ちょっとひと言

日頃の自らの経験を通じ感じていることや身近な出来事を綴っていきます。

都市対抗野球北関東大会

2008年06月27日 | Weblog
 第79回都市対抗野球北関東大会が始まった。26日には「茨城ゴールデン・ゴールズ」萩本欽一さん率いる、いわゆる“欽ちゃんチーム”と戦った。1対0で辛勝した。我が全足利は、チームが大変若くなり、選手が溌剌(はつらつ)としていた。翌27日は「富士重工」太田企業チームと対戦し、2対10で敗戦。
 僅かな時間だが、二日間に亘り、会場の太田市運動公園野球場に応援に行った。足利市歌と市民愛唱歌「われらのまちに」を気持ちよく歌ってきた。スポーツ観戦のあとは、負けた悔しさもあるが、フレフレ太田!フレフレ足利!とエールの交換もあり、すがすがしい気分になる。
 もし、あと2試合(日立製作所と住友金属)勝てれば、憧れの東京ドームの全国大会に駒を進めることが出来る。夢を膨らませていたい。多くの市民の応援を願いたい。

弔いの言葉

2008年06月20日 | Weblog
 鑁阿寺(ばんなじ)第44世住職 山越仁也大僧正の本葬が18日に執り行われた。盛大な葬式であった。池袋の護国寺貫主が真言宗の本山であるので、大導師としてお勤めいただいた。僧侶がずらりと並びまさに厳粛なものだった。
 当日の朝、大日様を散歩した。太鼓橋から本堂まで参道にテントが並び、更に本道の左右にテントが張られ大掛かりな準備が進んでいた。整然と並んだテント内には沢山の椅子があり、密葬があった後なので、これだけの会葬者があるのか心配しながら散策をしてきたが、式が始まった時刻には全部椅子が埋まってしまい、ものすごい人の集まりだった。私の心配も杞憂に終わったので、ほっとしたと同時にさすがに大日様だなあと強く感じ入りむしろ嬉しかった。沢山の市民が44世住職にお別れに来てくれたのである。
 名誉葬儀委員長という妙な立場で弔辞を述べた。定型的な弔辞は秘書課で用意されたが、これでは私の思いは伝わらないと自分の言葉で話し始めた。幼い頃の想い出、大日様がいかに市民の心を癒す場所であるか。境内に23もある建物の殆どが国、県、市の文化財である。門を閉ざすわけにいかず、火事などの不慮の事故を考えると夜も眠れない。等々、かつて交わした会話を想い出しながら話を進めてきたら涙が溢れてきた。足利市にとっても、また私にとってもかけがえのない人を失ったという思いがこみ上げて来た。
 式の終了後、晋山式(しんざんしき)があった。これは祝事である。44代が他界され、45代の山越忍隆氏が鑁阿寺の跡取りになる式典である。これで大日様の歴史はまだまだ続くことになる。悲しみの中に何かほっとした一幕でもあった。

議会の一般質問

2008年06月19日 | Weblog
 6月議会も3日間の質疑質問が漸く終わった。1日4人で計12人である。議員はみな真剣に調査、勉強してこられる。全て真摯に受け止め答弁しないといけない。議員にしてみれば、晴れの舞台である。それぞれの質問者が論陣を張ってくる。足利市のため市民のために努力して質問をつくって発言してくるのである。答える方も真剣で、かなり緊張した時間が流れるのでさすがに疲れる。しかし、この時間が最も大切なときである。市の命運を左右するのである。
 私も県議時代、質問者となって演壇に立つことがかなり多くあった。私の執行部への質問で効果のあった顕著な例は、パスポートの取得が県内各地で取れるようになったこと、越床トンネルが開通したこと、などであろう。私の政治に係わる一ページを飾るものと自負している。
 議員の質問は大切なことである。

