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「大東亜共栄圏」の好機到来

2025-06-10 17:40:30 | 戦争
「大東亜共栄圏」の好機到来
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」409/通算840 2025/令和7年6/10 火曜】 産経2025/6/3 東京大学名誉教授・平川祐弘氏の「<正論>大愛国者、福澤諭吉を読もう」から。 

≪欧州留学中、日本人としてひどく恥ずかしい思いをした。戦前のメーデーにも参加したという労組代表に通訳として同行した時、その老闘士がロンドンの市中で立ち小便をした。それはことごとに紅茶を出すイギリスの習慣の生理的結果だったが、通りすがりの一英人がすたすたと私に近づくや「あの人はあなたのお父さんか」と言った。「Oh,no!」と答えたが、その時は神経が参った。

その鬱憤がまだ消えやらぬ直後、パリの学寮へ戻って『福翁自伝』を開くと、竹内下野守ら使節団一行のヨーロツパ巡回の次の一節が目にふれた。

――パリのオテル・デュ・ルーヴル(福澤諭吉いうところのホテルデロウブル)で、殿様が用を足すその間、家来は二重の戸を開け放して、殿様の御腰の物を持って、便所の外の廊下に平き直っている。廊下は「男女往来織るが如くにして、便所の内外瓦斯(ガス)の光明昼よりも明(あきらか)なり」。そこヘ通訳の福澤も通りかかった。「驚いたとも驚くまいとも、先づ表に立塞がって物も言はずに戸を打締(ぶちし)めて、それからそろそろその家来殿に話したことがある」――

これを読んで神経のたかぶりが弛(ゆる)んで、ほっとしたことをおぼえている。この「ぶちしめて」という書き様、その滑稽に私まで救われる思いがした。

◎:日本人必読の一冊/// 私は実はその時はじめて『福翁自伝』を読んだ。そして一体なぜ今まで読む機会が無かったか、と私の教養欠如を腹立たしく思った。
平川家には昭和初年に改造社から出た現代日本文学全集五十冊が揃っていた。それを納戸(なんど)からとり出して小学四年の夏休みに漱石の『猫』『坊っちゃん』など面白くてたまらない。総ルビだから読める。江藤淳は「自分が漱石を読み出したのは中学だ。君はませているな」と言った。

ところがそんな読書好きの私が、この日本人必読の自伝を読まずに過ごしてきた。なぜ読む機会が無かったか。戦前と戦後の西洋の日本研究の大御所チェンバレンもライシャワーも「日本について一冊書物を選べ」と言えば『福翁自伝』と述べている。
私の目に福澤が触れなかった理由は考えるとこうである。

第一は、早稲田閥の影響下に編集された(円本と言われた)現代日本文学全集は、早大文学部の創設者坪内逍遥には一冊丸ごと五百三頁(ページ)を当てたが、慶應の創設者福澤諭吉には『明治開化期文學集』の中の三頁しか当てなかったからだ。
第二は、国文学者の文学観が狭く、文学は小説と限定し、自伝を排除した。

◎:日本は黄禍に非ず/// 第三は、これが最悪だが、敗戦後のわが国には幕末維新以来の「日本の西洋化」という歴史の選択を立国の公道とみなさず、福澤の「脱亜論」が日本のアジア侵略をもたらしたという説が左翼にもリベラルにも強かった。

そんな福澤の悪口が言われた昭和四十年代、私は近代日本の指針を「和魂洋才の系譜」に求め、その路線の推進を唱えた森鷗外を中心に博士論文を書いた。
福澤の「脱亜論」は「和魂」や「士魂」を棄ててはいない。私は「脱亜論の何が悪いのですかね」とある日、国際関係論の衛藤瀋吉教授に声をひそめて尋ねた。「君もそう思いますか」と教授は答えた。

十九世紀末年の日本の出現は一部西洋から「黄禍(yellow peril)」と目された。日清戦争に勝利するや露独仏は三国干渉を行い、わが国は講和条約で得た遼東半島の還付を余儀なくされた。

鷗外はヴィルヘルム二世が説く「黄禍論」を冷静に説明した。我国の言論人は干渉の反復を警戒し、日清戦争も北清事変も文明と野蛮の戦争なる旨主張した。
諭吉の「脱亜論」はまさにその考えで「隣国の開明を待ちて共に亜細亜を興すの猶予あるべからず」と明治十八年にすでに説いていた。

私は昭和軍部の大陸への過剰介入は大失敗で、昔も今も日中友好は結構と思うが、だからといって、隣国が専制体制を強化し、言論の自由を認めず、軍事力を用いて周辺地域に覇を制することは許せない。

◎:大いなるナショナリスト/// 渡辺利夫拓殖大顧問は『大いなるナショナリスト福澤諭吉』(藤原書店)で『文明論之概略』で福澤は「西洋の文明を目的とする事」と明治日本の進むべき道を明示したが、その結論で「国の独立は文明なり、今の我文明はこの目的を達するの術なり」と反転している。そこが肝心だ、と渡辺氏は指摘した。

