜けていた。重信率いる日本赤軍がハイジャックした飛行機の乗客を人質にとって、連合赤軍や東アジア反日武装戦線の容疑者とともに単なる強盗殺人犯の服役者を人質交換リストに加えていたことも思い出せない。何故、強盗殺人犯を?と言う疑問がもたげる。当時、泉水博氏は無期懲役の刑が確定して千葉刑務所に収監されていた。模範囚で仮釈放の日が目前に迫っていたにも拘らず、同じ刑務所の人間が病気で苦しんでいるとき、看守を人質にとって、医者に見せろと要求をした。この行動が口コミで広がり、千葉刑務所に泉水あり、とのうわさが広がり、後の獄中者組合の結成につながった。このたった一人の反乱で仮釈放もキャンセルされ、旭川刑務所に移送される。この報道が遠くパレスチナの地にいた重信の耳に入り、奪還リストに加えられたらしい。
日本政府は当初は泉水を「思想犯ではなく刑事犯」である理由から釈放拒否の方針を持っていたが、最終的にハイジャック犯の要求をのみ、超法規的措置によって釈放した。

刑法により無期懲役刑の時効が20年あったことから、20年逃亡すれば無期懲役刑を課すことはできなくなる(刑の時効は公訴時効と異なり、海外逃亡の時効停止規定がない)。しかし、釈放後から9年後の1986年6月7日にフィリピンで旅券法違反で逮捕され、日本へ送還されて勾留となり、刑の時効は不成立となった。1995年3月、逃亡前の無期懲役刑に旅券法違反の懲役2年が加算された。

酒乱の父は母と離別し、まったく恵まれない家庭環境に育つ。兄は横浜の港湾あたりのやくざの世界に入り、博は母とともに木更津で極貧の中で育つ。やがて東京に出て、テキ屋の若い衆になったり競輪の予想屋をしたり、債権取立て、上野のキャバレーのボーイなどをしつつ、小さな暴行や窃盗で前科がつく。無期懲役になった強盗殺人は主犯の相棒が獄中で自殺したため、泉水が主犯扱いされたと言うのが真実のようだ。ここでも、彼の義侠心から、相棒の供述に反論せず、刑事の筋書きを認めてしまったので無期懲役と言う重い刑になる。相棒が自殺してから撤回しようとしても後の祭りだった。しかし、彼にとって、刑務所生活はシャバの生活より穏やかで安定したものだったことは想像に難くない。

日本赤軍からの釈放要求は泉水にとっても寝耳に水だった。もし、自分が釈放に応じなければ、大勢の人が死ぬかもしれない。かといって、言葉もなにもわからないアラブで、赤軍と行動をともにできるわけがない。思い悩むも自分の命で人質の何人かは助かると聞いて、自分が犠牲になることを決意する。ところが、自分が、人質を助けるために要求に応じたと言う報道は全くされない。彼の犠牲的行為が称えられるどころか、思想も持たぬ殺人犯が国外逃亡を図ったと言う記事になっていた。逮捕時も「所詮は刑事犯で、日本赤軍のコマンドとしては堕落して酒に溺れていた」と書かれ、裁判でも「超法規的措置」で無理やり釈放しておきながら、「遁刑」扱いされてしまう。

泉水は裁判で多くを語らなかった。特に日本赤軍の活動については黙して何も語らない。日本の裁判でさんざん痛めつけられた彼にとって、日本の司法に真実を語る意味を見出せなかったに違いない。泉水の日本コマンドとしての信望は厚い。観念的になりやすい日本コマンドの中で不言実行の異色の存在だったようだ。釈放早々、痔疾をわずらう彼に対してきちんと治療を受けさせ、他のコマンドと分け隔てなく扱ってくれた日本赤軍に全幅の信頼を寄せるのに時間はかからなかった。
また、パレスチナゲリラの間でも彼は人気者だったようだ。北島三郎の件はおもしろい。パレスチナゲリラから「パレスチナ解放運動の支持者か?」と言う問い合わせが北島三郎のところに来る。「泉水の歌を歌っているから」と言うのだ。多分泉水が北島の歌を歌っていたのを聞いて、泉水自作の歌だと思ったらしい。このエピソードでもわかるとおり泉水は現地に溶け込み、その人柄が愛されていた。
また、こんなエピソードもある。海からの艦砲射撃に備えて山の中腹に塹壕を掘る作業をする際、アフリカから来ているコマンドは掘った土を四方に放り散らかすので、パレスチナ・ゲリラの指揮者がどなって指示しようとするが、言葉が通じない。そんなとき、言葉より先にさっと穴に飛び込んでいって、掘った土は海側に盛り上げるんだということを、身体でもって教えるのが泉水だった。
言葉が通じなくても、いや言葉が通じないからこそ、泉水の日本的庶民的な義侠心が、現地の人に受け入れられたのかもしれない。泉水もまた、母親思いの息子だった・・・・・・・


