オータムリーフの部屋

残された人生で一番若い今日を生きる。

「狼煙を見よ」 松下竜一

2012-07-21 | 読書

東アジア反日武装戦線
1972年末、「東アジア反日武装戦線」という名称で武力闘争を決起したグループがあった。全ての反日本帝国主義者がこの名称を共同で使うべきものとし、彼らは孤高の存在というイメージから、自分たちのグループ名を「狼」とした。1973年、本格的な爆弾テロの実行に備えて、爆弾の開発や活動資金の貯蓄に努めた。1974年8月14日、昭和天皇が乗車したお召し列車を、鉄橋もろとも爆破しようと目論んだが(虹作戦)、未遂に終わった。韓国において、朝鮮総連メンバーの文世光が時の大統領朴正煕を暗殺しようとした事件が発生した。「狼」は、文世光に呼応するために新たな爆弾テロに着手していく。同年8月30日、三菱重工業東京本社ビルで爆弾を破裂させ、8名が死亡、376人が負傷した(三菱重工爆破事件)。これは「狼」の予測を上回る惨事であったが、ここでも彼らは、人間としてどうなのか、悩むことになる。そして、その後、これをきっかけに新たに「大地の牙」「さそり」のグループが参入し、翌年5月まで連続企業爆破事件を起こす。公安警察は太田竜の思想的人脈のどこかにメンバーがいると推定して、彼が関係する「現代思潮社」「レボルト社」に狙いを定めて捜査した結果、メンバーの斎藤和・佐々木規夫が浮上する。二人を尾行していくうちに芋づる式にグループの他のメンバーが把握されていった。1975年5月19日、主要メンバー7名(大道寺夫婦、佐々木、片岡、斎藤、浴田、黒川)と協力者とされる看護学生1名が逮捕された。斎藤和は逮捕直後に自殺し、佐々木規夫と大道寺あや子、浴田由紀子は日本赤軍によるクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件によって超法規的措置で釈放・逃亡した。大道寺将司、片岡利明の裁判は続行となり、1987年3月24日に最高裁において、死刑判決が確定した。大道寺将司も片岡利明も確定死刑囚として東京拘置所に収監されている。国外逃亡をしていた浴田由紀子の連続企業爆破事件の裁判が再開された時、大道寺と片岡は証人として拘置所で出張尋問を受けた。判決確定後20年経過しても大道寺と片岡の死刑が執行されないのは、法務省関係者によれば、佐々木ら共犯が国外逃亡しているのが理由の一つだという。佐々木規夫と大道寺あや子の裁判は公判停止となり、現在も国際指名手配となっている。
大道寺将司は、現在63歳。がんを抱え、闘病中だという。三菱重工爆破事件では、多くの死傷者が出ている。犯罪自体は、許しがたいという思いで読み始めたが、松下氏の誠実さと人を見る目の確かさ、圧倒的な筆力に導かれて読むうちに、大道寺という人の一途さに少し考えが変わった。
大道寺は、北海道・釧路の生まれ。アイヌ差別、部落差別、朝鮮人差別・・・将司は、そうしたことに、ことのほか敏感な少年だった。羽田事件で京大生の山崎博昭さんが圧殺されたときも、自分のことのように受けとめた。アメリカに追随し、ベトナム戦争に協力する日本政府の姿勢に異を唱え、さまざまな抗議活動に身を投じていく。この行動も、極めてまっとうなことだと思う。
そんな時代、松下竜一氏は、自伝的な記録文学『豆腐屋の四季』を刊行。大きな話題となった。そこには、大学闘争に突き進む学生たちとは、まったく違った鬱屈した叫びがあった。大道寺将司は、獄中で、『豆腐屋の四季』と出会い、松下氏と大道寺のやりとりが始まった。

