広河隆一取材の証言
アハメド・モハメド・ハリル・アブファラジ (70 歳)
妹のユスラは私たちと一緒に避難することを拒んだ。私は、彼女は年をとっているし、ぼけているから危害を加えられる心配はないと考えた。ところが、占領から 5 日後、イスラエル兵が来て、家に死体がある、と言った。そこで私は姉の死体を見つけた。ヘリコプターからのミサイルで撃ち殺された彼女の遺体は、5 日間放置されていたのだった。
近所の住人の話によれば、姉の家の近くでは戦闘はなかったという。これは、イスラエル軍の無差別攻撃によるものだと思う。
ハラ・モハンメド・アル=ロマラト (32 歳)
息子のハニは、占領の最初の日に殺されました。祖母の家からの帰り道だったのですが、イスラエル兵が難民キャンプに侵入しようとしている事を伝えようとしていたんです。
息子が家に戻って 5 分後、近所の女性が助けを求めて叫びました。誰かがヘリコプターのロケット弾で、負傷したのです。それで息子が手助けしようとドアを開けて、一歩足を踏み出した瞬間でした。息子は撃たれました。イスラエル兵がモスクから狙っていたのです。息子は即死でした。15 分後、救急車が来て病院に連れて行きました。
2 日後の金曜日、イスラエル兵は、私たちの家をロケットで攻撃してきました。私たちがいた寝室の隣りが攻撃されたので、より安全な台所へ逃げました。そうしたら今度は私たちの家と隣りの家の間で爆弾が炸裂したので、私たちはまた寝室に舞い戻りました。
そして、何時間か後に静寂が訪れました。夫は「まだ不発弾があるかもしれない。安全かどうか確認してくる」と言って、居間に行こうとしました。危険を感じたので、私は彼を止めようとしました。しかし、彼は少しためらった後、居間に向かいました。3 分後、私を呼ぶ彼の声が聞こえました。行ってみると、そこにはひどく怪我をした彼の姿がありました。
私は「何が起こったの?」と聞きましたが、彼自身何が起こったのか分からない様子でした。彼は私を見つめました。その目はまるで「死んでしまう、何とかして助けてくれ」と訴えかけているようでした。私はどうしたら良いのかわかりませんでした。そして数分後に彼は息を引き取ったのです。
私たちは彼の遺体と 7 日間過ごしました。その間、救急車は来てくれなかったのです。病院に何度も頼みましたが、答はきまって「イスラエル兵がキャンプを封鎖して、誰も入れさせてくれない」でした。結局、救急車が来たのは 7 日後でした。
ルファイデ・ファトヒ・アブドラ・ジャマル (35 歳)
私の妹ファドワは看護婦をしていましたが、イスラエル軍が再占領しはじめたと聞いて、ジェニン難民キャンプの私の家に助けに来ていたのです。
占領が始まって数日後、大勢の人が「医者を呼べ!」と叫んでいるのが聞こえました。民間人男性が負傷したのです。
妹は助けに行こうとしました。私の夫は、それを許しませんでしたが、妹はどうしても行くと言いはりました。彼女は看護服に着替え、お祈りを済ませました。私は妹と一緒に行く決意をし、二人で出かけました。
家を離れ、少し行ったところで、負傷者はどこにいるか尋ねました。その時、私は脚を撃たれました。イスラエル兵がモスクの上から狙っていたのです。ファドワが私のところに駆け寄った瞬間、彼女も撃たれました。同じ場所からの発砲でした。彼らは私たちに向かって発砲を続けました。私はもう一発銃弾を受け、ファドワは撃ち殺されてしまいました。
周りの民間人は私たちを助け出そうとしましたが、私は近づかないよう叫びました。彼らが次の標的になる事は分かっていましたから。私は救急車を呼ぶように頼みました。
そしてそこにいては危険だったので、家に向かって這っていきました。何とか家のドアまでたどり着いた時、夫は私を中へ引っ張ってくれました。その数秒後、イスラエルのヘリコプターが来て、ロケットで、家の入り口を攻撃しました。私は運良く死を免れたのです。20 分後に救急車が来て、妹と私は病院へ運ばれました。彼女はすでに手遅れでした。ファドワは仕事中にイスラエル兵によって殺された最初の看護婦になりました。
ラジャ・ムスタファ・アブ・エイタフ (72 歳)
イスラエル軍がキャンプを占領したとき、私は、27 人の家族と家にいました。占領後、数時間してアハメドという老人が隣りの家のドアを強く叩いているのが聞こえました。彼は、その家の親戚のものでした。しかし、その家のものが出払っている事を伝えると、彼は泣き叫びました。イスラエル軍が、彼の家を破壊したのです。私たちは彼を家に招き入れ、落ちつかせようとしました。
