ちょっとひと言

日頃の自らの経験を通じ感じていることや身近な出来事を綴っていきます。

新しい扉

2009年05月11日 | Weblog
 いよいよ私の任期もあと2日となってしまった。1979年、県議会議員に初当選、2期目の1983年(昭和58年)には、私の先輩が全て引退され、早くも私が、足利市選出県議の代表格となってしまった。以来、お陰様で県議会の中心を歩くことができた。一重に私がラッキーな星を持っていたからなのだろう。そして今、いよいよ市長の職を辞することになった。
 昨日、県知事にあいさつに行った。両副知事も同席された。最後ということで、会話は決して弾みはしなかったが、有意義な懇談が出来た。これで県庁に来る機会もなくなると思うと、来し方、今迄の道程を思い、胸にじーんと来るものがあった。
 足利市の新しい扉が開く。今回の市長選挙では、閉塞感からの脱却という言葉が叫ばれた。選挙を総括した地元紙を読み、私は今まで何をしてきたのか、私自身が市の閉塞状態を作ってきたのか、古い扉の中に閉じこもって何もしてこなかったのかと、深く自問させられてしまった。
 8戦8勝、これは私の選挙の戦績である。応援した人の選挙とはいえ、最後の1敗が、私の人生をうたかたの如く否定されたような、空しい気持ちにさせるのは、私の思い過ごしだろうか。


「あんあん弥生店」がオープン

2009年05月08日 | Weblog
 4月29日、JA足利で「あんあん弥生店」のオープニングセレモニーがあった。安心安全(あんあん)な新鮮な野菜類の直売所である。品揃えも豊富で価格は安い。そして生産者の顔も見える。JA足利の敷地内にあるので何かと便利である。思わず私も大量に買ってしまった。今ほど食に対する関心の高さはないと思う。テレビをつければどこかのチャンネルで食の話題を取り上げている。それにしても「あんあん」とはよくぞ名付けたものだと感心した。
私事になるが、私の義弟が「ニンニク博士」と言われている。NHKなどでも時々解説するので関心がある。最近の学説では、がん予防に効果があるとのことである。アメリカのある研究プロジェクトチームの結論も「がんのリスクを低減させる野菜や果物の中で、最も重要視すべきはニンニクである」というものであった。ということが、義弟から贈られていた本に書いてあった。
そこで、足利美人(いちご、とまと、大根、キュウリ、にんじん)のブランド野菜にニンニクを入れたらどうかと。JA組合長にも話をした。足利市での産地形成ができるだろうか。イノシシ対策など難しい問題も介在するようだ。


水戸室内管弦楽団定期演奏会

2009年04月28日 | Weblog
 私の市長の任期は5月12日まで、いよいよ残り少なくなった。達成感と寂寥(せきりょう)感が交錯している。27日は水戸に赴いた。水戸室内管弦楽団の演奏会があり、小沢征爾氏に会うためでもあり、曲のナレーターをつとめた、伜(せがれ)さんの小沢征悦(よしゆき)さんにも会えた。足利市での来年の演奏会もこれで本決まりになったようだ。水戸室の地方での定期公演は全国でも初めてのことである。市長会等でも今から高い評価を頂いている。
 さて留守の間、当選証書を取りに来られた大豆生田氏が秘書課にお出でになった。昂然としたご様子で、あれこれと注文を戴いたようである。しかし今のところ私が市長である。大豆生田氏は5月13日初登庁、勿論礼を失しないように準備は進めている。その後は私は勿論いない。思う存分ご自分の公約実現のため仕事をなさったらよい。ただし、議会があることは忘れてはならない。僅かな期間ではあるが県会議員の経験もおありのようだ。議会対策は並大抵のことではない。議会との調整がつかないこと、最も困惑するのは職員であるし、ひいては市民が困ることになる。公約を実行に移すことは選挙民への約束だから至極当然なこと、しかし「急いてはことを仕損ずる」とも言う。冷静に着実に成就することを願ってやまない。

