「大東亜共栄圏」の好機到来
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」409/通算840 2025/令和7年6/10 火曜】 産経2025/6/3 東京大学名誉教授・平川祐弘氏の「<正論>大愛国者、福澤諭吉を読もう」から。
≪欧州留学中、日本人としてひどく恥ずかしい思いをした。戦前のメーデーにも参加したという労組代表に通訳として同行した時、その老闘士がロンドンの市中で立ち小便をした。それはことごとに紅茶を出すイギリスの習慣の生理的結果だったが、通りすがりの一英人がすたすたと私に近づくや「あの人はあなたのお父さんか」と言った。「Oh,no!」と答えたが、その時は神経が参った。
その鬱憤がまだ消えやらぬ直後、パリの学寮へ戻って『福翁自伝』を開くと、竹内下野守ら使節団一行のヨーロツパ巡回の次の一節が目にふれた。
――パリのオテル・デュ・ルーヴル(福澤諭吉いうところのホテルデロウブル)で、殿様が用を足すその間、家来は二重の戸を開け放して、殿様の御腰の物を持って、便所の外の廊下に平き直っている。廊下は「男女往来織るが如くにして、便所の内外瓦斯(ガス)の光明昼よりも明(あきらか)なり」。そこヘ通訳の福澤も通りかかった。「驚いたとも驚くまいとも、先づ表に立塞がって物も言はずに戸を打締(ぶちし)めて、それからそろそろその家来殿に話したことがある」――
これを読んで神経のたかぶりが弛(ゆる)んで、ほっとしたことをおぼえている。この「ぶちしめて」という書き様、その滑稽に私まで救われる思いがした。
◎:日本人必読の一冊/// 私は実はその時はじめて『福翁自伝』を読んだ。そして一体なぜ今まで読む機会が無かったか、と私の教養欠如を腹立たしく思った。
平川家には昭和初年に改造社から出た現代日本文学全集五十冊が揃っていた。それを納戸(なんど)からとり出して小学四年の夏休みに漱石の『猫』『坊っちゃん』など面白くてたまらない。総ルビだから読める。江藤淳は「自分が漱石を読み出したのは中学だ。君はませているな」と言った。
ところがそんな読書好きの私が、この日本人必読の自伝を読まずに過ごしてきた。なぜ読む機会が無かったか。戦前と戦後の西洋の日本研究の大御所チェンバレンもライシャワーも「日本について一冊書物を選べ」と言えば『福翁自伝』と述べている。
私の目に福澤が触れなかった理由は考えるとこうである。
第一は、早稲田閥の影響下に編集された(円本と言われた)現代日本文学全集は、早大文学部の創設者坪内逍遥には一冊丸ごと五百三頁(ページ)を当てたが、慶應の創設者福澤諭吉には『明治開化期文學集』の中の三頁しか当てなかったからだ。
第二は、国文学者の文学観が狭く、文学は小説と限定し、自伝を排除した。
◎:日本は黄禍に非ず/// 第三は、これが最悪だが、敗戦後のわが国には幕末維新以来の「日本の西洋化」という歴史の選択を立国の公道とみなさず、福澤の「脱亜論」が日本のアジア侵略をもたらしたという説が左翼にもリベラルにも強かった。
そんな福澤の悪口が言われた昭和四十年代、私は近代日本の指針を「和魂洋才の系譜」に求め、その路線の推進を唱えた森鷗外を中心に博士論文を書いた。
福澤の「脱亜論」は「和魂」や「士魂」を棄ててはいない。私は「脱亜論の何が悪いのですかね」とある日、国際関係論の衛藤瀋吉教授に声をひそめて尋ねた。「君もそう思いますか」と教授は答えた。
十九世紀末年の日本の出現は一部西洋から「黄禍(yellow peril)」と目された。日清戦争に勝利するや露独仏は三国干渉を行い、わが国は講和条約で得た遼東半島の還付を余儀なくされた。
鷗外はヴィルヘルム二世が説く「黄禍論」を冷静に説明した。我国の言論人は干渉の反復を警戒し、日清戦争も北清事変も文明と野蛮の戦争なる旨主張した。
諭吉の「脱亜論」はまさにその考えで「隣国の開明を待ちて共に亜細亜を興すの猶予あるべからず」と明治十八年にすでに説いていた。
私は昭和軍部の大陸への過剰介入は大失敗で、昔も今も日中友好は結構と思うが、だからといって、隣国が専制体制を強化し、言論の自由を認めず、軍事力を用いて周辺地域に覇を制することは許せない。