その後、ロケット弾が家の 3 階に命中しました。私の家族は、キャンプの中は危険なので、外に出ることにしました。しかし、私はアハメドと共にこの家に残る事にしました。
彼は 90 才を過ぎていました。彼は家を破壊されて怒り悲しんでいました。5 時半にお祈りをすると、家の中で爆発音がしました。中に入るとアハメドが流れ弾で足を怪我していました。そして、イスラエル兵が侵入してきて、アハメドは何度も頭を撃ちぬかれてしまいました。彼らは次に私に向かって爆裂弾を投げつけ、私の耳はしばらく聞こえなくなり、強く、赤いせん光が走りました。
その後私は捕虜となり、彼らが家々を捜索する際の「人間の盾」として使われました。捜索は何日も続けられ、彼らが家々を捜索中、私は椅子に縛られました。そして、その間、水も食料も一切口にする事はできませんでした。
彼らは、私の家を捜索中も私を椅子に縛り、アハメドの遺体も椅子に縛り付けて、私の目の前に置いたのです。私はその光景を決して忘れません。
私の命は、彼らがそう望めば、いつでも終わりを迎えるところでした。背中には、マシンガンの銃口が向けられていました。
想像してみてください。私がどんな心境だったかを。私は決して忘れません。長年働き詰めで、やっと手に入れた家が壊された瞬間を。破壊の瞬間と通りに散らばる多くの死体を。私は奇跡によって私の命を救った神に感謝しました。
数日後、私の疲労は極限に達し、歩く事もできなくなっていたので、もう捕虜として続けられない事を伝えますと、イスラエル兵は私を家に戻しました。その後、もう一人の男が、私の家に連れてこられ、合計 3 人の老人が私の家にいる事となりました。二人は生きたまま、一人は死体として。
見張りが時々私たちのもとを離れるのを知り、私たちはその場から脱出する事にしました。そしてもう一人の老人と共に、注意深く、友人の家に向かって脱出したのです。そして友人のもとで少し休んだ後に、家族の様子を知ろうとして赤三日月社に問い合わせをしました。そして数日後、私の家族は無事に過ごしていると、伝え聞きました。
救急車がアハメドの死体を取りに来たのは、死後 5 日してからでした。
マハムード・アリ・ハサン・ダスーキ (52 歳)
イスラエル軍がキャンプを占領しようとしていると聞いたとき、私は 2 人の妹、弟、母を呼び「みんなで家でじっとしていよう。そうした方が安全だ」と言いました。
4 月 5 日金曜日の 3 時半、イスラエル兵が家のドアを強く叩きだし、姉のアファフはドアを開けようと近づきました。その瞬間、イスラエル兵はドアを爆破したのです。彼女は即死しました。しかしイスラエル兵はそれだけでは不十分だとばかり、横たわった彼女の体を銃撃し始めました。彼女の死を完全なものにするかのように。
イスラエル兵が去った後、私たちは入り口に走っていきました。そこには、銃弾でズタズタになったアファフの姿がありました。私は「救急車を呼べ!」と叫びましたが、誰も答えてくれません。私は彼女の遺体と一週間を過ごし、イスラエル兵が、買い物のための外出を許した時に、密かに遺体を病院へ運んだのです。
土井敏邦取材の証言
【医療妨害】
サラハ・アムマール (38)
「パレスチナ人の武装青年たちとイスラエル軍との激しい戦闘のさなか、17 歳くらいの青年がアパッチ (武装ヘリコプター) に撃たれました。青年は病院へ連れていくために私たちのところへ運ばれてきました。私たちは父の家から通りに出て、狙撃兵が待機している場所まできました。狙撃兵は叫びはじめ、私たちを追い返そうとして足を狙って撃ってきました。私たちのところから 25 - 35 メートルくらい離れた病院にどうにかして連れていくために、私たちは負傷したその青年を連れて帰り、別の道を通りました。青年が危険な状態だったからです。しかしそこには戦車が配置されていたために、私たちはまた引き返さざるをえませんでした。また引き返したのですが、治療を受けられなかったために 5 時間後にその青年は亡くなりました」(5 月 16 日証言)
イマード・カーセム (30)
