シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

2009年年間時評 評価の工夫

2020年02月27日 | 日記

内田樹さんの「雪かき仕事」について引用した文章です。

初出は、「歌壇」2009年12月号。

当然、震災の前に書かれたものです。

「雪かき仕事」というのは、災厄が来る前に行うものなので、災厄の後に〈日常回帰〉を訴えるのとは、全然別物だと思います。 

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「〈2009年 年間時評〉 評価の工夫」

 

 九月二十一日、福岡県で行われた筑紫歌壇賞の贈賞式を初めて見に行った。この賞は六十歳以上の第一歌集を対象としているもので、小島ゆかり・伊藤一彦・山埜井喜美枝の三氏が選考を行っている。かつて太宰府では、大伴旅人や山上憶良などの六十歳以上の歌人が集まって筑紫歌壇を形成した。この賞は、そうした和歌史を踏まえて生まれたもので、今年が第六回だという。
 この贈賞式を見て感じたことを、まずいくつか書いておきたい。それはおのずから、現代短歌の一つの側面を照射することになるはずだからだ。
 この賞を受賞するのは、(作者には失礼だが)無名の歌人であることが多い。けれども作品が平凡かといえば、そんなことはない。新鮮な発想があったり、長い人生経験に基づいた味わい深い表現があったりする。今回受賞した『春港』から一首だけ引いておこう。

 

  しろやまざくら見上ぐるたびに私も小さくなつてゆくから 寿美子           佐近田榮懿子(さこんだえいこ)

 

結句の「寿美子」は死んだ妹の名らしい。自分もやがて老いて死んでゆくことを妹に語りかけているのだが、上句の言葉運びがやわらかく、ほの明るさのなかに哀感の籠もる一首になっている。
 おそらく全国には、知られていないけれど優れた歌をつくる人は何人もいるのだろう。けれども、話題になる機会はめったにない。毎年、膨大な数の歌集が出版されているので、どうしても読み過ごされてしまいがちなのである。新人賞もあるのだが、どうしても若い人の作品や目立つ作品・派手な作品が注目されやすい。静かでしみじみとした歌が埋没してしまう傾向があるのは、否定できないことだ。
 それでは、どのように目立たない作品を評価していくか。その一つの答えが、筑紫歌壇賞であるだろう。六十歳以上ということが注目されがちだが、それは評価のための一つの工夫にすぎない。その他の年代にも、いい仕事をしている歌人がいるはずである。方法を工夫すればそんな人々の評価が可能であることを、この試みは示唆している。
 筑紫歌壇賞のもう一つの特徴は、福岡という東京以外の地から情報発信しようとしていることである。今この文章を書いている「歌壇」も含めて、短歌総合誌はみな東京から刊行されている。それはしかたがない。ただ、それに任せきりにしていると、文化の多様性が失われるおそれがある。東京からの情報を受信するだけでなく、自分たちの生きている土地から、情報発信をしていこうとする姿勢・態度が大切なのである。
 昨年亡くなった前登志夫の著作が、今年も次々と刊行された。歌集『大空の干瀬』、エッセイ集『林中鳥語』、『羽化堂から』と続いている。思えば、前登志夫ほど土地からの言葉を発信しようとしていた歌人はいないのではなかろうか。今回のエッセイ集にも、山の生活に根ざした滋味深い言葉が残されている。一箇所だけ引用しておこう。

 

 「もともと出逢いの語らいなど、夢のようにはかなく無内容なものだろう。そんなとき大方の言葉は沈黙のうちに在る。
――ホトトギスが鳴いてるわ。
――どこかに朴(ほお)の木が咲いているらしいね。さっきから風が匂うんだ。
 (中略)自然や他者を語ることによって、おのれを語る、詠み人知らずの世界である。
 わたしは今あらためて、詠み人知らずの歌の〈私〉について考えさせられている。その〈私〉は、無いというかたちでのみ在りつづけるものであることを――。」
(『林中鳥語』)

 

 短歌の〈私〉について、静かに考えさせられる一節である。必ずしも自己主張することが〈私〉なのではない。
 もちろん、情報発信といっても、大げさに考える必要はないのである。たとえば評論などを書くとき、メディアで話題になっているものばかりを書くのではなく、自分の目で発見した作品や、自分がいいと感じた歌人を取り上げてみる。それを心がける人が増えるだけでも、状況は大きく変わってくるはずだ。
 たとえば私が今年読んだ歌集の中で、米田靖子の『水ぢから』が印象に残っている。その中から一首紹介しよう。

 

  足うらに淤能碁呂島(おのごろしま)の泥つちがわつと粘りつく田植をすれば

 

 作者は奈良県で農家をしている人らしい。『古事記』の「淤能碁呂島」を比喩にもってきたところが知的であり、新鮮である。また「わつと粘りつく」にも、なまなましい身体感覚があらわれている。この歌集と、従来の農村の歌(たとえば結城哀草果など)と比較してみてもおもしろいだろう。短歌について書くことの題材は、いくらでも存在しているものなのだ。
 パソコンが使えるなら、インターネットで情報発信することもそう難しいことではない。工夫と根気さえあれば、魅力的な情報発信が、誰にでもできる時代なのである。