◎:大いなるナショナリスト/// 渡辺利夫拓殖大顧問は『大いなるナショナリスト福澤諭吉』(藤原書店)で『文明論之概略』で福澤は「西洋の文明を目的とする事」と明治日本の進むべき道を明示したが、その結論で「国の独立は文明なり、今の我文明はこの目的を達するの術なり」と反転している。そこが肝心だ、と渡辺氏は指摘した。
この素直な書き方が貴重だ。明快な本書は、岩波新書の類書と違い、右顧左眄(うこさべん)しないからカタカナ言葉が氾濫しない。福澤の原文、渡辺の現代文、解説、と三段構えでやさしく説明する。
令和の読者は声に出して読むが良い。愛国者渡辺の会心の名著といえるだろう。(ひらかわすけひろ)≫以上
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福澤諭吉先生・・・小生は「福翁」と敬慕し、『学問のすゝめ』『福翁自伝』などを愛読した。大学時代は縁があって福翁が設立した慶應義塾(現在の慶應義塾大学日吉キャンパス)のあたりをウロウロしていたが、「渡辺利夫拓殖大顧問」が愛国者として平川先生の論稿に登場したのにはちょっと驚いた。このところ小生は就寝前に渡辺利夫著「アジアを救った近代日本史講義 戦前のグローバリズムと拓殖大学」(PHP新書)を読んでいるのだ。偶然と言うより天命の感じがする。
戦前の拓殖大学を「日本とアジア・太平洋の発展に尽力」と小生は評価するが、敗戦後の日本は生きるのに精一杯で、それでも゛賠償金”を払ったりしていた。さらに1960年あたりから日本政府が発展途上国へバラマキ福祉的?な支援をはじめたが、効果があったのかどうか・・・改めて拓殖大学について来し方と言うか原点をWIKIで調べてみた。以下、よろしければ参考資料としてご利用ください。
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◎:初めに/// 初代校長/桂太郎、第二代学長/小松原英太郎、第三代学長/後藤新平。拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された台湾協会学校を起源とし、1904年に専門学校令準拠の台湾協会専門学校、1907年に東洋協会専門学校、1915年(大正4年)に東洋協会植民専門学校、1918年に拓殖大学と改称。1922年に大学令準拠の東洋協会大学となり、1926年に拓殖大学と改称。戦前期を通じて植民地経営に資する人材を多く輩出した。
終戦の翌年(1946年)に紅陵大学と改称し、連合国軍による占領統治終了後、旧称に戻した。現在は文京・八王子国際の2キャンパスに5学部を擁する総合大学となっている。以下は年表抜粋。
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1898年(明治31年)台湾協会発足(会頭・桂太郎) 1900年:台湾協会学校の設立認可(6月)。和仏法律学校(法政大学の前身)仮校舎で開校(9月) 1901年:小石川区茗荷谷町(現在地)に移転 1903年:第1回卒業式を挙行(45名)
1904年:専門学校令による台湾協会専門学校と改称 1907年:東洋協会専門学校と改称、京城分校(後の京城高等商業学校、現在のソウル大学校経営大学)を設置 1909年:東洋協会専門学校同窓会(現拓殖大学学友会)創立、同窓会会報創刊号発行
1910年:東洋協会旅順語学校、同大連商業学校(現在の大連36中学校)開校 1912年:恩賜金を明治天皇より拝受、留学生寮(高砂寮)完成 1914年:恩賜記念講堂落成式を挙行、東洋協会を社団法人に改組、恩賜記念講堂開館式並びに桂公銅像除幕式を挙行
1915年:東洋協会植民専門学校と改称 1917年:東洋協会台湾支部附属台湾商工学校(現在の台北市開南高級中等学校(中国語版)開校。
1918年:拓殖大学と改称(専門学校令準拠)。京城分校を東洋協会京城専門学校に分離。1919年:校歌を制定(宮原民平作詞、永井建子作曲)
1920年:東洋協会京城専門学校を私立京城高等商業学校と改組・改称
1922年:6月5日、大学令による東洋協会大学設立認可(専門学校令準拠の拓殖大学は1925年まで存続)1923年:図書館竣工 1925年:専門学校令準拠の拓殖大学を東洋協会大学専門部(夜間)に改称・改組。拓殖科・法律科・商科を設置
