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シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

「歌を読むという行為」―橋本喜典『行きて帰る』について―

2017年03月30日 | 日記

橋本喜典さんの歌集『行きて帰る』(短歌研究社)が、斎藤茂吉賞と迢空賞をダブル受賞したとのことで、とても嬉しい。

以下は、「新月」1月号に寄稿した文章。去年の11月に書いたもの。

再録しておきたい。

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歌を読むという行為


 短歌を読むことは、他の本を読む行為とは大きく異なっている。歌集一冊は約四〇〇首として、原稿用紙三十枚程度の文字数にすぎない。新聞などだったら、斜め読みであっという間に読み終わってしまう分量だ。しかし、歌集を一冊読むのは結構大変で、身体も疲れる感じがする。当たり前に行っているので、あまり疑問に思わないが、とても不思議なことではないか。

 

   地に落ちて真紅の椿(おも)伏すと天向くとあり面伏す多し

 

 橋本喜典『行きて帰る』を最近読み、とても良かったので、この文章ではすべてそこから引用する。これは何でもない情景を読んだ歌。しかし、「ちにおちて、しんくのつばき/おもふすと、てんむくとあり/おもふすおおし」と区切りながら読んでいると、椿の赤がまざまざと目に浮かんでくる。短歌の読者は、一行に書かれている文字に、リズムを与えながら読む。あるいは心の中で声にしながら読んでゆく。つまり、記号でしかなかった文字を、自分の身体の中で生命のあるものに蘇らせるわけである。

 新聞の速読のときは、目だけで読み、この身体化を行わない。だから、さらさらと〈意味〉だけを読むことができる。

 短歌の場合は、この新聞的な〈意味〉を読むわけではない。身体に響いてくる、リズム化された感情を読むのである。このとき読者は、作者の身体と感応し合っている。だから、赤い椿を見たときの作者の思いが、なまなまと伝わってくるのである。

 また、短歌を読むときは、書かれていないものを感じ取る力がとても重要になる。

 

   ニッケル貨拾ひてくれて手の内に拭ひてわれの手の平に載す

 

 この歌では、ニッケル貨(五十円玉らしい)を拾ってくれた誰かのことはまったく描かれていない。ただ、なんとなく見ず知らずの人のような気がする。そんな他人が、わざわざ手の内で拭ってくれたから、深い感銘を受けて歌に詠んだのではないか。

 おそらく、もう若くはなく、人生経験を重ねてきた人のように思われる。歌からは省略されているけれど、非常に丁寧なその人の姿が髣髴としてくる。男性か女性か。それは読者の想像に任されている――私は女性ではないかと感じるけれども。

 このように、短歌の解釈は、すべて明確にできるのではなく、どちらでも読める部分は残ってゆく。

 

   蒼波のわだつみの声に杭を打つ「だまれ」はかつての軍人言葉

 

 三枝昻之が評価し、有名になった歌である。下の句は分かりやすいが、上の句を解釈しようとすると、意外に難しい。すぐに連想するのは、太平洋戦争で戦死した学徒兵の遺書を集めた『きけ わだつみのこえ』である。戦死者の思いに「杭を打つ」、つまり二度と戦争を起こしてほしくないという思いを叩き潰すような、最近の政治の動きを暗示していると読むことができる。「だまれ」という軍人の威嚇する声が、いま再び蘇ろうとしているのではないか。そんな作者の危機意識も感じられるだろう。

 「杭を打つ」からは、辺野古の基地を造るために埋め立てられる海のイメージも浮かぶように思う。この一首は重層的であり、さまざまに読むことができる。軍国主義批判という大きな方向性は明らかだが、そこから先は、読みの答えが一つに決まらない。

 しかし、それでいいのである。答えが決まる、とは、逆に言えばそこで終わってしまうということだ。答えが出ないからこそ、歌の余韻はいつまでも続くのである。

 

   わが持てる聖書の文字の小さくてイエスのこゑのおぼろなりけ

 

 これも心に沁みる一首である。年老いて視力が弱くなり、聖書の小さな文字が読みにくくなったのだろう。だが「イエスのこゑのおぼろなりけり」という表現には、それ以上の味わいがある。若いころ読んだときには、情熱もあって、強く響いていたイエスの言葉が、今はぼんやりとしてしまった。そんなふうに読める。あるいは、年を重ねても、ついにイエスの教えに到達できない悲しみを歌っていると読むこともできよう。一つの答えがないから、私たちはいつまでもこの歌について考え続けることができる。