この素直な書き方が貴重だ。明快な本書は、岩波新書の類書と違い、右顧左眄(うこさべん)しないからカタカナ言葉が氾濫しない。福澤の原文、渡辺の現代文、解説、と三段構えでやさしく説明する。

令和の読者は声に出して読むが良い。愛国者渡辺の会心の名著といえるだろう。(ひらかわすけひろ)≫以上
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福澤諭吉先生・・・小生は「福翁」と敬慕し、『学問のすゝめ』『福翁自伝』などを愛読した。大学時代は縁があって福翁が設立した慶應義塾(現在の慶應義塾大学日吉キャンパス)のあたりをウロウロしていたが、「渡辺利夫拓殖大顧問」が愛国者として平川先生の論稿に登場したのにはちょっと驚いた。このところ小生は就寝前に渡辺利夫著「アジアを救った近代日本史講義 戦前のグローバリズムと拓殖大学」(PHP新書)を読んでいるのだ。偶然と言うより天命の感じがする。

戦前の拓殖大学を「日本とアジア・太平洋の発展に尽力」と小生は評価するが、敗戦後の日本は生きるのに精一杯で、それでも゛賠償金”を払ったりしていた。さらに1960年あたりから日本政府が発展途上国へバラマキ福祉的?な支援をはじめたが、効果があったのかどうか・・・改めて拓殖大学について来し方と言うか原点をWIKIで調べてみた。以下、よろしければ参考資料としてご利用ください。
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◎:初めに/// 初代校長/桂太郎、第二代学長/小松原英太郎、第三代学長/後藤新平。拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された台湾協会学校を起源とし、1904年に専門学校令準拠の台湾協会専門学校、1907年に東洋協会専門学校、1915年(大正4年)に東洋協会植民専門学校、1918年に拓殖大学と改称。1922年に大学令準拠の東洋協会大学となり、1926年に拓殖大学と改称。戦前期を通じて植民地経営に資する人材を多く輩出した。
終戦の翌年(1946年)に紅陵大学と改称し、連合国軍による占領統治終了後、旧称に戻した。現在は文京・八王子国際の2キャンパスに5学部を擁する総合大学となっている。以下は年表抜粋。
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1898年(明治31年)台湾協会発足(会頭・桂太郎) 1900年:台湾協会学校の設立認可(6月)。和仏法律学校(法政大学の前身)仮校舎で開校(9月) 1901年:小石川区茗荷谷町(現在地)に移転 1903年:第1回卒業式を挙行(45名)
1904年:専門学校令による台湾協会専門学校と改称 1907年:東洋協会専門学校と改称、京城分校(後の京城高等商業学校、現在のソウル大学校経営大学)を設置 1909年:東洋協会専門学校同窓会(現拓殖大学学友会)創立、同窓会会報創刊号発行
1910年:東洋協会旅順語学校、同大連商業学校(現在の大連36中学校)開校 1912年:恩賜金を明治天皇より拝受、留学生寮(高砂寮)完成 1914年:恩賜記念講堂落成式を挙行、東洋協会を社団法人に改組、恩賜記念講堂開館式並びに桂公銅像除幕式を挙行
1915年:東洋協会植民専門学校と改称 1917年:東洋協会台湾支部附属台湾商工学校(現在の台北市開南高級中等学校(中国語版)開校。

1918年:拓殖大学と改称(専門学校令準拠)。京城分校を東洋協会京城専門学校に分離。1919年:校歌を制定(宮原民平作詞、永井建子作曲)
1920年:東洋協会京城専門学校を私立京城高等商業学校と改組・改称
1922年:6月5日、大学令による東洋協会大学設立認可(専門学校令準拠の拓殖大学は1925年まで存続)1923年:図書館竣工 1925年:専門学校令準拠の拓殖大学を東洋協会大学専門部(夜間)に改称・改組。拓殖科・法律科・商科を設置

1926年:東洋協会大学を拓殖大学と改称 1930年:東洋協会大連女子商業学校(現在の大連市中山区中心小学校)開校
1932年:新校舎竣工(現在の文京キャンパスA館)。北多摩郡久留米村に総合運動場を開設。「拓殖大学新京講習所」を設立 1933年:学部を商・拓殖の2科に改編。東洋協会奉天商業学校開校
1934年:専門部(夜間)を昼間授業に改め、拓殖科・法律科・商科の区別を廃す 1937年:漢方医学講座を開講 1939年:専門部を商科・開拓科・武徳科に改組 1940年:学部の商科を商経学科、拓殖科を拓殖学科に改称。大学予科を北多摩郡小平村に移転。東久留米運動場を廃止 出陣学徒壮行会(拓大からは1263人が出陣した)
1941年:拓殖大学報国会発足 1943年:専門部武徳科を司政科に改める。東洋協会安南語講習所を設置

