青葉学習塾・書道教室へようこそ!

宮城県白石市で学習塾、習字教室を開いております。思いついた事をメモ書き程度につぶやいて、後に反省し、修正したりしてます。

臨書!関戸本 その3

2019年05月31日 | 書道
関戸本古今集を臨書しました。



小筆の先がすり減ってしまい、ちょっと太かったです。

久々だったので、甘い部分があったり、仕方ないや。

あ、誤字っぽいのを、発見してしまった。

後でこっそり修正します。

細い線もっと入れたかったなぁ。

臨書!元永本 その2

2019年05月26日 | 書道
元永本古今集 上(一)二玄社 32・33ページを臨書しました。



前回に引き続き、基本的な箇所を書きました。実際はもっと綺麗な料紙に

書けば良いのですが、練習なので白い仮名半紙で書いてます。



あ、基本的と述べましたが、今回の元永本の特徴は、

はなち書き、漢字と仮名の調和という点ではないでしょうか。



平安中期では、一行の文字を上から下までつなげて書くような書き方が主流でした。

ただ、平安後期、1120年頃の元永本では、一文字一文字を離して書くという「はなち書き」も

しています。



そして、平安中期では、仮名は仮名どうし、漢字は漢字どうしで書くのがほとんど

でしたが、平安後期の元永本では、仮名、漢字の両方を一つの紙面上に調和して書くことも

しております。時代の流れが、貴族たちの中で書き易い方向性、漢字と仮名の調和に

導いたといいましょうか。



現代の展覧会における、調和体とか近代詩文書部は、基本的に連綿線はなしで、という

ルールなので、はなち書きは勉強になります。(疑問点もありますが)

そして、今回の中央後半部分の「春日野に・・・」の所なんかは、全体的に見ても違和感なく、

漢字と仮名の調和が本当に、神がかっていて好きなんですよね。

私の臨書はまだまだではありますが・・・汗



現代書でも、調和が上手くいっている作品を拝観しますと、

私自身は、嬉しくて飛び上がります。



はなち書き、漢字仮名の調和・・・、元永本にはちらちらとこういう姿もあるので、

大好きなんですよね!

乱筆失礼しました。



#仮名 #臨書

臨書!元永本 その1

2019年05月25日 | 書道
元永本古今集 上(一)のP28・29を書きました。



仮名を学習するうえで、基本となる古典といえば、

大抵は高野切三種とか、慣れた人にとっては関戸本古今集だったりします。



ただ個人的ですが、私自身は元永本古今集が好きなんです。

完本ということもあって、全部で4冊(一冊170ページくらいだったかな×4冊)もあります。

高野切三種とか、関戸本古今集は最初から最後まで、レベルの高い書き方で感動させられっぱなし

ですが、元永本古今集は、かなり大量にあるため、

筆者の書き方が違う所もあり、悪く言うと下手なんじゃないか???

