
豊橋駅直結のホテルアソシアに昨夜から泊まっています。
昨日は二川駅まで戻って
二川宿から吉田宿まで歩きました。
夕食は、
吉田宿本陣跡の老舗鰻店丸うで石釜まぶしを。
正月休暇最後の日曜日、鎌倉七切通の一つ
名越えの切り通しを独行する。
この標識の上の道を左に上ると白猿の寺、法性寺に出る。
直進すると小坪7丁目の隧道へと下る。
案内板が少なく迷いやすい峠道だ。
甘酒茶屋は取り壊して跡形もなかった。
でも甘酒は健在。
仮設店舗で営業中。
旧東海道を登山バスで甘酒茶屋まで。
懐かしい甘酒と安倍川餅・磯部焼きで昼食。
旧東海道石畳を芦ノ湖元箱根へ向かう。
まだまだ急坂が続く。
会津西街道を踏破してから、
何だか、ボケッとしてしまった。
昨夜の土曜日は、
三船敏郎、仲代達矢、香川京子が演じた映画ではなく、
佐藤浩市、阿部寛、鈴木京香のリメイク版”天国と地獄”を観た。
今夜の日曜日は松本幸四郎とフカきょんの”生きる”を観た。
志村喬がブランコで歌った
”ゴンドラの歌”は、ボクの好きな歌の一つだ。
そろそろ、あの歌が似合う年齢になったのかも?
松本幸四郎も好きな役者だが、
志村喬のブランコのイメージが脳裏に浮かんで、
ラストシーンはブランコではなかったかと、
気になったのは何故だろう?
今日は、牛の散歩に駿河小山から山中湖畔平野への道を、
カングーを転がして、
三国峠(神奈川・山梨・静岡)まで出かけた。
峠に車を置いて、
鉄砲木の頭(明神山)迄登って、
山中湖と富士山を観ようかと思ったのだ。
行けたら逆に三国山から明神峠を越えて、
アザミ平でフジアザミの群落を観るつもりだった。
残念ながら、牛の散歩は思うようにはかどらない。
先ずはランチを登山の前に食べなければ?
御殿場インターを出たところで、
箱根へ向かってハイランドホテルでランチのつもりだったが、
”時の栖”の看板を見て、
牛の希望で地ビールランチに変わった。
地ビールを飲んだ牛が山道を歩くわけがない。
鉄砲木の頭のすぐ下まで来たところで、
三国山から雲が下りてきて、
不気味な霧がススキの草原を隠した。
「牛が一緒じゃ戻るべきだね?」
「そうね。少しのんびりしすぎたし?」
登山の鉄則は”撤収はためらうことなかれ”だ。
それに、雲に巻かれて富士山が見えるわけがない。
”日曜日のドライブは四時前に帰路に付くこと!”
これも、ドライブ旅行の鉄則だ。
平野の石割の湯も横目で見て、
道の駅”道志”迄ノンストップで下った。
それで、夜は”生きる”だ。
天国と地獄のラストシーンで、
佐藤浩市が、鈴木京香にぴったりの
ハイヒールを造った”手に職”の明るさ?
生きるのブランコで、松本幸四郎がいかにも楽しそうに
ゴンドラの歌を歌ったというラサール巡査の話。
今になって想い出すと、喫茶店で歌った聞くに堪えない
歌との違いを、うっかり見過ごすところだった。
志村喬のゴンドラの歌を、今でも脳裏に残るということは、
きっと黒沢監督のすごさだったんだなと思う。
「火曜日に誕生会があります。
けんちゃんと一緒にきてくれませんか?」
と恵美子先生からメールが来てた。
「ケンちゃんのもげた首を修理できたらいいのですが?
明日頑張ってみます」
二つの映画・ドラマに貰った元気を明日は、
ケンちゃんの首修理に注いでみようと思う。
霧で撤収した三国峠には、
今度は電車とバスで再挑戦してみよう。
まだまだしたいことは沢山あるからね?