* *

 

 「雪が降ると分かるけれど、「雪かき」は誰の義務でもないけれど、誰かがやらないと結局みんなが困る種類の仕事である。プラス加算されるチャンスはほとんどない。でも人知れず「雪かき」をしている人のおかげで、世の中からマイナスの芽(滑って転んで頭蓋骨を割るというような)が少しだけ摘まれているわけだ。私はそういうのは、「世界の善を少しだけ積み増しする」仕事だろうと思う。」
(内田樹『村上春樹にご用心』2007)

 

 評論家の内田樹はこう書き、村上春樹の文学にはスケールの大きなイメージ世界がある一方で、「雪かき仕事」を大切なものとして見つめる視線があると述べている。村上春樹には、料理や掃除などの〈家事〉をていねいに行うことによって、邪悪な存在がもたらす喪失に耐え、抵抗するという話が多い。〈家事〉というのはむろん、「誰かがやらないと結局みんなが困る種類の仕事」である。
 やや我田引水になるのだけれど、短歌という文学の本質には、この「雪かき仕事」があるのではないかと私は考えるようになった。短歌はいくらかの例外を除いて、社会的にはほとんど注目されることのないジャンルである。だから短歌は閉塞しているのだ、という議論は昔から、そして今でもしばしば繰り返される。
 けれども、短歌という形式にかかわる幾人もの人が、身の回りの小さな自然を表現したり、家庭や仕事のなかの哀歓を詠んだりすることは、どこかで世の中の「マイナスの芽」を摘み取ることにつながっているのではなかろうか。それがなければ、世界はもっとぎすぎすとした息苦しいものになるはずだ。そして、短歌の中で文語や古語を使い続けることは、現代口語だけが蔓延して日本語が薄っぺらになっていくことへの、ささやかな抵抗になっていると思う。
 文学の中には、目立たないけれど、「誰かがやらないと結局みんなが困る種類の仕事」が存在する。別に短歌がそういう仕事をしていると言って誇示する必要はないけれど、そんな視点から短歌というジャンルを見つめることも大切なのではないか。
 今年の迢空賞は石川不二子の『ゆきあひの空』と河野裕子の『母系』が受賞した。この二人の作品は、これと言って大きな主題が歌われているわけではない。もちろん病気や死を詠んだ歌が注目された面もあるけれど、その基盤にあるのは、日々の暮らしをねんごろに歌うという姿勢である。家事や身の回りの自然を、この二人の歌人は繰り返し繰り返し歌ってきた。それを歌うことによって、病気や死というつらい体験に対峙しているともいえる。その集積が、豊かな迫力(変な言い方だが)を生み出しているのだ。

 

  咲きはじめの花のおほきく見ゆること年々にして庭の白萩         石川不二子『ゆきあひの空』
  子供用のお茶碗を出して飯を食ふ今日は十三夜今日もひとりよ            河野裕子『母系』

 

 こうした歌には、自分の手で作り出してゆく暮らしの、たっぷりとした感触があらわれている。もう一人付け加えれば、今年亡くなった森岡貞香も、そのタイプの歌人であっただろう。森岡の歌は難解だと言う人もいるが、私はあまりそう感じたことはない。

 

  何事の無くに一日の過ぐるにもわが髪乱れゐてこの夕間暮       角川「短歌」二〇〇九年一月号

 

 何事もない時間を描きながら、特異なリズム感覚で、身体の仄暗さのようなものを伝えてくる歌人であった。
 もちろん、このような日常の手触りを歌っていくという方法とは逆に、従来とは異なる新しい感覚や題材を取り入れようとする試行も、非常に大切なことである。

 

  中心に死者立つごとく人らみなエレベーターの隅に寄りたり             黒瀬珂瀾『空庭』
  下痢止めの〈ストッパ〉といふ名づけにも長き会議のありにけんかも     大松達治『アスタリスク』
  自転車の学校名のステッカーひりひり剥がす 忘れずにいる       野口あや子『くびすじの欠片』
  待つことは天秤のやうからだからひとつづつ錘(おもり)をとりだして       森井マスミ『ちろりに過ぐる』
  どんぐりは家の中でもどんぐりでさびしさの数かぞえていたる             江戸雪『駒鳥』
  八月以外の十一か月の広島にしずかな声の雨は降りくる     谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』
  氷河期を火をもたず越えしものたちのまた鳴きいでてわれは目をあく       坂井修一『望楼の春』

 

 死に対するひんやりとした体感を持ち味とする黒瀬。言葉そのものに徹底的にこだわる大松。青春の痛みを身近な物に託して歌う野口。新しい〈本歌取り〉に挑む森井。ぼんやりとした不安感を言語化しようとする江戸。現代の広島を通して遠い戦争に触れようとする谷村。宇宙的な視点と日常的な視点との混交を目指す坂井。それぞれの方法や主題が、明確にあらわれた歌集が刊行された。その意図があからさますぎて、必ずしも成功していない歌も歌集中には含まれているように思うが、ここに引用した歌には、はっとさせられるおもしろさや、現代について考えさせられる深い批評性がある。それぞれの歌集をベースにして、多様な論議をしていくことが可能なのではないか。