栃木県市長会での論議

2009年04月17日 | Weblog
 栃木県市長会の例会があった。私にとって最後の会合である。冒頭、会長辞任のことも含めあいさつをした。今回は、14市長全員の出席である。真岡市の福田市長、さくら市の秋元市長も共に退任となる。気を使って頂いたようだ。
 初め、県に対する市長会の要望の案件があった。全部で12項目ある。その中に、子供の医療費について助成制度の拡大及び対象年齢の県内一元化についての要望があった。議長である私は、この際いろいろ意見を出してもらいたいので、敢えて論議を促した。栃木県では、平成18年4月から小学三年生までの医療費が無料となったが、最近では、各市町の対応がバラバラになり、小学六年生までのところ、中学三年生までのところと差異が出てきたのである。
 喧々諤々、意見が出てきた。今までは遠慮もあり、このような論議がなされたことはなかった。本来は、県内同一歩調をとるべきなのだが、どうしても財政力の強い自治体とそうでない自治体とで差が出てしまう。地方交付税の不交付団体は財政的に余力がある。このような自治体はいいが、中には削っても削っても、無料化にかける予算を生み出せない処もある。この事情を全ての市長に認識してもらいたくて議論をしていただいた。勿論、結論は出ない。
保健医療制度というのは難しい。自分の体は自分で守る。これが原則であることは間違いない。行政が手を差し伸べることも止むを得ない。しかし、どこまで市民へのサービスをしたらよいのか、これは極めて難しいことである。


「お客様」

2009年04月04日 | Weblog
 日本国民には、3つの義務が課せられている。つまり、納税の義務、教育の義務、勤労の義務である。一方、憲法25条(全略)では、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、と謳っている。現在、世界的な不景気のなかで、生活保護の受給者が全国的に急増していることがテレビや新聞等で大きく扱われている。中には、かなり乱暴な態度で申請窓口に来る人や恫喝まがいの人もいて、「怖い」「嫌だ」と漏らす職員が出てくるようになったと新聞に書かれていた。
 早速、社会福祉課の窓口に激励に行ってみた。大変な混雑であった。平穏であったが、職員が市民一人ひとりに丁寧に対応している様子が窺えて安心した。その時感じたが、市役所を訪れる市民は、お客様と捉えて対応すると良いと思ったのである。商店に来るお客様に対して、商人は“もみ手”をする。自然に出る仕草である。市職員もその様な感覚になればと考えたりもした。30年前、私の選挙の時、中心だった人は商店街の若手経営者であった。候補者は商品である、だから選挙事務所に来る人はお客様、もみ手でお迎えした。帰る時は「毎度あり」とあいさつをしたものだ、ふとそんな事を想い出した。

4月1日「仕事はじめ」

2009年04月03日 | Weblog
 4月1日は、市役所の仕事始めである。課内室長以上の職員に集まってもらい、副市長とともにあいさつをした。午前中、辞令交付をした後なので昇格した人も多く、祝意を述べた。私は、5月12日で市役所を去ることになる。心残りのこともあるが、かなりの仕事ができたことに今は感謝している。私はこの8年間、いわゆる箱物(建物)は造らなかった。民間では、新足利赤十字病院の移転新築という大事業が進んでおり、大いに期待したい。市場の統合と高等教育機関の誘致は道半ばであり、ぜひ継続して進めてほしい。小沢征爾氏が監督を務めている水戸室内管弦楽団の定期公演を足利市で行うという覚書を締結したことは自慢できることの一つである。同楽団は日本の選りすぐられた演奏家の集まったオーケストラでレベルが高く、水戸以外では殆ど演奏しない。全世界に散らばっている演奏家が日本に帰ってきて演奏するのだから、そう頻繁にコンサートを開くことが出来ないのである。市民がまさに一流の演奏を聴ける事になる。
 4月23日には、水戸市長の加藤浩一氏、岡山県備前市長の西岡憲康氏のお二人にお出でいただき、世界遺産暫定登録を視野に入れた「中世・近世教育資産サミット」を開く予定。目立ちたがり屋だから、まだまだ仕掛けることはたくさんある。などという話をした。
 行政の仕事は永遠である、途切れたり、余りにも大きな変革はあってはならないと、話をしながら強く思い、締めくくりとした。

新足利赤十字病院建設用地引渡式

2009年03月31日 | Weblog
 「新足利赤十字病院建設用地引渡式」が滞りなく済んだ。4月1日以降、58,000㎡の土地を「どうぞ無償で20年間お使いください」といった内容の覚書の締結である。外でやる式典なので、天気と西風が心配だったが、幸い好天に恵まれホッとした。日本赤十字社から副社長の大塚義治氏と、栃木県知事の福田富一氏のご出席がいただけたのは嬉しかった。祝辞の中で、それぞれの方が私を高く評価いただき、恐縮至極であったが、当時の建設省の好意で、53,000坪の広い土地を渡良瀬川の河川敷内にある市有地と、等価不等積交換で取得できたことに端を発し、7年間の月日を経て今日の運びとなったのである。これもひとえに全て職員の努力である。この際、大いに感謝を申し上げたい。
 日本赤十字社の総裁は、皇后陛下である。副総裁には、皇太子殿下をはじめ皇族の方々が名を連ねておられる。そして日赤は、日本赤十字社法という法律に基づいて設立され、日本で最も権威のある法人と言っても過言でないと思う。東京に本社があり、全国47都道府県に支部を置き、国内外の災害救援、医療、献血、社会福祉などの事業、あるいは救急法の普及など幅広い分野で活動している。
 赤十字病院は全国に92ある。足利赤十字病院は、その中でも優良な病院に位置付けられている。つまり、非常な努力により極めて経営が安定しており、医師の確保も群を抜いている。つまり市民の安全・安心が確保されているのである。6月からいよいよ工事が始まり、平成23年の夏頃には移転ができる。高度医療機関として北関東一の病院を目指して頑張っていただきたい。足利市民も大きな期待を寄せている。

