
その日は、すこぶる付きの上天気だった。
私は、久しぶりに一人で金時山に登ってみた。
澄んだ山頂の空気を吸うと、下界のしがらみを忘れる。
金時山頂で茶屋を営んでいる初代金時娘の小見山妙子さんは、
私と同年で中学時代からの友人だっだ。
その時、金時茶屋の縁台に坐っていた客の一人が、私に声をかけた。
「失礼ですが、もしかしたら、あなたは沼津の盲学校へ
お話をしにいらっしゃったことがありませんか。」
妙子さんが、けげんな顔でその人を見た。
まだ二十歳を過ぎたくらいの青年だった。
「確かに十年ほど前に伺ったことがありますが。」
「やっぱりそうでしたか。連れが聞いてみてくれというものですから。」
青年の連れは、目の不自由な美しい娘だった。
娘は恥ずかしそうに私に向かって会釈をした。
「私たちは、沼津盲学校の同窓生なんです。
私は、あのとき六年。三洋子は五年生でした。」
「なぜ、私がわかったのですか。」
「三洋子が、あなたの匂いを覚えていたんです。」
「ぼくの匂いを。」
「実は私も、あなたのお話を聞いていたのですが、
後の席にいましたし、匂いまではわかりませんでした。
あの日、三洋子は一番前の席にいたのです。」
小学生も、十年たてば青年になる。
後天性の弱視だった青年は、手術のお陰で視力を取り戻したそうだ。
彼女は、光を感じる程度の先天性の光覚盲だった。
「三洋子は、幼いときから嗅覚の訓練をしていたのです。

彼女は先天盲でしたから、
両親が、聴覚に併せて嗅覚も鋭ければと考えたそうです。」
香水の香りを識別する人は、十万種くらいの匂いを嗅ぎ分けられるという。
記憶と匂いが結び付くことも実証されていた。
私の童話を、彼女は全身で聞いてくれたのだ。
「昨日から私たちは、新婚旅行で箱根に来たのです。
あなたの童話に出てきた金時山に登って
富士山をバックに写真を写そうって、三洋子が言い張るものですから。」
私は、自分の匂いに自信を持ってよいんだなと思った。
でも、いったい、私はどんな匂いがしたのだろうか。
私は彼女に尋ねてみた。娘は頬を染めながら私にこう答えてくれた。
「山の匂いがしました。先生の匂いは箱根山の匂いだったんだと、
此処へ来てわかりました。」
私の風土は、箱根山だったのか。

私は妙子さんに同じことを聞いてみた。
「そういえば、秀行さんは体臭が薄いみたい。男臭くないわ。」
しばらく前に結婚した純朴な旦那が、そばでもくもくと働いていたが、
男臭くないと言われては少々暗くなった。

茶屋の外で、二人の姿が見えなくなるまで見送ってから、
私は、茶屋の奥にいた純朴な旦那と妙子さんに別れを告げた。
その時、妙子さんは、一人で下山口まで見送ってくれた。
そして、さよならの握手をした私の手を握り返しながら、こう言った。
「本当は、秀行さんの匂い、私もわかるんよ。
でも、この頃だいぶ薄れてきたけれど。」