1944年:大学予科の学生募集停止。専門部を専門学校(経営科・開拓科・司政科)に改組
1945年:空襲により恩賜記念講堂などを焼失
1946年:拓殖大学を紅陵大学と改名。拓殖専門学校を紅陵専門学校に改称。商学部拓殖学科を貿易科と改称。大学予科の学生募集再開。1952年: 再び名称を拓殖大学に戻す(以上)
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1945年の敗戦前の日本は「大日本帝国」だった。敗戦後の日本は米国に占領され、極東に封じ込められ、ただの「日本」になった。上記の末尾の1952年には「再び名称を拓殖大学に戻す」とあるが、覆水盆に返らず、戦前の様にはならないだろう。戦前の拓殖大学を知っている人々は残念無念の思いではないか。

ところで話は変わるが「SDGs」とは何か。近年は横文字が氾濫して3000語ほどにもなっているから、日本語大好きの小生にはチンプンカンプン、愛読している産経新聞までが横文字を乱用しているのでウンザリさせられる。
外務省によると「SDGs」は「Sustainable Development Goals」の略で、日本語は「持続可能な開発目標」だとこう説明している。
《2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。SDGsは発展途上国のみならず,先進国自身が取り組むユニバーサル(普遍的)なものであり,日本としても積極的に取り組んでいます》

現在の拓殖大学は進取&期成横溢、SDGsを推進しているようだ。拓殖大学学長の鈴木昭一氏は《「拓殖人材」育成のために、「専門性」「国際性」「人間性」という3つの素養をバランス良く学べる環境を整えて参ります》とこう説いている。

≪拓殖大学は、『教育ルネサンス2020』グランドデザインを発展的に継承する形で中長期計画『教育ルネサンス2030』を策定し、展開して参ります。私たち人類を取り巻く環境は益々その変化の度合いとスピードを増しています。これからは、主体的・自立的に未来を切り拓いていくことのできる能力が個々人に求められることになるでしょう。

本学はこうした認識に立ち、建学の理念における人材育成に通底する素養から「専門性」「国際性」「人間性」を再確認し、こうした素養を具えた人材を「拓殖人材」と称して、育成すべき人材像として掲げています。「拓殖人材」の育成のために、「専門性」「国際性」「人間性」の3つの素養をバランス良く養うには何が必要であるかを検討しました。それぞれの素養には本学が提供する教育すべてが関わりますが、特に関連性の強いものと結び付けて整理しました。

「専門性」の観点では、正課教育(授業)が基本です。各学部に設置する順次性と体系性を備えた授業科目を履修することにより高度な専門性が養われなければなりません。
『教育ルネサンス2030』において特筆すべきはSDGsの導入です。SDGsが掲げる理念は本学の建学の理念と相通ずるものがあり、SDGsの提起する諸課題は人類にとっての最重要課題といえます。各学部の専門科目や主体的学びの中心となるゼミナールでは、積極的にSDGsをテーマとして取り入れた教育が展開されます。

「国際性」の観点では、国際大学のパイオニアとしての存在意義を今後もさらに強化する狙いがあります。真の国際性とは何かという観点から、国境を越えて多様な価値観を受容し、高度なコミュニケーション能力の育成を目指します。

「人間性」の観点では、自らが主体的に行動できると同時に、他者と協働して物事に携わることができる様々な場面を学生達に提供することが大切であると考えました。授業だけでなく課外活動等の場も重要な教育の場と捉えています。

(「専門性」「国際性」「人間性」という)これら3つの素養は独立しているのではなく、それぞれが密接に関連しています。「専門性」を養う学びの領域はもはや「国際性」豊かであるし、部・サークル活動、ボランティア活動、地域貢献といった課外活動も同様です。外国人留学生教育に伝統と実績を誇る本学には多様な価値観・文化を背景にもつ外国人留学生が日常的に学んでいます。授業や課外活動の場において学生間で多くの交流が生まれる環境は、「人間性」の涵養に大きな役割を果たすはずです。

本学はこの『教育ルネサンス2030』を学内外に示し、学内では役員・教職員間で共有し目標達成に向けて一丸となって取り組む環境を整え、さらに本学を取り巻くステークホルダーそして社会に知らしめることで教育研究機関としての社会的使命を果たさんとする確固たる決意を表すものです。本学教職員一同は、『教育ルネサンス2030』の実現に向けて着実に歩んで行きます≫以上
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拓殖大学では現在22カ国・地域の56大学・機関と交流・提携し「学生や教員の派遣や受入など積極的な国際交流活動を行っており、留学のチャンスは世界中に広がっています」と推奨している。それはそれで結構なことだが、戦前戦中のような「国威発揚、アジアの解放&復興のために」といった「公」の精神はあるやなしや。戦前戦中を体感した先輩は今や80~90歳、その孫や曽孫、玄孫が大学生なのだから、オタク以外は第2次世界大戦のことなど知らないのが普通のようだ(小生の息子もその一人で、大学生になってから初めて日米戦争を知ってびっくりしていた)。