「狼煙を見よ」 松下竜一

2012-07-21 | 読書

東アジア反日武装戦線
1972年末、「東アジア反日武装戦線」という名称で武力闘争を決起したグループがあった。全ての反日本帝国主義者がこの名称を共同で使うべきものとし、彼らは孤高の存在というイメージから、自分たちのグループ名を「狼」とした。1973年、本格的な爆弾テロの実行に備えて、爆弾の開発や活動資金の貯蓄に努めた。1974年8月14日、昭和天皇が乗車したお召し列車を、鉄橋もろとも爆破しようと目論んだが(虹作戦)、未遂に終わった。韓国において、朝鮮総連メンバーの文世光が時の大統領朴正煕を暗殺しようとした事件が発生した。「狼」は、文世光に呼応するために新たな爆弾テロに着手していく。同年8月30日、三菱重工業東京本社ビルで爆弾を破裂させ、8名が死亡、376人が負傷した(三菱重工爆破事件)。これは「狼」の予測を上回る惨事であったが、ここでも彼らは、人間としてどうなのか、悩むことになる。そして、その後、これをきっかけに新たに「大地の牙」「さそり」のグループが参入し、翌年5月まで連続企業爆破事件を起こす。公安警察は太田竜の思想的人脈のどこかにメンバーがいると推定して、彼が関係する「現代思潮社」「レボルト社」に狙いを定めて捜査した結果、メンバーの斎藤和・佐々木規夫が浮上する。二人を尾行していくうちに芋づる式にグループの他のメンバーが把握されていった。1975年5月19日、主要メンバー7名(大道寺夫婦、佐々木、片岡、斎藤、浴田、黒川)と協力者とされる看護学生1名が逮捕された。斎藤和は逮捕直後に自殺し、佐々木規夫と大道寺あや子、浴田由紀子は日本赤軍によるクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件によって超法規的措置で釈放・逃亡した。大道寺将司、片岡利明の裁判は続行となり、1987年3月24日に最高裁において、死刑判決が確定した。大道寺将司も片岡利明も確定死刑囚として東京拘置所に収監されている。国外逃亡をしていた浴田由紀子の連続企業爆破事件の裁判が再開された時、大道寺と片岡は証人として拘置所で出張尋問を受けた。判決確定後20年経過しても大道寺と片岡の死刑が執行されないのは、法務省関係者によれば、佐々木ら共犯が国外逃亡しているのが理由の一つだという。佐々木規夫と大道寺あや子の裁判は公判停止となり、現在も国際指名手配となっている。
大道寺将司は、現在63歳。がんを抱え、闘病中だという。三菱重工爆破事件では、多くの死傷者が出ている。犯罪自体は、許しがたいという思いで読み始めたが、松下氏の誠実さと人を見る目の確かさ、圧倒的な筆力に導かれて読むうちに、大道寺という人の一途さに少し考えが変わった。
大道寺は、北海道・釧路の生まれ。アイヌ差別、差別、朝鮮人差別・・・将司は、そうしたことに、ことのほか敏感な少年だった。羽田事件で京大生の山崎博昭さんが圧殺されたときも、自分のことのように受けとめた。アメリカに追随し、ベトナム戦争に協力する日本政府の姿勢に異を唱え、さまざまな抗議活動に身を投じていく。この行動も、極めてまっとうなことだと思う。
そんな時代、松下竜一氏は、自伝的な記録文学『豆腐屋の四季』を刊行。大きな話題となった。そこには、大学闘争に突き進む学生たちとは、まったく違った鬱屈した叫びがあった。大道寺将司は、獄中で、『豆腐屋の四季』と出会い、松下氏と大道寺のやりとりが始まった。