 

   大夕焼ひろがりひろがりかの辺りいづこの海に映りてゐるか

 

 この歌には、はっとさせられた。夕焼けの海を私は何度も見たことがあるはずだが、遠くの海に夕焼けが映っている様子を想像したことは無かった。しかし、この歌を読んだことにより、次に夕焼けを見たときには、それが映っている海を思うことになるだろう。リズムがとても伸びやかで、美しい一首である。

 このように、短歌を読んでいると、自分が持っていなかった他者の発想や感性に出遭うことがある。それを〈他者性〉と呼ぶことにするが、その短歌を知ることにより、〈他者性〉は自分の中に入り込んでくる。つまり、次に海の夕焼けを見たときは、この歌を想起することになるだろう。そのような形で、他者の言葉は、自分のものになっていくのである。

 短歌を読む、という行為はすなわち、他者を自分と融合させることだと分かってくる。他者のリズムを自分の身体の中で響かせる。省略された他者の言葉を自分で補う。それも、原理的には同じことなのである。他者と自分をつなぐことによって、そのあわいに新しいものを創出する。それが読むことの本質なのだ。

 

   三時間で妻の読みたる一冊をよぼよぼと十日を経て読み了へぬ

 

 思わず笑ってしまうが、読むという行為の根源に触れている一首であろう。読むとは、他者の時間に入っていって、ともに時間を過ごすことだと言い換えることができる。妻の三時間と、自分の十時間。別々の時間であるけれど、同じ時間を生きたともいえる。他者と自己は、このように言葉を通じて時間を共有するのである。


クロストーク短歌 第8回のお知らせ

2016年11月12日 | 日記

第8回 クロストーク短歌のご案内
~「若い世代の歌をどう読むか」~

 秋は新人賞の季節です。受賞作を始めとした作品やネットにあふれる若い世代の作品に、心地よい刺激を受ける一方でどう受けとめればよいのかとまどうこともあります。今回は、ゲストに「塔短歌会」所属の江戸 雪さんをお招きして、若い世代の歌をどのように読むのか。作歌のなかに若い感性をどう取りこむのか。じっくりとお話をお聞きしたいと思います。皆様のご参加をお待ちしております。

1 日 時  12月3日(土) 午後2時00分~5時 (受付 1時半~)

2 場 所  高津ガーデン 3階カトレアの間(tel 06-6768-3911)
  〒543-0021 大阪府大阪市天王寺区東高津町7−11
  【地下鉄】谷町線・千日前線「谷町九丁目」駅下車7分
  【近鉄】「上本町」駅下車3分

3 会 費  2,000円  

4 申込方法 メールにてお申し込みください。
  メール宛先 crosstalknokai●gmail.com  鈴木まで(●を@に変えてください。)
  

 件名 「クロストーク短歌の申込」 
 本文  ①お名前 ②連絡できる電話番号を送信してください。
 (定員になり次第締め切りますので、ご了承ください)


沖縄シンポジウムのお知らせ

2016年10月25日 | 日記

シンポジウム

時代の危機に立ち上がる短歌

今、沖縄から戦争と平和を考える

 

 

                                                             辺野古 

 

日時  2017年2月5日(日) 午後1時~5時(受付12時半より)

場所  沖縄県青年会館(那覇市・モノレール旭橋駅下車・電話098-864-1780)

会費  1000円(予定)

 

◆プログラム◆

開会のあいさつ   比嘉美智子

鼎談        三枝昻之  永田和宏  名嘉真恵美子

スピーチ      玉城洋子 ほか6~7名を予定

ディスカッション  大口玲子  光森裕樹  屋良健一郎  吉川宏志(進行)

閉会のあいさつ   平山良明

前日の2月4日(土)午後に、普天間基地・辺野古を見学(那覇出発)。

前夜祭も行います(那覇予定)。

※2月4日からの参加希望者は、

●沖縄県の方→屋良健一郎

mail: kenchin566orumok●yahoo.co.jp   ●を@に置き換えてください。

●沖縄県外の方→吉川宏志

mail: searain1969●gmail.com  ●を@に置き換えてください。

へ、2016年12月末日までにお申し込みください。詳細をご連絡します。

*シンポジウムのみ参加の場合は、当日参加も可能です。

主催 「時代の危機に立ち上がる短歌」実行委員会・K5(強権に確執を醸す歌人の会)