戦前のインド太平洋は欧州や米国の列強の植民地になり、先住民の多くは「列強」という異邦人国家に侵略、収奪されていた。日本も王政復古の明治維新で列強の仲間入りを目指したが、幕府時代末期から明治維新初期に列強諸国に押し付けられた「不平等条約」を終わりにして「関税自主権の完全回復」を達成したのは1911/明治44年だった。
列強恐るべし! 本質は餓狼ではないか。「我こそ正義」のキリスト教徒(特にカトリック)は免罪符を持っていると思っているのだろう、何をしでかすか分からないから要注意だ、と小生は警戒している。

狡猾な米国の「真珠湾の罠」にはまって第2次世界大戦に参戦した日本は「大東亜共栄圏」を目指す。WIKI曰く《大東亜戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起したもので、欧米帝国主義国の植民地支配下にあったアジア諸国を解放して、日本を盟主とした共存共栄のアジア経済圏をつくろうという主張であった。東條英機の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった。やがて「東亜新秩序南進論」が強まる中で「日本・満州・中国」に東南アジアやインド、オセアニアまでの大東亜共栄圏構想が生まれた》

残念ながら世界最強の米軍による無差別大量爆撃と2発の核爆弾による大量殺戮により大日本帝国は屈服させられ、米国の51番目のただの州になってしまったが、冷戦を含む戦後秩序は今や賞味期限切れの様相。有志国と協力して「大東亜共栄圏」構想を実現する好機到来である。(以上)
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渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
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亡国前夜の日本をどうする/9

2025-06-05 11:06:38 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/9
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」408/通算839 2025/令和7年6/5 木曜】 スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)のキモ紹介の続き。
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◎:有末機関///// 厚木のレセプション委員会を率いていた有末精三中将は、情報部長のチャールズ・ウィロビー少将やその部下とリエゾン(G2などによる情報分析や共有)のための情報機関を組織した。1945年9月17日にマッカーサーが横浜から東京に向けて出発した時、有末もそれに続いていた。゛日本の新しい最高司令官”は皇居向かいの堂々とした建物の第一生命保険ビルに本部を移した。有末は目立たないように近くの日本倶楽部に活動拠点を移した。中村勝平海軍少将らを合わせて30人近くの情報将校が日本倶楽部を拠点に活動していた。

有末は退役情報将校を中心とした「有末機関」を組織した。G2の影で活動していただけでなく、マッカーサーの命令を実行するために設立された日本の公式な政府機関との密接な関係も保っていた。
表向きには、有末機関は戦犯の特定と拘束、海外からの部隊の復員、その他、大日本帝国陸軍の解体に関わる業務を支援するために、マッカーサーの司令部に情報を提供するだけであったが、実際には米軍と日本の軍事情報機関との関係の中で、日本側のパートナーとして機能していた。

◎:意見の一致///// 有末は情報部長のチャールズ・ウィロビー少将をパートナーとして迎えることができて何よりも幸運だった。ソ連と英米同盟が急速な崩壊を迎えたことで、米陸軍の将校たちは日本とドイツの情報資源を活用しようとした。有末は誰が厚木飛行場に降り立ったとしても、パートナーとして同様の役割を得ていただろう。
中国に対する日本の宣戦布告なき戦争についてウィロビーは「赤旗か旭日旗」の選択のように捉えていた。彼は後者を好み、日本を「共産主義の侵略」に抵抗するアジアにおける資本主義の「勝者」とみなしていた。(第2次世界大戦という)惨禍について彼は、どちらが正しいかと議論することを「おかしい」と指摘し、日本が「算術の誤りを犯しただけのこと」と示唆した。

有末は早くからウィロビーと良好な関係を構築し多くの情報源となった。ウィロビーにとって有末は共感と信頼のおける情報分野の仲間となっていたようだ。ウィロビーはG2のトップとして感じた不満をむき出しにし、米陸軍の作戦部と情報部の関係の難しさを語り、米陸軍と海軍の競争について議論した。ウィロビーの発言を聞いて有末は自身を悩ませていた問題と一致していることに気が付いた。
有末は、米陸軍が把握していた日本のインテリジェンスについての多くの情報源となったとは言え日本に有利なように欺くこともあった。しかし多くの情報を阻止することは不可能だ。日米両軍の影の戦士たちが互いに協力と欺瞞を繰り返す。

