塚本邦雄の『水葬物語』(昭和26年)に次の一首がある。
楽人を逐つた市長がつぎの夏、蛇つれてかへる――市民のために
「未来史」というタイトルの一連に収められている。つまり、未来に起きることを予言している歌というわけだが、何となく現在の状況を思わせる。
大阪の市長は、文楽や音楽団の補助金をカットし、まさに「楽人を逐(お)つて」いる。そして、「戦争犯罪は日本だけが悪いのではない」という発言を繰り返すことで、まがまがしい空気を生み出し、一部の人々は、その攻撃性を囃(もてはや)して喜んでいる。それはまさに「蛇」に象徴されるものではないだろうか。
こうした政治家が生まれてくることを予見し、寓話のような歌をつくり、未来の読者に向けて発信していた。そこに塚本の凄さを感じるのである。
言い忘れていたが、塚本邦雄は大阪に生きた歌人であった(東大阪市だが)。
従軍慰安婦の問題について発言するのは難しい。
私自身も、戦争という異常な事態に巻き込まれたら、性的な罪を犯してしまうのではないか、という恐ろしさを抱いているからである。
たぶん人間は――男性は、と言ってもいいのだが――、心の奥深くに、性的な闇をもっていて、自分でも制御できない何かがそこに存在している。
それを言葉で表現するのは難しいことだし、非常に繊細な言葉づかいをすることが必要になる。私も、短歌で性を表現することはあるのだが、そのときはとても慎重になる。単に露悪的になるだけでは、重要なものが抜け落ちてしまうし、かと言って、性のエネルギーに触れなければ、表現からなまなましいものが失われてしまう。
そうしたセンシティブな世界に、ずかずかと土足で入り込んでくるような言説を、私は嫌悪するのである。「慰安婦は必要だった」「風俗を利用すればいい」(橋下市長は誤解であると言っているらしいが、書き起こしの文章を読んでも、そうは思えなかった)といった露骨な発言は、それを聞く人を苛立たせ、精神的におかしくさせてしまうような、邪悪な力をもっているように思う。
侵略や慰安婦問題を反省しているように見せながら、内心では何を考えているのかわからない不気味さももちろんある(もしも本当に反省しているなら、侵略や強制性を否定している石原慎太郎と訣別すべきだろう)。
だが、それ以上に、言葉のもつ負のエネルギーをまき散らして恥じないところに、そしてそれを喝采している人々が少なくないところに、この問題の根深さが存在しているのだろう。
橋下市長は「戦時中の性犯罪は、どの国もやってきたことなので、すべての国が反省すべきだ」と主張する。
それは、たしかに間違いではないだろう。どの国も多かれ少なかれ、暗部をもっているはずである。
しかし、こうした発言を聞けば聞くほど、みじめな気持ちになってしまうのはなぜなのだろう。
捕まってしまった万引き犯が「ほかにも万引きをしている奴はいるのに、なぜ自分だけ罰されるのか」と言っているような論理であるからかもしれない。
少なくとも、「どの国もやっていた」という言説と、国を愛するという姿勢は、私は相容れないように思う。
「みんながやっているから、自分たちもやるんだ」という思想には、自主的な誇りが感じられない。
ほんとうに国を愛するのなら、「ほかの国がどんなことをしていたとしても、自分の国がやってきたことを恥じる」という態度を貫くしかないのではないか。
そんなことをしていたら国益を損なう、という人もいるかもしれないが、誇りを失うことのほうがもっと悲しいと、私はおもう。
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ありましたね。兵庫の人でしたからもちろん塚本邦雄とも親交があったことでしょう。
どちらの作品が先かな、などと思いながら拝見しました。