という書きぶりもあり、それが逆に畏まらなくて好きなんですよね。

下手っぽい所を習うと上達しないので、悩ましい古典でもあります。



今回は、最初の基本的な書き方で、個人的にいいなぁと思うページを

臨書してみました。まあ、相変わらず一発書きで、まだまだ甘いですが。

私自身書いてみて、気づいた特徴などを羅列していけば、今後の自分の書も

より面白くなるかなと思っています。まあ、個人的見解なので、役に立たない事とか

違うんじゃないかという事まで、述べちゃうかもしれませんが・・・汗



今回書いてみて、「は」「な」「多(た)」等のくるんと回る箇所が

潰れているなぁと思いました。潰れるとあっさりした印象になります。

あと、思ったよりも縦長な字形です。こういうのは縦作品の創作に活かせるかなと

思っております。

最後にもう一つ、「さ」のくにゃっとした書き方が、個人的に好きでないなぁ。

好きな古典なのにダメだしするとは、とんだ無礼でした。



また、時間がある時に、他の良い部分をまた臨書したいと思います。

応援してくださる方がいましたら、頑張るかもしれません。

では。

日常毛筆 その3

2019年05月24日 | 書道


たまには、地名や人名を書く練習もしないとと思って書いてみました。

久々すぎたので、手がいう事をきかないです。

半紙のほうは、もう少し下に書けばよかったなぁとか、

地名人名のほうは、もう少し字間と中心を意識して書けばよかったなと。

ちなみに、楷書体が一番難しいです。

楷書体を狂いもなく書ける人は、実力者だと思っております。

日常毛筆 その2

2019年05月22日 | 書道
一発書きです。



やっぱりPCで文字を打ったり、ペン字でサラサラと書くほうが手軽ですね。

小筆で書いていくと、整えて書こうとしても、長い文章になるほどミスというか甘さがでます。

こういう所は修正できませんので、もう私自身は失敗していてもこれでいいや

という事にしています。こういうのを当たり前のように書いていた昔の人は凄かったんだなぁ。



現在、書を本格的にやっているほとんどの人は、展覧会に向けて大きな作品を

大筆などを使って、百枚とか何度も清書し、ミスを無くし、その中から一枚を展覧会に発表します。



日常小筆書と展覧会書の違いをちょっと羅列しますと、

まず、使用する筆が根本的に違います。展覧会書は目立つ事も必要なため大抵大筆などになります。

そして、小筆日常書では何度も清書をしません。年賀状などを同じ人に向け、100枚も清書しませんし。

あと個人的に、展覧会書ではミス厳禁ですが、日常小筆書のほうはそれほどミスにこだわらないですね。



案外、私の塾に書道を習いに来るご年配の御方は、

展覧会作品を書きたい訳ではなく、自分の名前とか小筆で上手く書きたい。

ちょっとした作品を書きたい、というのがほとんどです。



しかし書道の上の先生ほど、展覧会に向けて書く事を述べてきます。

展覧会などで大きな団体に所属し、審査員達から認められてトップ賞とか○○賞とか

いただけたら、書家として、とても名誉でありがたいのだと思ってます。



ただ、審査員が認めてくれた作品は、書道に関係ない親戚や友人に見せた所で、

「よく分からない」みたいになっちゃったりもします。



自分の書きたい書はどこにあるのか、ベクトルがずれないように、

書いていければと思います。私の場合は家族・親戚等が

喜ぶ作品が書ければ、それで良いと思っています。

・・・乱筆失礼しました。

ペン字 その2

2019年05月21日 | 書道
筆を持つ時間が無いので、仕事の合間にペン字を少々書きました。



文字の歴史は、刻む彫る→筆で書く→ペンで書く→PC等で打つ・・・

今や、ペンで書くとかPCで文字を打つのは日常行為ですが、

筆のほうが芸術的で、心がこもっている・・・などと言われます。



ただ私自身、正岡子規の絶句三句などは拝見して感動しましたけど、

その三句にそえられている活字文章のほうに、一層目頭が熱くなりましたし。

普通に活字の小説を読んでも泣きますし。感動を伝えるには

筆が必ずしも良いとはなりません。すいません。



そういえば最近、書道の作品を拝見して泣いたことなんてないなぁ・・・と。

なんか、筆文字に対して否定的ですね・・・汗



PC文字ではその人らしさを表現できません。ペンと筆を比べると、

筆のほうがより変化を出せるため、より芸術的だとされてます。



ただ、そこで書かれる文字ですが、伝えるための文字が、読みづらくなる

のは仕方ない事でしょうか。私自身は読みづらい作品は、敬遠しちゃいます。



内容が伝わらなくてもよい、視覚的に面白い書き方だけを目指すのは、

文字の大切さが無くなりますし、読めなくても良いというのは嫌いです。

あ、同じことを二回述べちゃいました。すいません。



えと、例えば、上手い技術を見せつけるため、「疎密」とか「潤渇」と言って

墨量多くしすぎて読めなくなってもいい、かすれすぎて読めないとか。

縦画、横画等をうねらせ過ぎ、傾けすぎたりして読めなくして、全体的に

バランスがとれて上手いだろー的な、テクニック重視なのは、好きではないです。

テクニック重視では、中身が薄くなり、より一層、日常から疎遠になります。



大切なのは、どんな感情表現をしているのか、鑑賞者にどんな思いが伝わるかだと

思っています。

まずは、どうみても読みやすくていいと思うんです。相田みつを作品みたいに。

読める作品のほうが、結果的に庶民に愛され、長く時代に残ります。


今日も、とりとめの無い事を。乱筆失礼しました。

ペン字

2019年05月20日 | 書道
先週は体調を崩してしまい、安静にしていました。



ペン字は自信がありませんが、一発書きで書くとこんな感じです。

いかにもな書き方ですが、ペン字や小筆字に個性とか現代性というのは必要なのか?