大道寺の本意ではなかったようだが、松下氏は彼の人となりを知るために母年子さんと将司の書簡に触れている。母親の年子さんの輪郭が、実に鮮やかに描かれていて、胸に迫る。将司は、年子さんの本当の息子ではない。しかし、年子さんは、心から愛情を注いだ。事件が事件だけに、年子さんも世間の厳しい非難にさらされる。だが、年子さんは、反発を覚悟で、「息子たちの気持ちをわかってやってください」と、口にする。
将司も親思いの息子であった。

この真摯な青年がなぜ、市民を巻き込むテロに突き進んでいったのか。その謎と、その後の彼の心境に松下氏は迫る。大道寺からは、無差別テロへの直接的な謝罪の言葉はない。だからといって、亡くなった方たちへ、申し訳なく思っていないのかというと、決してそうではない。
「討つべき敵を明確にできなかったが故にいつの日にか結びつくべき人々、そして権力の弾圧から防衛すべき人を見失い、殺傷してしまった。人民と言う具体的な生きている存在を大衆と言う概念でのみ理解していた僕らの観念性は8人を死亡させ、300余名の負傷者を出してしまった。僕らの誤りは激しく糾弾されなければならない。」そして、大道寺らへの控訴審判決が出たことに抗議して重傷者を出した無差別報復テロを知った大道寺は自らを責め、下血して病舎に移るという事態に至った。

松下は言う。
「全共闘の学生達は大学生と言う特権を否定して闘ったが、反日武装戦線の彼らは日本人であるという特権を否定した点で自己否定は徹底していた。戦時中の侵略、強制連行、そして戦後の経済侵略によってGNP大国と化した日本。その日本を作り変えることでアジアの人々と連帯しようとした彼らが選んだ方法が侵略企業に対する爆破攻撃だった。暗闇の思想も巨大開発や巨大エネルギーへの反対の中でこれ以上の経済侵略をやめるべきだと訴えていた。ただ、その方法は発電所建設反対で爆弾を仕掛けることではなかったが。彼らがこの上なく誠実であったが故にあすこまで行ってしまったのだと断言できる。安全な日本にいてベトナム反戦を千回叫んでも何の力にもならない。ベトナムの米軍を助ける働きをしている国内企業に爆弾を仕掛けることこそが真の連帯だという考えを私は否定できない。彼らが人を死傷する意図を持たなかったのも確かだ。不幸なミスが重なって大惨事が発生し、彼らは打ちのめされた。何もしない者はそれだけ間違いも起こさぬものだ。多くの者は不正にも気づかぬ振りをして事を起こそうとしない。彼らはいわば時代の背負う苦しみを一身に受けて事を起こし、多数のものを死傷させて、取り返しのつかぬ間違いを起こしてしまった。間違いだけを責めたてて、何もしない我々が指弾することができるのでしょうか?私は彼らの苦しみに触れ続けたいと思うのです。」

爆破事件の傷の後遺症に苦しむ人たち、わけても8人の死者たちの存在は、「それでも…」と多くの人を思わせるだろう。誠実であったからこそ彼等は事件まで起こしてしまったのだという松下の言葉も分かるけれど「でも…」と考えてしまう。松下はこうも書く。「死者にこだわる限り、そこから一歩も動けないのであり、袋小路にとどまるしかないのだ。死者にこだわり続けるという一見誠実な立場というのは、実は一切の思考回路を閉ざすことではないのかと思えてならない。」

不正義を許容、黙認しないならば、自分には何ができるのだろう。暴力的な手段にうったえないならば、どんな方法があるだろうかと考える。答えは見つからない・・・・・

しかし、少なくとも在日やの差別は当時とは別の段階にあり、ベトナム戦争は米軍の敗北で終わった。アラブの春の盛り上がりで独裁政権が倒され、シリアのアサド政権が倒されるのも時間の問題だろう。正義が勝つのには長い長い年月がかかる。焦ってみても始まらない。将来の闘いのためにまともな子孫を残すこと、その子孫にツケを残さないこと、そして自分の良心に従って行動すること、それすらも怪しい状況なのだが・・・・・・