大道寺の本意ではなかったようだが、松下氏は彼の人となりを知るために母年子さんと将司の書簡に触れている。母親の年子さんの輪郭が、実に鮮やかに描かれていて、胸に迫る。将司は、年子さんの本当の息子ではない。しかし、年子さんは、心から愛情を注いだ。事件が事件だけに、年子さんも世間の厳しい非難にさらされる。だが、年子さんは、反発を覚悟で、「息子たちの気持ちをわかってやってください」と、口にする。
将司も親思いの息子であった。

この真摯な青年がなぜ、市民を巻き込むテロに突き進んでいったのか。その謎と、その後の彼の心境に松下氏は迫る。大道寺からは、無差別テロへの直接的な謝罪の言葉はない。だからといって、亡くなった方たちへ、申し訳なく思っていないのかというと、決してそうではない。
「討つべき敵を明確にできなかったが故にいつの日にか結びつくべき人々、そして権力の弾圧から防衛すべき人を見失い、殺傷してしまった。人民と言う具体的な生きている存在を大衆と言う概念でのみ理解していた僕らの観念性は8人を死亡させ、300余名の負傷者を出してしまった。僕らの誤りは激しく糾弾されなければならない。」そして、大道寺らへの控訴審判決が出たことに抗議して重傷者を出した無差別報復テロを知った大道寺は自らを責め、下血して病舎に移るという事態に至った。

松下は言う。
「全共闘の学生達は大学生と言う特権を否定して闘ったが、反日武装戦線の彼らは日本人であるという特権を否定した点で自己否定は徹底していた。戦時中の侵略、強制連行、そして戦後の経済侵略によってGNP大国と化した日本。その日本を作り変えることでアジアの人々と連帯しようとした彼らが選んだ方法が侵略企業に対する爆破攻撃だった。暗闇の思想も巨大開発や巨大エネルギーへの反対の中でこれ以上の経済侵略をやめるべきだと訴えていた。ただ、その方法は発電所建設反対で爆弾を仕掛けることではなかったが。彼らがこの上なく誠実であったが故にあすこまで行ってしまったのだと断言できる。安全な日本にいてベトナム反戦を千回叫んでも何の力にもならない。ベトナムの米軍を助ける働きをしている国内企業に爆弾を仕掛けることこそが真の連帯だという考えを私は否定できない。彼らが人を死傷する意図を持たなかったのも確かだ。不幸なミスが重なって大惨事が発生し、彼らは打ちのめされた。何もしない者はそれだけ間違いも起こさぬものだ。多くの者は不正にも気づかぬ振りをして事を起こそうとしない。彼らはいわば時代の背負う苦しみを一身に受けて事を起こし、多数のものを死傷させて、取り返しのつかぬ間違いを起こしてしまった。間違いだけを責めたてて、何もしない我々が指弾することができるのでしょうか?私は彼らの苦しみに触れ続けたいと思うのです。」

爆破事件の傷の後遺症に苦しむ人たち、わけても8人の死者たちの存在は、「それでも…」と多くの人を思わせるだろう。誠実であったからこそ彼等は事件まで起こしてしまったのだという松下の言葉も分かるけれど「でも…」と考えてしまう。松下はこうも書く。「死者にこだわる限り、そこから一歩も動けないのであり、袋小路にとどまるしかないのだ。死者にこだわり続けるという一見誠実な立場というのは、実は一切の思考回路を閉ざすことではないのかと思えてならない。」

不正義を許容、黙認しないならば、自分には何ができるのだろう。暴力的な手段にうったえないならば、どんな方法があるだろうかと考える。答えは見つからない・・・・・

しかし、少なくとも在日や部落の差別は当時とは別の段階にあり、ベトナム戦争は米軍の敗北で終わった。アラブの春の盛り上がりで独裁政権が倒され、シリアのアサド政権が倒されるのも時間の問題だろう。正義が勝つのには長い長い年月がかかる。焦ってみても始まらない。将来の闘いのためにまともな子孫を残すこと、その子孫にツケを残さないこと、そして自分の良心に従って行動すること、それすらも怪しい状況なのだが・・・・・・

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