1926年:東洋協会大学を拓殖大学と改称 1930年:東洋協会大連女子商業学校(現在の大連市中山区中心小学校)開校
1932年:新校舎竣工(現在の文京キャンパスA館)。北多摩郡久留米村に総合運動場を開設。「拓殖大学新京講習所」を設立 1933年:学部を商・拓殖の2科に改編。東洋協会奉天商業学校開校
1934年:専門部(夜間)を昼間授業に改め、拓殖科・法律科・商科の区別を廃す 1937年:漢方医学講座を開講 1939年:専門部を商科・開拓科・武徳科に改組 1940年:学部の商科を商経学科、拓殖科を拓殖学科に改称。大学予科を北多摩郡小平村に移転。東久留米運動場を廃止 出陣学徒壮行会(拓大からは1263人が出陣した)
1941年:拓殖大学報国会発足 1943年:専門部武徳科を司政科に改める。東洋協会安南語講習所を設置
1944年:大学予科の学生募集停止。専門部を専門学校(経営科・開拓科・司政科)に改組
1945年:空襲により恩賜記念講堂などを焼失
1946年:拓殖大学を紅陵大学と改名。拓殖専門学校を紅陵専門学校に改称。商学部拓殖学科を貿易科と改称。大学予科の学生募集再開。1952年: 再び名称を拓殖大学に戻す(以上)
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1945年の敗戦前の日本は「大日本帝国」だった。敗戦後の日本は米国に占領され、極東に封じ込められ、ただの「日本」になった。上記の末尾の1952年には「再び名称を拓殖大学に戻す」とあるが、覆水盆に返らず、戦前の様にはならないだろう。戦前の拓殖大学を知っている人々は残念無念の思いではないか。
ところで話は変わるが「SDGs」とは何か。近年は横文字が氾濫して3000語ほどにもなっているから、日本語大好きの小生にはチンプンカンプン、愛読している産経新聞までが横文字を乱用しているのでウンザリさせられる。
外務省によると「SDGs」は「Sustainable Development Goals」の略で、日本語は「持続可能な開発目標」だとこう説明している。
《2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。SDGsは発展途上国のみならず,先進国自身が取り組むユニバーサル(普遍的)なものであり,日本としても積極的に取り組んでいます》
現在の拓殖大学は進取&期成横溢、SDGsを推進しているようだ。拓殖大学学長の鈴木昭一氏は《「拓殖人材」育成のために、「専門性」「国際性」「人間性」という3つの素養をバランス良く学べる環境を整えて参ります》とこう説いている。
≪拓殖大学は、『教育ルネサンス2020』グランドデザインを発展的に継承する形で中長期計画『教育ルネサンス2030』を策定し、展開して参ります。私たち人類を取り巻く環境は益々その変化の度合いとスピードを増しています。これからは、主体的・自立的に未来を切り拓いていくことのできる能力が個々人に求められることになるでしょう。
本学はこうした認識に立ち、建学の理念における人材育成に通底する素養から「専門性」「国際性」「人間性」を再確認し、こうした素養を具えた人材を「拓殖人材」と称して、育成すべき人材像として掲げています。「拓殖人材」の育成のために、「専門性」「国際性」「人間性」の3つの素養をバランス良く養うには何が必要であるかを検討しました。それぞれの素養には本学が提供する教育すべてが関わりますが、特に関連性の強いものと結び付けて整理しました。
「専門性」の観点では、正課教育(授業)が基本です。各学部に設置する順次性と体系性を備えた授業科目を履修することにより高度な専門性が養われなければなりません。
『教育ルネサンス2030』において特筆すべきはSDGsの導入です。SDGsが掲げる理念は本学の建学の理念と相通ずるものがあり、SDGsの提起する諸課題は人類にとっての最重要課題といえます。各学部の専門科目や主体的学びの中心となるゼミナールでは、積極的にSDGsをテーマとして取り入れた教育が展開されます。
「国際性」の観点では、国際大学のパイオニアとしての存在意義を今後もさらに強化する狙いがあります。真の国際性とは何かという観点から、国境を越えて多様な価値観を受容し、高度なコミュニケーション能力の育成を目指します。