「もし負傷者が病院にいけたら、または救急車がくれば、だれも行きたくないとは言いいません。治療を拒否するなどありえないことです。救急車はキャンプに入ることはできませんでした。イスラエル兵が許さなかったからです。救急車が銃撃の標的にされたのです。救急車の乗務員も標的にされました。
キャンプはたくさんの戦車であらゆる方向から封鎖されてしまいました。戦車はキャンプの入り口にいて、車が中に入れないようにしました。キャンプ全体に外出禁止令が出されました。住民すべてが銃撃の標的にされました。救急車の乗務員さえ標的にされたのです。赤三日月社のマネージャーであるハリール・スレーマン医師も殺されました。救急車の乗務員が主に標的にされました。イスラエル軍は彼らが動き、負傷者を運びだすことを嫌ったからです。救急車の乗務員はとても苦労をしました。とりわけ負傷者を運び出したり治療のためにキャンプに入るときにです。彼らが車や歩いて立ち入り禁止地区の指定を破ってキャンプに入ろうとするとき、逮捕される危険もありました。ときどき救急隊員が制服を着てキャンプに入ろうとして、兵士に逮捕され、サーレム強制収容所に連行されました」(5 月 19 日証言)
【虐殺】
マフムード・ファイード (70)
「アブナーシェ家へ着くと、私は妻に息子はどうしたのかと訊いた。妻が、息子は死んだと答えました。ブルドーザーが家を破壊し、瓦礫の下敷きになったと言うのです。妻たちは兵士たちに『身障者の息子がいる』と訴え、『息子を家の外に出すから』と言いいました。すると兵士が『男はここで待て。女性 4 人は (連れに) 行ってもいい』と答えました。それで女性たちが家に行きました。私たちの隣人の娘も行きました。女性たちは息子の近くまで行ったのです。崩れた屋根が隙間をつくり、息子は石と砂をかぶっていただけだっでした。
女性によれば、息子は口をきいたと言うのです。息子はしゃべらないのです。息子は 2 言、3 言しゃべったというのです。『ヤッラー (神様)、ヤッラー』と。そう息子と話した少女が私にそう言いいました。そのあと、ブルドーザーの運転手が瓦礫を動かしはじめ、息子のいる場所に置こうとしました。それで女性たちは他の家に逃げ込みました。ブルドーザーが息子のいる部屋を壊し始めました。
その後、私たちは息子を探し回った。しかし、見つかりませんでした。瓦礫にずたずたに切れ裂かれ、肉片になってしまったからです。遺体はみつからなかったのです。近所の人たちが私に息子は死んだと言いいました」(5 月 19 日証言)
イマード・カーセム (30)
「兵士が住民にスピーカーで『裸で外に出て降伏しろ』と叫びました。そのとき隣人のアル・サッバーブが出ていきました。すると兵士が道で彼を殺しました。彼は裸でした。彼の名前はカマール・アル・サッバーブです。その後、戦車がその遺体をひき潰し、道のようにしました。住民がその遺体を回収しようとやってきたとき、遺体のあったところには残っていたのは小さな肉片だけでした。遺体は粉々になり、もし人々が殺されるところを見ていなかったら、それが誰の遺体がわからなかったでしょう」(5 月 19 日証言)
フェダ・ホサリ (28)
「あそこで 12 人が射殺されました。青年たちの家がミサイルで攻撃され、生きたまま瓦礫の下敷きになってしまいました。生き残った者は裸にされ、射殺されました。武装青年は捕まってすぐ殺されました。降伏し武器を持たない若者も射殺されました。彼らはテロリストで武器を持っていたといいますが、その青年たちは武器などまったく持ってはいなかったのです。射殺した後、イスラエル軍はその遺体を瓦礫の下に埋めました。その犯罪の跡を誰にも見せないためです」(4 月 22 日証言)
古居みずえ取材の証言
アブドゥルカリム・サーディ (28 歳) とワダ・シャラビィ (37 歳) とワダの父親 3 人は 4 月 6 日、イスラエル軍兵士に呼び出され、家の壁のそばで立たされた。このとき 1 人だけ生き残ったワダの父親は次のように語った。
「彼らは私たちにシャツをたくしあげるように命令した。アブドゥルカリムは日頃から背骨の痛みがあり、医療コルセットを巻いていた。イスラエル兵士たちは爆弾を巻いたベルトと思い込み、銃弾を何発も撃ちこんだ。3 人とも倒れ込み、私は飛び散った血で血まみれだった。兵士たちは私が死んだものと思い立ち去った」
アブドゥルカリムの妻は妊娠 4 ヶ月で、ワダは 6 人の子どもの父親だった。