大きな散歩をしています。
九月二十九日、四時(七つ)に三郎を起す。
日本橋には七時に着く。
「三郎。京都までだ。三条大橋まで歩ければ、お前の病気も、きっと治る。」
日本橋の中央に『日本道路元標』がある。
車をやり過ごして元標の上に立つ。
いよいよ三郎と二人で、大きな散歩に出立だ。
西銀座で若き日の勤務先日進広告社跡地を見る。
新橋で烏森神社に。
光明寺へ足を向けたが、思い直して芝大門角で小休止。
泉岳寺で線香を求めて四十七士全員に手向ける。
品川駅南インターシテイーで朝食。
鯨塚を見る。品川寺で順海前住職の墓参。
明日は、東海道品川宿制定四百年祭りで順和和尚も醍醐寺から帰山するという。初日は立会川駅まで。
翌三十日、六郷橋を渡り川崎宿。
十月六日、神奈川。十一日、権田坂越えで戸塚。
十二日、藤沢。遊行寺に照手姫の墓を訪ねる。
十九日、大磯。二十日、国府津。二十二日、雨に降られる。
湯本まで。
二十六日、甘酒茶屋で休み、元箱根のユースホステルに泊まる。
翌二十六日、石畳の急坂を下り三島へ。
十一月九日、沼津。十日、原、吉原。十五日、岩淵(富士川)。
十六日、蒲原、由比。十七日、興津、江尻(清水)。二十五日、府中(静岡)に宿泊。ここから一泊二日のペースをとる。
二十六日に安倍川を渡り蔦の細道を登る。
岡部、藤枝、島田、金谷、日坂、掛川、袋井、見付と歩き。
浜松には十二月八日夜。舞阪、新居、白須賀から二川を経て吉田(豊橋)。
御油、赤坂、藤川。岡崎には二十三日夜。
二十七日、知立。二十八日に鳴海、宮(熱田)。
三十日、桑名から四日市。大晦日の日没に四十六次目の宿場町、亀山宿に着く。
ここまでで延べ八十二万六千八百二十五歩。
というわけで、三郎と二人でまだ『大きな散歩』を続けています。 <2002.1.5&nbsp; 青鬼>
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園舎と住まいの改築に二年余、
気がついたら三郎とペチが、心身共に壊れていました。
ペチは新居に5ヶ月住んだだけでした。
一切肉も食べなくなったペチを抱いて思いました。
「そうだ。散歩に行こう。
睡眠薬を飲まなければ眠れなくなった三郎を治すには
ペチの大好きだった散歩がいい。
それもとびきりの散歩が」。
「東海道五十三次。歩き通せば友達に自慢できるぞ!
京都に着けば、大津の若様がきっと祇園の御茶屋へ連れて行ってくださるぞ!
去年の四月に、若様と舞子さんに会いに行ったの覚えてるだろ?
都踊りの二階の席で、綺麗なお姉様に手を振ったの覚えているだろ?」
横山台を七つ(4時半)に立って、日本橋の道標を6時に越え、
旧東海道散歩旅行を始めたのです。
ペチが死んで7日めの朝のことでした。
小田原までは日帰りで、
箱根八里からは一泊泊まりで、少しずつ距離を延ばして行きました。
年内に京都までが目標でしたが、
100キロの巨体を支える三郎の足は、初日から豆が破れ、
エアロビで鍛えた身体は嘘のようです。
大晦日の夜に、東海道四十六次目の亀山宿にたどり着きました。
相模原から行ったり来たり。
歩き着いた場所まで、列車に乗って行くのです。
九月末から大晦日まで、仕事の合間に出かけました。
一日歩く距離は、平均20㌔前後です。
但し、帰りの駅があるところまでは歩きます。
最長は水口宿から草津宿まで、
36㌔でした。
関の木賃宿から鈴鹿峠を越えて、水口の宿までも長丁場でした。
あの道には、近くに電車の駅がないのです。
街道歩きのアイデアは、
高島屋のダイレクトメールで見つけました。
ホームページ作りに苦心してたので、
インターネットで、その人を探しました。
その人の名は、”浮浪雲”
現代の新方式の街道歩きの先達です。
折しも東海道宿駅制開通400年祭でした。
品川宿を歩いた日に、お祝いの幟を見たのです。
東海道沿いのバスや電車がタイアップして
JR東海が大々的にPRしてたのです。
旧東海道の宿場街が観光名所として現存する辺は、
400年祭実行本部事務局に申し込むと、
10冊にまとめた日本往来・東海道ウオーキングマップが貰えました。
付録にJR東海割り引き券も付いていました。
二割引きから最高半額まで、
新幹線も割引になりました。
10コース全部歩き通して各駅に置かれたスタンプを押せば、
東海道踏破の証明書も貰えました。
余り歩きたがらない三郎を急き立てるのに、
刺激になりました。
但し、JR東海の割引は鈴鹿峠の手前の関宿までです。
半年の間に、
飛び飛びに32日間。 延べ歩数826,825歩、537kmも歩けたのです。
互郎は75キロにもどり、幻覚も幻聴も消え、睡眠薬も不要になりました。
講師も定年。可愛い学生達とも別れ、
園長職も譲って、
ボクも、少し暗くなっていました。
最初は三郎の病気を治すために歩いていたのですが、
いつかボクが若返りました。
名古屋は大雪と聞きました。
鈴鹿峠も雪でしょうか。
残る7宿。こんどは一気に京都を目指します。