今年四月に書いた文章

2016年07月04日 | 日記

参議院選が近くなってきました。

何もできなくて心苦しいのですが、今年の4月8日の西日本新聞に寄稿した文章を掲載します。

参議院特別委員会の安保法案の裁決で、「人間かまくら」を作って、非常に強引に通してしまったことを忘れることはできません。少なくとも、もっと議論を続けるべきだったでしょうし、安倍首相はもっと誠実な答弁をすべきだったと思います。

参議院のブレーキを踏む役割が、非常に重要になってきました。いま、ブレーキの力が弱くなってしまうと、とても危険なことになるのではないか、と感じます。

以下の文章にも書いていますが、投票においても、〈これから何が起きるか想像すること〉〈自分ではない、誰かの痛みを感じ取ること〉が大切なのではないでしょうか。

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詩歌の言葉の力

何が起きるか想像し他者の身になること

 

 安保法制が施行されると、自衛隊員が海外で戦死する可能性が高まる。近い未来に、南スーダンなどの派遣先で、「自衛隊員が戦死」という大きな見出しが新聞に載ることも、十分に予想されるのである。逆に外国の人々を殺傷してしまうこともあり得る。政府は武器輸出に力を入れているので、日本製の武器で殺される人たちも出てしまうのではないか。

 報復テロが、東京などで引き起こされるかもしれない。フランスやベルギーで起きたことが、日本で繰り返されない保証は全くないのだ。

 だが、目の前の風景は、桜が咲き満ちて、平穏そうに見える。戦死者が出る、と言われても、自分とは関係ないと思ってしまう人も多いのではないか。デモが活発に行われているが、国民全体から見れば、まだまだ少数なのである。

 今大切なのは、これから何が起きるのかをリアルに想像する力と、他者の身になって感じ取る力だと思う。この二つは、詩歌においても非常に重要なものである。

 大口玲子(りょうこ)の『神のパズル』(すいれん舎)が刊行された。大口は福島第一原発の事故ののち、幼い子とともに九州に避難した。その体験を描いた短歌とエッセイを収録した一冊である。興味深いのは、大口は事故が起きる前から、原発の危険性を予感した歌を作っていたことである。夫が新聞記者であったため、大口は次のように歌っている(二〇〇五年作)。

 

  「原発事故取材安全マニュアル」を夫が持つこと知りをれど言はず

  もし夫が被曝して放射性物体とならばいかにかかなしからむよ

 

 震災前から、これから何が起きるのかをありありと想像していたのである。その想像力を支えていたのは、時代に対する強烈な不安感であった。詩歌の言葉は、ときどき直観的に未来を捉えてしまうことがある。詩歌を創るとは、近づいてくる何か恐ろしいものへのセンサーを研ぎ澄ませることでもあるのだ。

 

  産めと言ひ殺せと言ひまた死ねと言ふ国家の声ありきまたあるごとし

 

 最近の大口の歌である。戦時下の日本では、子を増やせ、敵を殺せ、国のために死ね、と公然と言われてきた。それが再び繰り返されるのではないか、という怖れがにじむ。大口の予感が当たらねばよいがと、願わずにはいられない。

 もう一冊、鳥居という若い女性の歌集『キリンの子』(KADOKAWA)を紹介したい。鳥居は母を自殺で亡くし、児童養護施設に預けられた。そこで壮絶ないじめを体験する。

 

  全裸にて踊れと囃す先輩に囲まれながら遠く窓見る

  爪のないゆびを庇って耐える夜 「私に眠りを、絵本の夢を」

 

 二首目は、爪を剥がされた痛みに耐えながら、眠るときだけは楽しい夢を見たいと願っているのである。現在の児童の貧困や虐待を、なまなましく表現した歌でもある。そして鳥居は次のような歌も詠んでいる。

 

  燃やされた戦地の人を知る刹那フライドチキンは肉の味する

 

 自分が経験した痛みを通して、鳥居は、戦地の人々の肉体的な痛みを感じ取ろうとする。戦争で傷つくのは、無関係な他人なのではなく、もしかしたら自分だったかもしれない人たちなのだ。そう想像することが、今必要なのではないか。自分と同じような人々が死んでいくかもしれないとき、自分は何ができるのか。その一歩を踏み出させる力を、詩歌の言葉は持っていてほしいと思う。