一方、占領は数週間の間に順調に進んでいった。ワシントンを後ろ盾にしたマッカーサーは、日本の皇族と政府機関を介して行動することで遊撃戦を回避した。ボナー・フェラーズ大佐はマニラから東京へ向かう途中の沖縄でマッカーサーに言われたことを思い出していた。マッカーサーは「これは非常に単純なことだ。我々は日本政府の手を介して全ての命令を発出する」と言った。そして「米国のために人を家から追い出すと、追い出された人はそれに腹を立てる。しかし誰かが天皇の代理としてその人の所へ行って、この家は占領軍に明け渡さなければならない。これは天皇の意思だと伝えたら・・・」とも言った。これがマッカーサーの天才性で、もし天皇が戦犯として裁かれていたら戦争はまだ続いていただろう。

(君臨すれど統治せずのような)この成果を誇りに思っていたマッカーサーと彼の部下たちには、一部の批判が天皇を退位させ、さらには処刑を求める理由が理解できなかった。ウィロビーは1945年11月21日の記者会見で、「天皇や日本政府関係者を介して統治する」というマッカーサーの政策への批判に対して、「撃たずに入るか、撃ちに入るかのどちらかだ。一人の犠牲も出さずに占領するか、何十万もの死傷者を出すかのどちらかだ」と説明している。

ウィロビーがマッカーサーの「軟化」路線を擁護している頃、有末は中野学校の有志による北白川王(北白川宮道久王)を匿うための協力を求められた。この皇統保護計画はまだ立案段階だったが、一部の中野学校の要員の中には、その作戦はもはや不要であると感じていた者もいた。占領があまりにも平和的に感じられたのだ。この計画は年末には廃案になった。
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話はまだまだ続くが、とりあえず転載は終わり。第2次世界大戦で米国は日本を諸悪の根源としてアジア太平洋から駆逐したわけだが、結果的に日本の敗戦はスターリンのロシアと子分の北朝鮮、中共による朝鮮半島侵略を招くことになってしまった。1945年の第2次世界大戦終結から80年経った今現在でも露中北はアジア太平洋、欧州で暴れまくっている。まさに米国とマッカーサーの「世紀の大チョンボ」だ。日本による「21世紀版大東亜戦争2.0」の出番ではないのか。(以上)
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亡国前夜の日本をどうする/8

2025-05-31 16:07:19 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/8
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」406/通算837 2025/令和7年5/31 土曜】 スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)のキモ紹介の続き。敗戦の日本 VS 勝者米国の静かなる場外戦であるが、ソ連の脅威が日米をパートナーにしていくことになる。
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◎:インテリジェンス・パートナーシップ///// 1945年9月2日の降伏文書調印式のため戦艦ミズーリに乗艦していたのは(中野学校出身の)有末精三中将の部下2人だった。一人は杉田一次大佐で、3年前に「マレーの虎」山下奉文(ともゆき)大将がパーシバル中将を降伏に追い込んだ際に通訳を務めた情報将校であった。もう一人は永井八津次(やつじ)少将で、戦時中は第二部謀略課を率い、プロパガンダ放送を指揮した。

降伏文書調印式から2日後の9月4日、有末は旧知の情報将校であるフレデリック・マンソンから「米陸軍が日本軍の暗号解読やその他の通信情報(COMINT)の能力に関心があり、専門家のヒュー・アースキン中佐と会うように」と命じられた。翌朝、アースキンを訪ねると、「陸軍参謀総長の下でCOMINT作戦を展開していた中央特殊情報部(CSID)について話して欲しい」と言う。有末はその組織を知らないふりをした。すると通訳を介していたアースキンは流暢な日本語で「何について尋ねているのか、あなたはよく知っているはずだ」と問い直した。有末は、アースキンが日本で生まれ育った人物であることを知った。

有末はやや緊張を解き、アースキンの尋問の目的を知りたいと要求した。「戦犯探しのためか、戦史や参考資料にするためか、それとも将来のソ連と中国共産党との戦いに備えるためなのか」と。
アースキンは「帝国陸軍のCOMINT担当将校を戦犯として特定するための情報収集ではない」と断言した。他の二つの可能性については直接言及しなかったが、このような情報が価値を持つときが来るかもしれないとほのめかした。

ほっとした有末は帝国陸軍の中央特殊情報部についてブリーフィングした。アースキンは、日本がフィリピンを征服した際にマニラで押収した米軍の「表計算機」の問題を取り上げた。米陸軍は初期のコンピュータである表計算機を暗号解読に使用していた。アースキンはソビエトの手に渡らないように、この行方不明の計算機の在り処を知りたがっていた。有末は、この計算機は終戦時に川に捨てられたと答えた。会談は友好的な雰囲気で終了し、有末は次の会議で日本のCOMINTについて、さらに詳細を話すこととなった。

会議を終えた有末は上機嫌だった。帝国陸軍中央特殊情報部の要員はCOMINT活動の証拠を隠滅し、占領当局から「戦犯」の烙印を押されるのを恐れて身を隠していた。有末はマッカーサーの情報参謀らが日本の情報を使用してソビエトに対抗しようとしていること、そのために中央特殊情報部長の西村敏雄少将と面談することも知っていた。それに先立ち有末は西村と会い、どう対応するかを話し合った。米ソ間の溝が拡大すれば日本が利益を得られる立場にあることを理解し、「依頼されればソビエトに対するCOMINTについて米国に協力する」ことで一致した。