「人間性」の観点では、自らが主体的に行動できると同時に、他者と協働して物事に携わることができる様々な場面を学生達に提供することが大切であると考えました。授業だけでなく課外活動等の場も重要な教育の場と捉えています。
(「専門性」「国際性」「人間性」という)これら3つの素養は独立しているのではなく、それぞれが密接に関連しています。「専門性」を養う学びの領域はもはや「国際性」豊かであるし、部・サークル活動、ボランティア活動、地域貢献といった課外活動も同様です。外国人留学生教育に伝統と実績を誇る本学には多様な価値観・文化を背景にもつ外国人留学生が日常的に学んでいます。授業や課外活動の場において学生間で多くの交流が生まれる環境は、「人間性」の涵養に大きな役割を果たすはずです。
本学はこの『教育ルネサンス2030』を学内外に示し、学内では役員・教職員間で共有し目標達成に向けて一丸となって取り組む環境を整え、さらに本学を取り巻くステークホルダーそして社会に知らしめることで教育研究機関としての社会的使命を果たさんとする確固たる決意を表すものです。本学教職員一同は、『教育ルネサンス2030』の実現に向けて着実に歩んで行きます≫以上
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拓殖大学では現在22カ国・地域の56大学・機関と交流・提携し「学生や教員の派遣や受入など積極的な国際交流活動を行っており、留学のチャンスは世界中に広がっています」と推奨している。それはそれで結構なことだが、戦前戦中のような「国威発揚、アジアの解放&復興のために」といった「公」の精神はあるやなしや。戦前戦中を体感した先輩は今や80~90歳、その孫や曽孫、玄孫が大学生なのだから、オタク以外は第2次世界大戦のことなど知らないのが普通のようだ(小生の息子もその一人で、大学生になってから初めて日米戦争を知ってびっくりしていた)。
戦前のインド太平洋は欧州や米国の列強の植民地になり、先住民の多くは「列強」という異邦人国家に侵略、収奪されていた。日本も王政復古の明治維新で列強の仲間入りを目指したが、幕府時代末期から明治維新初期に列強諸国に押し付けられた「不平等条約」を終わりにして「関税自主権の完全回復」を達成したのは1911/明治44年だった。
列強恐るべし! 本質は餓狼ではないか。「我こそ正義」のキリスト教徒(特にカトリック)は免罪符を持っていると思っているのだろう、何をしでかすか分からないから要注意だ、と小生は警戒している。
狡猾な米国の「真珠湾の罠」にはまって第2次世界大戦に参戦した日本は「大東亜共栄圏」を目指す。WIKI曰く《大東亜戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起したもので、欧米帝国主義国の植民地支配下にあったアジア諸国を解放して、日本を盟主とした共存共栄のアジア経済圏をつくろうという主張であった。東條英機の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった。やがて「東亜新秩序南進論」が強まる中で「日本・満州・中国」に東南アジアやインド、オセアニアまでの大東亜共栄圏構想が生まれた》
残念ながら世界最強の米軍による無差別大量爆撃と2発の核爆弾による大量殺戮により大日本帝国は屈服させられ、米国の51番目のただの州になってしまったが、冷戦を含む戦後秩序は今や賞味期限切れの様相。有志国と協力して「大東亜共栄圏」構想を実現する好機到来である。(以上)
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読者諸兄の皆さま、御意見を! https://note.com/gifted_hawk281/ または ishiifam@minos.ocn.ne.jp までお願いいたします。小生の記事は以下でもお読みいただけます。
渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