亀山亮取材の証言
アッルー (73 歳)、キャンプの病院にて (4 月 25 日)。
彼は 2 人の嫁を持ち 12 人家族で 1 つの家に住んでいた。彼らが寝ていた 12 時ごろイスラエル軍が、学校に集まれと言ってきた。彼は安全を確認するために家族を残し、一人で学校に行き、住民が集まっているのを確認すると、家に戻り家族を呼ぼうとした。
しかし家に戻ろうとした時、イスラエル軍のスナイパーに右手を撃たれた。そしてイスラエル兵は、立ち上がらないと殺すぞと脅した。そしてすぐに、右足をまた撃たれた。彼は、起き上がろうとしたが起き上がれず、這いながら道を、進んでいった。その間に 7 人のイスラエル兵にすれ違った。彼らは司令部に行き、上官の命令に従えと彼に命令し、彼は這いながらイスラエル軍の戦車の前にたどり着いた。そこで長い時間、置き去りにされ。
最後に、兵隊が、彼に病院に行けといった。
そして彼は病院まで這っていった。
彼は 4 月 25 日現在、家族が生きているのか、死んでいるのかもわからず。入院している。
ここにあげたのは私たちの会員であるジャーナリストが取材したもののごく一部です。ジェニン難民キャンプは、恐ろしい世界でした。しかし私たちジャーナリストがいないキャンプで、住民たちはどれほどの恐怖にさいなまれていたか、想像も出来ません。私たちは自爆テロに恐怖するイスラエルの市民の気持ちをないがしろにするわけではありません。しかしジェニン難民キャンプで行なわれたことについて、ジャーナリストとして、見て見ぬふりをするわけにはいきません。私たちは私たちの仕事に誇りを持っています。そして犠牲者について、あたかも無かったことにするのではなく、正当に報告することを私たちの使命だと思っています。
国連の報告も非常に不完全なものでしたが、それを報道する日本のメディアも、こうした人々に対する配慮があまりにも欠如していたのではないでしょうか。
さらに国連報告は、この一連のイスラエル側の軍事行動について、ジェニン難民キャンプに関わらず、全体的な被害や人権侵害について多くの報告を行なっています。特に「2000 年 9 月以来暴力行為が増し、2002 年 5 月 7 日までに 441 人のイスラエル人、1,539 人のパレスチナ人が亡くなった」という報告は、ジェニンだけでなく、状況の深刻な実態を伝えています。
しかし私たち日本ビジュアル・ジャーナリスト協会は、当会員の多数がジェニン難民キャンプを取材したこともあり、今回のジェニンの「虐殺疑惑」についてのマスメディアの報道姿勢、記事の扱い、言葉使い、見だしなどについて、大きな疑問と懸念を感じたものです。そのためこの問題に特定した声明文をお送りすることになりました。
ご考慮いただければ幸いです。
(転載、転送を歓迎します)
こういった記述に対し、下記のようなレスもついてます。
今、時間が無いので詳しく書けませんが、
私の友人で、ジェニンの事件直後に
現地(ジェニン)に入ったジャーナリストが
居ます。
彼は、事件が有った事に否定的です。
その場で広河隆一さんに会ったそうですが、
彼は、名指しで、広河さんの取材姿勢を
批判して居ました。--私のその友人は、
ジェニンで、広河さんと一緒に事件直後の
ジェニンを見、広河さんと話をして居ます。
ですから、誰であるかは広河さんは御記憶
の筈です。--彼は、強烈な反シオニスト
ですが、その彼が、「大虐殺と言へる様な
光景は確認出来無かった」と、事件直後の
ジェニンを訪れて言って居るのです。そして、
彼は、広河さんが、事実を検証せずに、
ジェニンで「声明を出す」と言った時、
「それはおかしいんじゃないですか?」と
意見したそうです。
彼の様な、広河さん以上にイスラエルに
批判的なジャーナリストが、自分の目で
事件直後のジェニンを訪れ、そこで一緒に
成った広河さんの姿勢を批判した事の
意味は重大です。
私も、イスラエルを批判する立場の人間です。
そした、永い間、広河さんを尊敬して来た
人間ですが、広河さんには、パレスチナ人の
悪い所を書かない所が有ったと、今では思ふに
至って居ます。
ろくに検証もせずに、イスラエルがやって居ない
事までやったと主張する事が、パレスチナ人に
とって良い事だとは思へません。
このコミュの議論は非常にレベルが高く、私程度の知識ではROMっているのがやっとですが、とても勉強になります。