米国からの依頼はすぐに来た。9月17日に有末がマッカーサーを追って横浜から東京に向かった数日後、情報部長のチャールズ・ウィロビー少将は「米陸軍の補助として活動する日本のCOMINT秘密組織」設立に関する起案を用意するように依頼してきた。有末は部下の永井八津次少将に依頼し、数10人のCOMINTを担当した退役軍人を集め、内容を練り上げ、3か月後のクリスマス近くにウィロビーらに゛プレゼント”した。100万円近い予算を要求する仰々しい提案に対し、ウィロビーは提案書を有末に戻して修正させた。
有末は米軍とのCOMINT(現在のSIGINT、諜報活動のSIGnal INTelligenceの略)パートナーシップ実現に向けた戦後初の日本の歩みを進めることができなかった。しかしその後、日本と米軍はすぐに相互理解に達したことがわかる。

米国の国家安全保障局の活動履歴を振り返ると、日本は第二次世界大戦以降、米軍のCOMINTの「優先標的」から「主要な活動拠点」へと変化した。日本本土でソ連に最も近い北海道では、1945年9月に日本のCOMINT拠点である千歳に最初の米軍部隊が到着した。1949年までに、NSA(アメリカ国家安全保障局、National Security Agency)の前身である陸軍秘密保全庁は、ソビエトの信号を監視するために第12軍秘密保全庁(ASA)野戦局を千歳に開局した。詳細は不明だが、ウィロビーと有末がある程度の理解を得たことは明らかなようだ。(以下次号)
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亡国前夜の日本をどうする/7

2025-05-29 16:01:06 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/7
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」405/通算836 2025/令和7年5/29 木曜】 温故知新、故きを温ねて新しきを知る! スティーブン. C.マルカード著、秋塲涼太訳「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(初版2022/8/4、芙蓉書房出版、2970円/税込)の続き。前回はここまで紹介した。↓
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(米国の占領政策を懐柔するための)日本の(キリスト教徒を前面に出した)一連の宗教作戦は、公けの場では必ずと言っていいほど神の言葉を引用した米国聖公会信徒のマッカーサーにも確実に効果があった。ジャーナリストのジョン・ガンサーは、かつてマッカーサーがローマ教皇のサイン入り肖像画を受け取ったときの喜びをこう表現している。「マッカーサーは、自身と教皇を今日のキリスト教を代表する二人の人物とまで考えているほどだ。教皇はいわゆる精神面で戦い、マッカーサーは地上で共産主義(邪教?)と戦っている」。以下はその続き。
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占領軍の精神的な側面を大切にしながらも、日本の政府関係者らは肉体的にも気を配った。1945/昭和20年8月18日、東久邇宮政権は「特殊慰安施設協会(RAA)」を設立した。これは入国してくる米兵のための公式の売春宿制度であった。数百万円という巨額の資金を投じて「慰安所」のチェーン店を設立し、GI(兵士)の「性の防波堤」の役割を果たした。

RAAは「真っ当な」日本人女性を不名誉から救い、その一方で戦場で疲弊した兵士を守った。この組織は隠されたものではなかった。1945年10月1日付のニッポンタイムズ(現ジャパンタイムズ)にRAAの広告が掲載された。そこには「占領軍部隊向けの大規模アミューズメント施設が完成。RAA施設へ前進!」と書かれていた。マッカーサーは基地生活の現実を理解していたベテラン司令官だった。そして、こうした環境下で生活する兵が引き起こした性に関わる事件を見て見ぬふりをしてきた。ウィロビーの情報将校の一人であったフォービアン・バワーズは数年後のインタビューで日本の慰安政策について冗談交じりで高く評価していた、「この政策が日本を゛侵略”から救った」と。

8月28日と30日に行われた厚木のレセプションを過大評価して浮かれていた有末は、すぐに楽観的な考えを持ち始めた。8月31日、マッカーサーが最初の司令部を置いた横浜のグランドホテルからから電話がかかってきた。有末はフレデリック・マンソン大佐の声が聞こえたことを喜んだ。マンソンは日本の軍事情勢に精通し、日本語も堪能であった。マンソンが初めて日本に降り立ったのは1932年、語学生としてだった。1935~36年の冬、彼は半年間、姫路の第10師団野砲兵第10連隊付として配属され、帝国陸軍を視察した。その後、マンソンは華北での日本軍の活動の視察に赴いた。

有末はマンソンを戦前から知っており、日本語が堪能なマンソンとの再会は「砂漠でオアシスを見つけた」または「地獄で仏に出会う」ようだった。有末はマンソンを日本人の心理や日本軍の感情を100%理解してくれる」人物と認識していた。マンソンを日本の良き理解者として迎えたことで、有末の不安は大きく軽減された。実際、占領下の日本で一年間、マンソンは有末のために占領軍の一部の非協力的なメンバーに対し調整を行い、有末と協力して今日も続く二国間の情報関係の基礎を築いた。(次号に続く)
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亡国前夜の日本をどうする/6