必殺クロスカウンター ttps://www.mag2.com/m/0001690154.html
https:*//blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
ishiifam//1951@outlook.jp
“シーチン”修一
【雀庵の「大戦序章」409/通算840 2025/令和7年6/10 火曜】 産経2025/6/3 東京大学名誉教授・平川祐弘氏の「<正論>大愛国者、福澤諭吉を読もう」から。
≪欧州留学中、日本人としてひどく恥ずかしい思いをした。戦前のメーデーにも参加したという労組代表に通訳として同行した時、その老闘士がロンドンの市中で立ち小便をした。それはことごとに紅茶を出すイギリスの習慣の生理的結果だったが、通りすがりの一英人がすたすたと私に近づくや「あの人はあなたのお父さんか」と言った。「Oh,no!」と答えたが、その時は神経が参った。
その鬱憤がまだ消えやらぬ直後、パリの学寮へ戻って『福翁自伝』を開くと、竹内下野守ら使節団一行のヨーロツパ巡回の次の一節が目にふれた。
――パリのオテル・デュ・ルーヴル(福澤諭吉いうところのホテルデロウブル)で、殿様が用を足すその間、家来は二重の戸を開け放して、殿様の御腰の物を持って、便所の外の廊下に平き直っている。廊下は「男女往来織るが如くにして、便所の内外瓦斯(ガス)の光明昼よりも明(あきらか)なり」。そこヘ通訳の福澤も通りかかった。「驚いたとも驚くまいとも、先づ表に立塞がって物も言はずに戸を打締(ぶちし)めて、それからそろそろその家来殿に話したことがある」――
これを読んで神経のたかぶりが弛(ゆる)んで、ほっとしたことをおぼえている。この「ぶちしめて」という書き様、その滑稽に私まで救われる思いがした。
◎:日本人必読の一冊/// 私は実はその時はじめて『福翁自伝』を読んだ。そして一体なぜ今まで読む機会が無かったか、と私の教養欠如を腹立たしく思った。
平川家には昭和初年に改造社から出た現代日本文学全集五十冊が揃っていた。それを納戸(なんど)からとり出して小学四年の夏休みに漱石の『猫』『坊っちゃん』など面白くてたまらない。総ルビだから読める。江藤淳は「自分が漱石を読み出したのは中学だ。君はませているな」と言った。
ところがそんな読書好きの私が、この日本人必読の自伝を読まずに過ごしてきた。なぜ読む機会が無かったか。戦前と戦後の西洋の日本研究の大御所チェンバレンもライシャワーも「日本について一冊書物を選べ」と言えば『福翁自伝』と述べている。
私の目に福澤が触れなかった理由は考えるとこうである。
第一は、早稲田閥の影響下に編集された(円本と言われた)現代日本文学全集は、早大文学部の創設者坪内逍遥には一冊丸ごと五百三頁(ページ)を当てたが、慶應の創設者福澤諭吉には『明治開化期文學集』の中の三頁しか当てなかったからだ。
第二は、国文学者の文学観が狭く、文学は小説と限定し、自伝を排除した。
◎:日本は黄禍に非ず/// 第三は、これが最悪だが、敗戦後のわが国には幕末維新以来の「日本の西洋化」という歴史の選択を立国の公道とみなさず、福澤の「脱亜論」が日本のアジア侵略をもたらしたという説が左翼にもリベラルにも強かった。
そんな福澤の悪口が言われた昭和四十年代、私は近代日本の指針を「和魂洋才の系譜」に求め、その路線の推進を唱えた森鷗外を中心に博士論文を書いた。
福澤の「脱亜論」は「和魂」や「士魂」を棄ててはいない。私は「脱亜論の何が悪いのですかね」とある日、国際関係論の衛藤瀋吉教授に声をひそめて尋ねた。「君もそう思いますか」と教授は答えた。
十九世紀末年の日本の出現は一部西洋から「黄禍(yellow peril)」と目された。日清戦争に勝利するや露独仏は三国干渉を行い、わが国は講和条約で得た遼東半島の還付を余儀なくされた。
鷗外はヴィルヘルム二世が説く「黄禍論」を冷静に説明した。我国の言論人は干渉の反復を警戒し、日清戦争も北清事変も文明と野蛮の戦争なる旨主張した。
諭吉の「脱亜論」はまさにその考えで「隣国の開明を待ちて共に亜細亜を興すの猶予あるべからず」と明治十八年にすでに説いていた。
私は昭和軍部の大陸への過剰介入は大失敗で、昔も今も日中友好は結構と思うが、だからといって、隣国が専制体制を強化し、言論の自由を認めず、軍事力を用いて周辺地域に覇を制することは許せない。