~足利学校のロマン~

2009年03月18日 | Weblog
 足利学校を創建された一人と目される、小野篁(おののたかむら:802~853)は、平安時代前期の官人、学者、歌人であった。
 百人一首の中に『わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人(あま)の釣舟』という歌がある。遣唐副使に任ぜられたのが不満で、いさかいを起こし、官位剥奪の上、隠岐の島へ配流に処せられた際つくった歌らしい。広い海原を多くの島々を目指して舟を漕ぎ出していったと、都にいる人に告げてくれ、漁師の釣り舟よ、といった意味であろう。
 小野篁は、かつて父親と陸奥の国(東北地方)で過ごしたことがあるらしく、その頃は弓馬で暴れまわっていたようだが、ある時嵯峨天皇のことばに触れて発奮し学業に勤しむようになった。足利学校とのつながりは、歴史上では定かではない。東北の行き還りにあるいは足利の地に立ち寄ったのかもしれないが、それを証明する事実は見当たらないようである。
 絶世の美人であった小野小町は、篁の娘とされ、これまた百人一首の中に『花の色は移りにけりないたづらに 我が身(み)世(よ)にふるながめせし間に』という歌がある。桜の花の色は早くも褪せてしまった、 長雨がふっていた間に。私の美しかった姿かたちも衰えてしまった。むなしく世を過ごし、もの思いにふけっている間に、というような意味である。
 小野道風は篁の孫で『三蹟』といわれ、日本の書家の原点として名高い。これ程有名な人が足利学校を創建されたということ、真実性は低いのかもしれないが、ロマンがあって楽しい話である。

新しい「元気アップ体操」

2009年03月16日 | Weblog
 市の元気老人課でこの度、市民愛唱歌「われらのまちに」のメロディーに乗せた「元気アップ体操」を作成した。職員が説明に来、指導してくれた。私はこの曲が好きで、ケータイの着メロにもなっている。元気老人課という名称は、私が市長になって間もなく、高齢対策課から変更したものである。高齢者を福祉として捉えるのはいかがなものかと常に考えていたからである。
いわゆる65歳以上の高齢者は、2月1日現在で、市内に38,158人いる。その中で介護認定者、或いは要支援者は、5,325人で、わずか14%に過ぎない。つまり、殆どの人が元気ということになる。従って、元気になる施策をたてた方が、より効率的な筈である。
 高齢者の筋力アップは効果がある。私自身、このところ多忙にかまけ、散歩や元気アップ体操をしなくなった。すると、たちどころに筋力の衰えを感じるのである。体は常に動かしていないと、すぐ転ぶことになる。改めて「転ぶな、食べ過ぎるな、風邪ひくな」を生活の信条にせねばと思う。
 なお、この元気アップ体操は、近いうちに「わたらせテレビ」で流すことになっている。多くの高齢者の方に見ていただき、実践してもらいたい。健康は何よりの宝である。


誇れる美しいふるさと

2009年03月11日 | Weblog
 足利のシンボルでもある中橋の塗り替えが終わった。27年振りである。グリーンの鮮やかな色が蘇った。本来、国土交通省はこの橋の架け替えを主張している。堤防より橋の麓の部分の方が1.5メートルも低いのだから、溢水時には川の水がこぼれ出てしまうことになる。これでは土堤の意味がない。
しかし、足利市の玄関口である中橋が、色が削げて余りにもみすぼらしいので、架け替えを待たずに、塗り替えをお願いした経緯もある。経費は1億円以上かかっている。でも、私としてはほっとしている。
アーチ型の橋は、全国的になくなっている。足利には、渡良瀬橋(昭和10年完成)、中橋(昭和11年完成)と二橋が連なっている。これは全国的に珍しいと言われている。これもまた市民の財産である。大事にしていきたい。東武駅から見る中橋の向こうの山波と市街地、渡良瀬橋の向こうに写り出される夕焼け、ともにまことに美しい眺めである。美しいふるさとを持つ喜びを強く感じている。この素晴らしい環境は、何が何でも守らなければならない。