と思う時があります。

学生時代に書写や書道で基本的な事を学びます。しかし硬筆や小筆の授業で

自分らしく現代的なものを書きなさいという授業なんて、ほとんどないです。

綺麗に整えて書くことが良いという事しか学んでいません。


そんな中で、大手の書家先生などの達筆なペン字や小筆字を拝読する機会があると、

凄いな~こんな風に書きたいな~となったり、逆に、

読めないんだけどなんか雑なんだけど、これでいいのか?という疑問もでたり、

いろいろ考えさせられます。


ペン字や小筆の書は、なんか芸術として評価されていない感じもします。

小筆の臨書作品なんかはごく少数ですが、展覧会、学生展などでみかけます。しかし、

大手展覧会で、千文字以上書いた創作の小筆作品ってあるのかなぁ・・・


私が好きなのは、やはり平安古筆をしっかり習っている御方の小筆の書が好きですね。

仮名が流れゆく書き方は、日本独特の美しさだと思っております。

平安の連綿などが、現代に合わないという指摘もありますが、良いものは良い訳で。

まあ、変体仮名が多いと読めなくなって悲しくなりますが。


読める書で素敵な手紙をいただいた時は、すぐにファイル等に保管します。

乱筆失礼しました。

「書道芸術 見て読む中国」を読んで その4

2019年05月14日 | 書道
またまた読みました。



「 中国書道では、作品の中の漢字は形を持つ物象であり、一定の筆法、字法、章法に従い、

 秩序、順序があり、一気に書き上げるものである。それにより作品が時間芸術としての

 過程の美や動態の美を帯びる。・・・誰もがなじんでいる規則に従って読める字を

 書きあげることで、鑑賞者は親しみを感じ、そこから啓示や挑発を受けることができる。

  書道家のねらいは形に情を託し、理性で筆を運ぶことにある。唐の書道評論家、

 孫過庭がその『書譜』の中で「情が動き、形がものを言う。陽ののびやかさから陰の惨めさまで、

 すべてが天地、自然の心のままに」と述べている。

  書道の表現した感情は古代の『詩経』『楚辞』などの詩文に表れた感情と共通している。

 即ち文学的才能や文学的教養に根差した穏やかで、誠実、そして高雅で自然な感情であり、

 それは偽らざる内面世界の反映であって、

 無意識や潜在意識、非理性的な感情ではなく、人を驚かそうとする奇矯感情でもない。

 中国書道の目的は人の心弦を動かし魂を慰めることであり、官能を挑発し刺激することではない。」

―――

と、筆者の見識が述べられていました。



 日本では、墨象作家は非文字性も求めたりするし、筆ではないものを使って作品製作を

することもあります。

ただ、他の部門、漢字・仮名、調和体で、読めないような方向性で作品制作を

した場合は、良いのだろうか?

それで新しい書体を発見したとしても、評価するのは審査員の先生次第です。

一般人が、展覧会に来て感動し、筆を持ってくれるわけでもないですし。

パフォーマンス宣伝を一生懸命にしたところで、一般人が日常で筆を持とうとしない、

馴染めない親しめない限り、すでに衰退ジャンルなのだと思います。



展覧会作品製作もしばらくしたら終わりますし、小筆の日常書から、勉強しなおそうかなぁ。

書家ではありませんけど、衰退ジャンルオタクとして頑張ります。

乱筆失礼しました。

「書道芸術 見て読む中国」を読んで その3

2019年05月11日 | 書道
またまた読みました。

「書は人を以て貴しとす」という言葉について書かれていました。

――

宋時代の名将岳飛の書は、真筆ではないとも指摘が生じたが、

彼の高尚な人柄とともに、今でも評価されている。


一方、明末の張瑞図の書は、魅力はあるが、

後世の書論家は、彼の人柄を嫌ったため、言及されたり

研究されたりすることも少なかった。


人柄からその書を軽んじてしまい、書の持つ本来の価値をおとしめて

しまうならば、これは芸術的な角度からすると、大変残念な事である。

しかし、一方で書は君子(人格者)の芸であり、鑑賞者は書を見る時に

どうしてもその作者を連想してしまう。

人柄と作品を、完全に分けることは難しい

――

まとめるとこんな感じの内容でした。正直な感想を述べるなら、

(書道を真面目にやっている御方はスルー願います。)








現在の書の評価は、権力ある審査員のいる団体に所属し、

そこで出費をかえりみず立ち回れる御方が、良い書を書く(賞を貰う)

ってことじゃないのかなぁ。


あ、これも愚痴になるのかな。まあいいや。


今年も、とある大手展覧会に出品しました~。

個人で出すと落選確定なので、他地域の団体から出しました・・・爆


私は、人格者でもなんでもないから、賞とは程遠いことがわかります(笑)

雑なので、後ほど文面を修正するかもしれません。