◎:大いなるナショナリスト/// 渡辺利夫拓殖大顧問は『大いなるナショナリスト福澤諭吉』(藤原書店)で『文明論之概略』で福澤は「西洋の文明を目的とする事」と明治日本の進むべき道を明示したが、その結論で「国の独立は文明なり、今の我文明はこの目的を達するの術なり」と反転している。そこが肝心だ、と渡辺氏は指摘した。
この素直な書き方が貴重だ。明快な本書は、岩波新書の類書と違い、右顧左眄(うこさべん)しないからカタカナ言葉が氾濫しない。福澤の原文、渡辺の現代文、解説、と三段構えでやさしく説明する。
令和の読者は声に出して読むが良い。愛国者渡辺の会心の名著といえるだろう。(ひらかわすけひろ)≫以上
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福澤諭吉先生・・・小生は「福翁」と敬慕し、『学問のすゝめ』『福翁自伝』などを愛読した。大学時代は縁があって福翁が設立した慶應義塾(現在の慶應義塾大学日吉キャンパス)のあたりをウロウロしていたが、「渡辺利夫拓殖大顧問」が愛国者として平川先生の論稿に登場したのにはちょっと驚いた。このところ小生は就寝前に渡辺利夫著「アジアを救った近代日本史講義 戦前のグローバリズムと拓殖大学」(PHP新書)を読んでいるのだ。偶然と言うより天命の感じがする。
戦前の拓殖大学を「日本とアジア・太平洋の発展に尽力」と小生は評価するが、敗戦後の日本は生きるのに精一杯で、それでも゛賠償金”を払ったりしていた。さらに1960年あたりから日本政府が発展途上国へバラマキ福祉的?な支援をはじめたが、効果があったのかどうか・・・改めて拓殖大学について来し方と言うか原点をWIKIで調べてみた。以下、よろしければ参考資料としてご利用ください。
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◎:初めに/// 初代校長/桂太郎、第二代学長/小松原英太郎、第三代学長/後藤新平。拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された台湾協会学校を起源とし、1904年に専門学校令準拠の台湾協会専門学校、1907年に東洋協会専門学校、1915年(大正4年)に東洋協会植民専門学校、1918年に拓殖大学と改称。1922年に大学令準拠の東洋協会大学となり、1926年に拓殖大学と改称。戦前期を通じて植民地経営に資する人材を多く輩出した。
終戦の翌年(1946年)に紅陵大学と改称し、連合国軍による占領統治終了後、旧称に戻した。現在は文京・八王子国際の2キャンパスに5学部を擁する総合大学となっている。以下は年表抜粋。
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1898年(明治31年)台湾協会発足(会頭・桂太郎) 1900年:台湾協会学校の設立認可(6月)。和仏法律学校(法政大学の前身)仮校舎で開校(9月) 1901年:小石川区茗荷谷町(現在地)に移転 1903年:第1回卒業式を挙行(45名)
1904年:専門学校令による台湾協会専門学校と改称 1907年:東洋協会専門学校と改称、京城分校(後の京城高等商業学校、現在のソウル大学校経営大学)を設置 1909年:東洋協会専門学校同窓会(現拓殖大学学友会)創立、同窓会会報創刊号発行
1910年:東洋協会旅順語学校、同大連商業学校(現在の大連36中学校)開校 1912年:恩賜金を明治天皇より拝受、留学生寮(高砂寮)完成 1914年:恩賜記念講堂落成式を挙行、東洋協会を社団法人に改組、恩賜記念講堂開館式並びに桂公銅像除幕式を挙行
1915年:東洋協会植民専門学校と改称 1917年:東洋協会台湾支部附属台湾商工学校(現在の台北市開南高級中等学校(中国語版)開校。
1918年:拓殖大学と改称(専門学校令準拠)。京城分校を東洋協会京城専門学校に分離。1919年:校歌を制定(宮原民平作詞、永井建子作曲)
1920年:東洋協会京城専門学校を私立京城高等商業学校と改組・改称
