Belle Epoque

美しい空間と、美しい時間

あなたが、必要。 『彼女たちの時間』

2005-05-16 | cinema... eiga
久しぶりに観たくなって、DVDを引っ張り出しました。

この作品には、個人的に特別な思い出があります。
この作品が招待された、数年前の横浜フランス映画祭。
その日、来日して会場にいるというエマニュエル・ベアール見たさに、30分しか横浜にはいられないながら、わたしは無理をおしてパシフィコ横浜に駆けつけました。
ふとその時を振り返ると、それでも、必須!の持ち物として、かなり大きい双眼鏡(!)を持っていったのだから、ファン心理恐るべし、です。
そして、客席の後方から、それでじろじろ会場を見渡して、ひと目だけでも、憧れのあの人を見たい。と願っていたところ・・・

いた!

すらりとした長身のシルエットが、客席の前方、何列目かに、優雅に腰掛けるのが見えたのです。
ひと目どころか、あんなに近くに。

残された時間は少ない・・・。
考える間も惜しく、たたっと階段を駆け下りて彼女のそばまで近づいた私は、席について隣の男優と挨拶を交わしていた彼女の話が途切れるのを待って、話しかけました・・・

頭に血が上っていたようで、何と話しかけたか、覚えていませんが、一緒に写真を撮らせてほしい、と熱心に、彼女の青い瞳を信じられないくらい間近に見ながらお願いして (この日のために学んだフランス語よー!と頭の中で叫びながら) 、隣に座っていた男優 (誰かを覚えてもいませんが、場の雰囲気からして、多分けっこう知られた方だったのでしょう・・・気が向かなくてちょっと惜しい) の手にカメラを押し付け、立ち上がらせ、彼の代わりにその席につき、憧れのエマニュエル・ベアール様とのツーショット写真を叶えたのでした。
なんて強引な。(赤面)
あっけに取られて、私の言うなりになっていた俳優さんには、ほんとうに申し訳ないことをしました・・・
エマニュエル・ベアールさんご本人にも。
でも、笑顔で寄り添って下さって、どうもありがとう。
その写真は、宝物です。

そして、その席では、上映作品、『彼女たちの時間(当時は、仮題『リハーサル』でした)』を観ることもなく慌しく会場を後にしたのですが、
(結果として、文字通り写真を撮りに行っただけ)
その数ヵ月後、フランス旅行の際、友達と入った映画館で、やっと、この作品を観た時の衝撃は、かなり大きいものでした。
映画館を出て、友達と二人、すぐにはふつうに歩けず、道の石段に座って、一息つかねばならなかった程です。
なんと・・・

女性同士の熱烈な愛の物語だったとは!!

奇しくも、その初の上映先・横浜で (本国フランスに先駆けて初公開でした)、映画の中の女性さながらに、ベアールさんに熱く言い寄って(?)しまったなんて・・・。
それを考えただけでも、フランスの地でよろよろと道端に座ってしまったくらいの衝撃が私を襲ったのでした。 
あの時ベアールさんは、あんな私をどう思ったことやら・・・!


愛について、感情について、激しくむき出しに描かれた作品です。
幼なじみの美しい親友、ナタリー(ベアール)を、激しい嫉妬や憧憬で見つめるルイーズ(パスカル・ブシェール)。
男友達とじゃれあうのさえ許せず、自身が恋人と二人きりで過ごしていても、彼女のことが頭から離れない。
一時は自分のその感情をもてあまし、自殺を図りかけ、絶交を言い渡し、その後は平凡な結婚をして、何年も音沙汰がない間柄だったものの、夫と出かけた演劇で主役を演じるナタリーに再会したことで、ルイーズの運命は、再び大きなうねりの中に放り出されます。

気まぐれなナタリーに翻弄され、憎みながらも、彼女のそばにいたいという想いを抑えることが出来ない。
この感情は、一体、何?
ルイーズには、ナタリーが愛しいのか、憎いのか、あまりにも感情のさなかにいて、溺れていて、冷静に自分の気持ちを見つめ直すことさえ出来ない。

異性への愛と違って、同性への熱い気持ちを自覚するとき、そこには自分と同一化して相手を見るという、近すぎる距離が生まれます。
自分の投影を、相手に対して行うのです。
だから、他人への気持ちといえど、自己愛に似たものがそこには多分に存在する。
ベアールさんに、私のような女性のファンが多いのも、彼女の表現する深い人間性には、自己を投影する余地がたっぷりあるからではないでしょうか。
そして、憧れても手に入らない、その美貌への賞賛も合い混じって。

憎しみは愛のひとつの形だと思うのですが、この映画を観て、さらに思うのは、
愛のかたちの別の顔とは、「ただひたすら、相手を“必要とする”こと」だなあ、
ということです。
”その存在が、とにかく必要”。
それが、人間の人間に対するやむにやまれぬ欲望であり、特別な感情です。
激しすぎる想いは、破滅を招いてしまうこと必至で、この映画も、最後に、友情という仮面は割れ、二人の永遠の別れと、それぞれの孤独を呼び寄せるけれど。

愛って「こういうこと」、と、明確な答えなど私には語れないけれど、
人生にその人を必要とする、だから生きていく、そんな想いの中に身を浸した人は、自覚するまでもなく、愛を生きている、または愛そのもの。
嵐の中にいる人は、吹きすさぶ風や飛ぶ塵埃などを目にしても、嵐の全体図を見ることが出来ません。それと同じように、愛の姿そのものを自覚は出来ないものの。

私自身は、身近な女性にそこまで強い感情を抱いたことはありませんが、その相手をどうしても手に入れたい、と願う気持ちは、良く解る。
欲望こそ、生きる気力の原点です。
そんな、人間の底知れない見えない力を感じる作品だなあ、と、久しぶりに鑑賞して、またまた思いました。


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