突然の別れ

2008年06月12日 | Weblog
 人の脳は3つの膜によって守られている。外側から硬脳膜、蜘蛛膜、脳脊髄膜である。この蜘蛛膜下出血によって、保々課長の尊い生命が奪われてしまった。あまりにも突然のことである。弔辞を申し上げたが、涙を禁じ得なかった。以前聞いたが、蜘蛛膜下出血は、脳血管のある種の奇形の場合起こると言うことだ。何とも抗しきれない。運が悪いという外ない。だから50歳代の元気な人に発症する機会が多いそうである。脳の検査でも余程のことがない限り造影剤を注入してまで脳血管の検査はしない。また検査の結果が出たとしても何とも施しようがない。つまり運ということになってしまう。元気な人が急にいなくなるのは本当に寂しい。お互いに体を大事にして仕事を頑張ろう。
 保々課長の冥福を心からお祈りしたい。

ばんな寺山越住職のご冥福を

2008年06月09日 | Weblog
 大日様(※地元では「ばんな寺」のことをこう呼んでいる)の住職が亡くなってしまった。仏教界では、入寂(にゅうじゃく)という。私は太鼓橋の前の大門通りで育ったので、大日は幼い頃の遊び場であった。特に夏の間は、毎日の様に大日に行っていた。当時は、うっそうとした森のようなところだったので、虫とり・蝉とりには最も適していた。住職は私の四歳年下なので、ちょろちょろしていたのが懐かしく想い出される。大日様は足利の鎮守様のようなものである。本堂の前で2拍手する人がかなりいる。仏様なのに間違えている人が多いが、私はどちらでもよいと思う。市民の心の拠り所になればいいのである。
 山越仁也住職は、44代だそうである。一代は20年くらいといわれる。だから、800年以上の歴史が大日様にある。永い歴史を刻んでいる。大銀杏もあるのだが、樹齢350年だそうである。私が子供の頃も今も変わらない。秋深くなっての真黄色の銀杏は本当に美しい。私は何年も何年もそれを見ている。
 山越仁也さんも私の心の中に生き続けるに違いない。

ふたつの大日如来坐像

2008年06月04日 | Weblog
今日の新聞各紙で、宗教法人が落札した運慶作といわれる「大日如来坐像」
が、東京国立博物館で一般公開されると報じられた。作者を特定させるため、今後数年かけて調査研究をするらしい。まだ伝承の段階だが、市内菅田町にある光得寺所有の姉妹作といわれる。足利の大日如来坐像(少し小さいそうである)と並べて観賞することもあり得るとのこと、大変な朗報である。
 昔、山梨県立美術館に視察に行った。そこには、ミレーの「種まく人」の作品がある。これも姉妹作品がアメリカのボストン美術館にあり、両作品を並べて陳列したことがある。この時は、甲府駅から美術館まで、約7~8キロが車で埋まってしまったと話を聞いた。
 どんな経緯でアメリカで競売されたかは判らない。しかし、何れ全国的に話題を呼んだ坐像である。二つの大日如来坐像が、国立博物館で久しぶりに相まみえることが出来る。今から楽しみである。足利市にとっても、とてもいい事になるであろう。
 ※ 写真は光得寺所有の大日如来坐像

自治連協議会役員との懇談会

2008年06月02日 | Weblog
 自治会長連絡協議会という組織がある。自治会の数は足利市内で223ある。今年度は会長は変わらず、副会長・会計監事等一部入れ替えがあった。今日、新旧役員の方と昼食懇談会を開いた。皆さん非常に熱心に活躍された方、また今後活躍して下さる方である。
現在の市の仕事は多岐に渡っている。細かいところまで手を貸さなければならない。とても1300人の職員ではすべては出来ない。そこで、自治会の皆さん或いは民生委員・児童委員・交通安全協会等各種団体の力を借りなければならない。それによってすべての市民に情報が伝達されることになる。つまり、これらは市にとって大変ありがたい機関である。
 残念なことに、最近自治会に加入しない人がいると聞く。困ったことである。都市化したところでは更にその傾向があるようだ。足利市では極めて少ない。だが、若干はある。特に育成会活動などにはぜひ力を入れていただきたいと思う。市民の方々の善意で、環境のよい住みやすいまちになるのである。