1922年:6月5日、大学令による東洋協会大学設立認可(専門学校令準拠の拓殖大学は1925年まで存続)1923年:図書館竣工 1925年:専門学校令準拠の拓殖大学を東洋協会大学専門部(夜間)に改称・改組。拓殖科・法律科・商科を設置
1926年:東洋協会大学を拓殖大学と改称 1930年:東洋協会大連女子商業学校(現在の大連市中山区中心小学校)開校
1932年:新校舎竣工(現在の文京キャンパスA館)。北多摩郡久留米村に総合運動場を開設。「拓殖大学新京講習所」を設立 1933年:学部を商・拓殖の2科に改編。東洋協会奉天商業学校開校
1934年:専門部(夜間)を昼間授業に改め、拓殖科・法律科・商科の区別を廃す 1937年:漢方医学講座を開講 1939年:専門部を商科・開拓科・武徳科に改組 1940年:学部の商科を商経学科、拓殖科を拓殖学科に改称。大学予科を北多摩郡小平村に移転。東久留米運動場を廃止 出陣学徒壮行会(拓大からは1263人が出陣した)
1941年:拓殖大学報国会発足 1943年:専門部武徳科を司政科に改める。東洋協会安南語講習所を設置
1944年:大学予科の学生募集停止。専門部を専門学校(経営科・開拓科・司政科)に改組
1945年:空襲により恩賜記念講堂などを焼失
1946年:拓殖大学を紅陵大学と改名。拓殖専門学校を紅陵専門学校に改称。商学部拓殖学科を貿易科と改称。大学予科の学生募集再開。1952年: 再び名称を拓殖大学に戻す(以上)
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1945年の敗戦前の日本は「大日本帝国」だった。敗戦後の日本は米国に占領され、極東に封じ込められ、ただの「日本」になった。上記の末尾の1952年には「再び名称を拓殖大学に戻す」とあるが、覆水盆に返らず、戦前の様にはならないだろう。戦前の拓殖大学を知っている人々は残念無念の思いではないか。
ところで話は変わるが「SDGs」とは何か。近年は横文字が氾濫して3000語ほどにもなっているから、日本語大好きの小生にはチンプンカンプン、愛読している産経新聞までが横文字を乱用しているのでウンザリさせられる。
外務省によると「SDGs」は「Sustainable Development Goals」の略で、日本語は「持続可能な開発目標」だとこう説明している。
《2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。SDGsは発展途上国のみならず,先進国自身が取り組むユニバーサル(普遍的)なものであり,日本としても積極的に取り組んでいます》
現在の拓殖大学は進取&期成横溢、SDGsを推進しているようだ。拓殖大学学長の鈴木昭一氏は《「拓殖人材」育成のために、「専門性」「国際性」「人間性」という3つの素養をバランス良く学べる環境を整えて参ります》とこう説いている。
≪拓殖大学は、『教育ルネサンス2020』グランドデザインを発展的に継承する形で中長期計画『教育ルネサンス2030』を策定し、展開して参ります。私たち人類を取り巻く環境は益々その変化の度合いとスピードを増しています。これからは、主体的・自立的に未来を切り拓いていくことのできる能力が個々人に求められることになるでしょう。
本学はこうした認識に立ち、建学の理念における人材育成に通底する素養から「専門性」「国際性」「人間性」を再確認し、こうした素養を具えた人材を「拓殖人材」と称して、育成すべき人材像として掲げています。「拓殖人材」の育成のために、「専門性」「国際性」「人間性」の3つの素養をバランス良く養うには何が必要であるかを検討しました。それぞれの素養には本学が提供する教育すべてが関わりますが、特に関連性の強いものと結び付けて整理しました。
「専門性」の観点では、正課教育(授業)が基本です。各学部に設置する順次性と体系性を備えた授業科目を履修することにより高度な専門性が養われなければなりません。
『教育ルネサンス2030』において特筆すべきはSDGsの導入です。SDGsが掲げる理念は本学の建学の理念と相通ずるものがあり、SDGsの提起する諸課題は人類にとっての最重要課題といえます。各学部の専門科目や主体的学びの中心となるゼミナールでは、積極的にSDGsをテーマとして取り入れた教育が展開されます。