 

  隠岐みれば光と影のひだひだの翳より出でて人は土打つ           馬場あき子『太鼓の時間』
  その齢にもなつて未練が有るのかとさう言はれればさうかと思ふ        清水房雄『蹌踉途上吟』
  仏像の写真を産の守りにと持ちゆき子を得て返しに来たる          大島史洋『センサーの影』
  あぢさゐの間(あひ)をめぐれるをとこ傘をんな傘見ゆ時にふれつつ            桑原正紀『一天紺』
  そのほかに二十余名が死すと伝ふ「そのほかの人」生きたかりけむ          柳宣宏『施無畏』
  浮橋の揺れ船の揺れひと呼吸ためらひてのち妊婦が渡る               真中朋久『重力』

 

 ベテランや中堅の歌集には、韻律そのものの力によって、感情や意志を伝えてくる歌が多かった。たとえば、繰り返し表現に注目してみよう。「さう言はれればさうかと思ふ」「をとこ傘をんな傘見ゆ」「浮橋の揺れ船の揺れ」といった伸びやかな調子。また柳の一首は「そのほか」という語を繰り返すことで、そこに括られる無名の死者の悔しさを歌う。長年、文語の歌をつくり続けることによって生みだされる身体的なリズム感覚がある。それは新人の歌集には無いものだ。そのリズムは、あるときは表面的な意味以上に雄弁であり、一冊を読むときに快い疲労を感じさせるほどである。歌集とはまさに、身体で読む書物なのだろう。
 今年はまた、力作の歌人論がいくつも出版された。松村由利子『与謝野晶子』、楠見朋彦『塚本邦雄の青春』、小高賢『この一身は努めたり 上田三四二の生と文学』、川野里子『幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌』などが挙げられる。

 

「なぜ、何でもない風景が上田を動かしたのだろう。流動食から三分粥になるといった身体の回復過程が、風景と自分との関係に新しい横断線を生んだ。自分と世界が再統合されたのだ。それこそが、世界が違っているように見えることなのだ。手術後の回復する身体がなければ、窓の外の風景は意味をもって立ち上がってくるはずがない。
くりかえすが、上田にとっての自然発見とは、一度壊れた身体の再統合作用を支点に、関係の結び直しによって生まれたものである。一度「死んだ」身体抜きには語れないものなのだ。」
小高賢『この一身は努めたり 上田三四二の生と文学』

 

「自らの内側にあるものを外側に、外側にある物を内側に取り込むかのようなこうした手法は外界と内面の境界を曖昧にしてゆく。言いかえれば内面を保障するものが取り払われ、「私」は外界に曝されているのである。その結果ここでは「私」の眼差しや感覚は、取り出された内臓のように鋭敏であり不安だ。葛原はこのようにさまざまな素材に自らの身体感覚を及ぼし身体の内側の感覚と外界との関係を探りつつ「幻想」の可能性を模索していた。」
川野里子『幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌』

 

 こうした記述に注目する。歌人論の中で、身体と「私(自分)」の問題が、大きな位置を占めている。世界と身体を再融合させようとした上田三四二と、身体の異和をもとに世界を捉えようとした葛原妙子の方向性は、全く違う。ただ、身体表現(リズムや発想など、さまざまなレベルがあるが)は、短歌における「私」を支えている重要な要素であることを、これらの評論集は示唆している。もちろん身体感覚に注目した評論は、従来から書かれてきているが、一人の歌人の歴史に沿って緻密に論じられている点に、一歩踏み込んだ新しさがあるといえよう。
 このように、新しい動きはさまざまなところから生まれてきている。問題は、それらがバラバラに動いていて、なかなかクロスしていかないことだ。歌人の価値観が多様化し、自分は自分、他人は他人、という感じになっている。自分の価値観を、他者の価値観とぶつけ合う場が、失われてきているのではないか。
 やや宣伝めくが、今年私は、大辻隆弘氏との共著で『対峙と対話』という時評集を刊行した。この時評集の最も大きなテーマは、短歌観の違う作者とのあいだで、どのように論争し(対峙)、どのように理解を深めていくか(対話)、ということだった。たとえば『バグダッド燃ゆ』(岡野弘彦)の読みでも、良いと評価する人と、良くないと批判する人が両方出てくる。世代によっても、言語観の違いは大きい。昔なら権威者が良し悪しを判断して終わりだったのだろうが、現在では絶対的な正しさは存在しない。それならどのように、価値観が違う人と向き合っていくのか。結局は分かり合うことは不可能にしても、あるところまでは問題意識を共有することはできるのではないか。そのような対話の努力をすることが歌人に求められているし、総合誌のようなメディアは、対話の場をつくりだすことが求められているのではないか。おそらくそれが、現在最も重要な課題であると私は考える。
 紙幅の都合で、取り上げられなかった作品も多々あると思う。お詫び申し上げるとともに、ここで漏らしてしまった作品については、ぜひ皆さんの手によって紹介や批評をしていっていただきたい。


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