2025-05-27 12:36:10 | 戦争
亡国前夜の日本をどうする/6
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」404/通算835 2025/令和7年5/27 火曜】 5/23は父母の墓参りと墓の後ろの植木の剪定、墓の右隣には幼いころから小生を可愛がってくれた親戚のオジサン&オバサンの墓、さらにちょっと離れたところには父の実家である「本家」(我が街を造った豪族)の墓もあるから、結構ハードな墓参りになった。最低でも1か月に一度は墓参りし掃除しないと大変な作業になってしまう。

5/24は4階展望台のペンキ塗りに精を出し良い気分になった。その勢いで3階の庭のぼさぼさになっていた植木の剪定と掃除をヒーヒー言いながらも完了したのだが・・・25日の朝から激しい腰痛で苦しんでいる。無理をし過ぎたのだ。がっちりサポーターで腰を保護しているが、痛くても苦しくても小生とスズメの餌を買いにスーパーBig-Aに行ってきた。マンガの「ど根性ガエル」だったか「人間、根性だあ!」というセリフを思い出した・・・と、いうワケで今日は小生の鬱屈晴らし、雑談にお付き合いを!
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近年では物質文明は凄い勢いで拡大している。清貧大好きヂヂイの小生から見れば「買っては捨て、捨てては買う」という物質文明は「奇跡の星地球」の敵、悪党の犯罪のように見える。WIKIにはこうあった。

≪物質文明とは、俗説的な文明の分類である。精神文明の対義語として"批判的"に用いられる。人間集団としての文明において、富や科学技術、巨大建築や兵器の水準のみ高く、個々の成員および共同体全体が精神的に堕落している状態を批判的に指す。特に近代欧米型の文明を批判する時に用いられる言葉である≫

もっとパンチ力のある解説はないものか・・・と探したらありました、およそ100年前、1917年11月の「国士舘設立趣旨」にはこうある。
「物質文明の弊、日に甚(はなは)だしく、人は唯(た)だ科学智を重んじて、徳性涵養を忘る。今日に於て教育とは唯だ化学智の売買たるのみ、此の如きは唯だ物質文明に終る。精神文明なくして国家豈(あに、どうして)一日の安きを得んや。蓋(けだ)し精神文明は物質文明を統一指導するものなり。精巧の武器、万種羅列するも、兵士起つて之運用するに非(あらざる)は、戦場に何の効果なからん。吾人は精神文明と精神敎育とを此際に唱道して国家の柱石たる真知識を養成せん事を期す」

難解だが、要は「一流の技術を目指すだけではなく、その技術を富国強兵にこそ生かさなければ二流三流国家でしかない」ということだろう。戦争、侵略が日常茶飯事の「食うか食われるか」の時代だったのだ。

1917年(大正6年)と言えば、日本では「大正デモクラシー」に火が付いた。当時の世界は弱肉強食の時代で国家が強くなるのは結構だが、「最前線で戦っている我々庶民の暮らしも良くしてほしい」という素朴な願いがあったのだろう。
≪大正デモクラシーは、日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出。何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。

政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立、マルクス主義、アジア主義など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された≫

ロシア革命の影響もあったようだ。≪ロシア革命は、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家(ソビエト社会主義共和国連邦)樹立につながったことに重点を置く場合には「十月革命」のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する≫

日本では゛主義者”はソ連を称賛していたらしいが、多くの日本人は天敵として嫌悪していたようだ。「生きるのに精一杯で、それどころではない」という人々も結構多かったのではないか。
『女工哀史』は1925/大正14年、改造社より刊行された、細井和喜蔵著のルポルタージュ。紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録している。小生も読んだが、庶民は生きること、生活すること自体が大変な時代だったのだ。そう、NHKの人気番組「おしん」のように。

食うだけで精一杯、女中や小僧でも奉公に出て食にありつけるだけ幸せだという「おしん」の時代は、大東亜戦争敗戦から復興し始めた1950年あたりで終わったようである。1956年度(昭和31年度)経済白書は「もはや戦後ではない」と復興をアピールした。「戦中と戦後の飢餓を克服したぞ!」という言葉だろう。1960年の「60年安保騒動」で共産主義独裁国家を目指すアカ≒ピンクの連中が大騒ぎをしたものの、徐々にではあれ衣食住が満たされてきた日本国民の支持は減るばかりになった。1964年の東京五輪で日本人は完全に「戦後復興した」と思う。我が街では商店主による重量挙げが盛んになり、高度成長もあって皆が楽しそうだった。