「国際性」の観点では、国際大学のパイオニアとしての存在意義を今後もさらに強化する狙いがあります。真の国際性とは何かという観点から、国境を越えて多様な価値観を受容し、高度なコミュニケーション能力の育成を目指します。
「人間性」の観点では、自らが主体的に行動できると同時に、他者と協働して物事に携わることができる様々な場面を学生達に提供することが大切であると考えました。授業だけでなく課外活動等の場も重要な教育の場と捉えています。
(「専門性」「国際性」「人間性」という)これら3つの素養は独立しているのではなく、それぞれが密接に関連しています。「専門性」を養う学びの領域はもはや「国際性」豊かであるし、部・サークル活動、ボランティア活動、地域貢献といった課外活動も同様です。外国人留学生教育に伝統と実績を誇る本学には多様な価値観・文化を背景にもつ外国人留学生が日常的に学んでいます。授業や課外活動の場において学生間で多くの交流が生まれる環境は、「人間性」の涵養に大きな役割を果たすはずです。
本学はこの『教育ルネサンス2030』を学内外に示し、学内では役員・教職員間で共有し目標達成に向けて一丸となって取り組む環境を整え、さらに本学を取り巻くステークホルダーそして社会に知らしめることで教育研究機関としての社会的使命を果たさんとする確固たる決意を表すものです。本学教職員一同は、『教育ルネサンス2030』の実現に向けて着実に歩んで行きます≫以上
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拓殖大学では現在22カ国・地域の56大学・機関と交流・提携し「学生や教員の派遣や受入など積極的な国際交流活動を行っており、留学のチャンスは世界中に広がっています」と推奨している。それはそれで結構なことだが、戦前戦中のような「国威発揚、アジアの解放&復興のために」といった「公」の精神はあるやなしや。戦前戦中を体感した先輩は今や80~90歳、その孫や曽孫、玄孫が大学生なのだから、オタク以外は第2次世界大戦のことなど知らないのが普通のようだ(小生の息子もその一人で、大学生になってから初めて日米戦争を知ってびっくりしていた)。
戦前のインド太平洋は欧州や米国の列強の植民地になり、先住民の多くは「列強」という異邦人国家に侵略、収奪されていた。日本も王政復古の明治維新で列強の仲間入りを目指したが、幕府時代末期から明治維新初期に列強諸国に押し付けられた「不平等条約」を終わりにして「関税自主権の完全回復」を達成したのは1911/明治44年だった。
列強恐るべし! 本質は餓狼ではないか。「我こそ正義」のキリスト教徒(特にカトリック)は免罪符を持っていると思っているのだろう、何をしでかすか分からないから要注意だ、と小生は警戒している。
狡猾な米国の「真珠湾の罠」にはまって第2次世界大戦に参戦した日本は「大東亜共栄圏」を目指す。WIKI曰く《大東亜戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起したもので、欧米帝国主義国の植民地支配下にあったアジア諸国を解放して、日本を盟主とした共存共栄のアジア経済圏をつくろうという主張であった。東條英機の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった。やがて「東亜新秩序南進論」が強まる中で「日本・満州・中国」に東南アジアやインド、オセアニアまでの大東亜共栄圏構想が生まれた》
残念ながら世界最強の米軍による無差別大量爆撃と2発の核爆弾による大量殺戮により大日本帝国は屈服させられ、米国の51番目のただの州になってしまったが、冷戦を含む戦後秩序は今や賞味期限切れの様相。有志国と協力して「大東亜共栄圏」構想を実現する好機到来である。(以上)
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渡部亮次郎 「頂門の一針」<ryochan@polka.plala.or.jp>(ここ2か月ほど音沙汰がなく心配しています)
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