それからわずか6年後、1970年の「70年安保騒動」・・・大学2年の小生は「現代史研究会」を立ち上げていたが、中身は空っぽで、デモの際は「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の緑色のヘルメットをかぶっていた。今から思うとベ平連は共産主義国の北ベトナム(ベトナム民主共和国、1945年の革命によって成立した東南アジア最初のアカ≒ピンク国家)の応援団だったのだ。「バカがヘルメットかぶってやってくる」・・・自業自得ながら無知は恐ろしい。

そう言えばデモや集会の帰路、新宿駅構内で国士舘の学生3人ほどに囲まれたことを思い出した。緑色のヘルメットが災いを招いたのだ。前出の「国士舘設立趣旨」は100年前で格調高いものの難し過ぎたが、現代文の「国士舘 建学の精神と理念」はとても分かりやすい。以下転載する。

≪日本は明治維新後、西洋文明を積極的に受容し、社会の近代化を急速に推進してきました。このため社会は大いに伸張を遂げましたが、あまりに急激な近代化であったため、伝統文化を破壊し、軽視する傾向さえ生じました。日露戦争後には、国内問題が悪化し国民意識が変化するなかで、さまざまな社会問題が発生し、深刻な社会不安を惹起するようになりました。

このような当時の社会状況を憂い、柴田德次郎、阿部秀助、花田大助、喜多悌一、上塚司らの青年有志たちは、「言論」と「教育」をもって国家の繁栄と国民生活の安穏に資することを目指し、日本の「革新」をはかろうと、「社会改良」と「青年指導」を目的として「青年大民団」を組織し、1917(大正6)年、「活学を講ず」の宣言とともに、私塾「國士館」を創立するに至りました。
創立者たちの狙いは、「国士舘設立趣旨」で謳(うた)われているように、吉田松陰の精神を範とし、日々の「実践」のなかから心身の鍛練と人格の陶冶をはかり、国家社会に貢献する智力と胆力を備えた人材「国士」を養成することにありました。

以来、「国士」養成を理念として、学ぶ者みずからが不断の「読書・体験・反省」の三綱領を実践しつつ、「誠意・勤労・見識・気魄」の四徳目を涵養(かんよう)することを教育理念に掲げ、さまざまな分野で活躍する人材を世に輩出してきました。
今日、国士舘は、このような建学の志を大切に継承しながら、新たに発展を遂げた研究教育の諸領域でも、知識と実践の水準を高めつつ、世界の平和と進歩を目指し、現代社会に積極的に貢献する真摯(しんし)な努力を続けています≫以上
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松陰先生! 小生は1972年の秋に保釈されたが、獄中で「レーニンやトロツキー率いるソ連によるウクライナ侵略」を学び、「共産主義は悪である、絶滅すべし」という反共主義者になった。以来半世紀、いつの間にか「国士舘」になっていたような・・・マキアヴェッリ曰く、
≪人は古代の彫像のかけらを巨額な金を出して購入し、身近に置き、他者に見せびらかし、果ては模造品を作らせたりすることには熱心だが、歴史が我々に知らせてくれる古人の気高い行為についてとなると、同じような敬意を払ってきたであろうか。人々は歴史上の人物が祖国のために尽くした行為に対してはほめたたえて感心はするが、真似しようとはしないのが一般的である。私は、この種の傾向は、それらを真似した場合の利益を考えると残念でならない。
この傾向は、キリスト教の悪影響によると思う。なぜなら、古代人は、それが良くても悪くても「野望」というものに相応の敬意を払ったが、キリスト教では野望をいだくこと自体が悪だったからである≫(政略論)
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産経2025/5/18「新ローマ教皇が就任ミサ バンス米副大統領ら各国要人に『平和築こう』 麻生元首相も参列」から。
≪世界約14億人のカトリック信者の頂点に立つ第267代の新ローマ教皇レオ14世(69)の就任ミサが18日、バチカンのサンピエトロ広場で執り行われた。新教皇の誕生を祝うため、大勢の信者が集結。教皇は参列した各国の要人を前に「平和な世界を築こう」と呼びかけ、カトリック教会が和解の象徴となるように力を尽くすと誓った。
教皇は広場に面したサンピエトロ大聖堂の地下にある初代教皇ペトロの墓で祈りをささげた後、高位聖職者の枢機卿らと共にミサ会場に到着。教皇の権威の象徴である「漁師の指輪」と、十字架の刺しゅうがある白い羊毛のパリウム(肩衣)も初めて身に着け、レオ14世体制が本格始動した。
教皇庁によると、ミサには約150の国・国際機関から代表団が参列。教皇の出身地・米国のバンス副大統領やウクライナのゼレンスキー大統領、イスラエルのヘルツォグ大統領らが出席。日本政府は麻生太郎元首相を派遣した。(共同)≫
ローマ教皇庁(バチカン)の新しいローマ教皇レオ14世の゛野望"は如何に? 露中北を抑え込めるかどうか・・・(以上)
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渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
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