Belle Epoque

美しい空間と、美しい時間

心を贈られた時

2012-06-25 | vie... kurashi
むかし、森瑤子短編で『蒸発』といったタイトルだったか、せつない話を読んだことがありました。


若くしてがんで入院し、患部の切除手術を受け、退院してきた女性。まだ子供はいない。どこを切除されたか忘れたけれど、女性的などこかだったと思う。
心がぽっかり虚しくなり、帰宅すると、無趣味で無口だった夫がコーヒーをおいしく淹れることにはまっていて、毎日コーヒーについて熱く語ったり淹れてくれたりする。
「私の気も知らずに、この人は呑気にコーヒーなんかにはまって」
と苛立たしく思う妻は、ある時、そんな夫の趣味に冷水を浴びせるような発言をする。
すると、表情をなくした夫は、その日以来いなくなった。

後日、妻は立ち寄った喫茶店で、
「最近あの人来ないけれど、どうしているのだろうね」、
と夫について話す、常連客と店の女主人の会話を耳にする。
そこで、いなくなった夫がかつて自分の入院中、
「病後の妻を元気づけるために、おいしいコーヒーを淹れてあげたい」
と、その喫茶店に通って、コーヒーに研究熱心になったことを知る。

衝撃を受け、自分の発言を悔やんでも、夫はもう帰ってこない。
ますます心は虚ろになった。


・・・という救われない話でしたが、なぜかことあるごとに思い出します。
言葉はナイフ、という実例が、現実にもあんまりにも溢れているからだと思う。
もう取り返しがつかない発言、というものが哀しいけれど存在する。自分も今までの人生にやってしまってるはず。
最近では、婚約指輪にケチをつけた長谷川理恵さんが話題になっているけれど、そういう棘の毒も、たぶん抜けない。
親しい相手に、軽い気持ちで発した言葉におそらく、そういう事例が多くある。
無防備なかわいらしい善意が、突然乱暴に握りつぶされる瞬間というものが。


けど好みっていうのも人それぞれなので、難しいですよね。

小さいお兄ちゃんが妹を喜ばせようと、ヒキガエルを捕まえて持ってきたら、妹は泣きじゃくっていやがり、お兄ちゃんは茫然と立ちつくしてしまった・・・
という話も、同時によく思い出すのです。

だけどそれは小児の話なので、大人になったらさすがに、どんなヒキガエルであっても、心のこもった贈り物だったら、第一声は「ありがとう!」(以上!)である方が良い気がする。
受け取るのは心なのだもの。
というか、心を感じられる贈り物からは、いつだって、込められた温かみを絶対に感じるものだもの。

感謝する気持ちは、毎日意識して育て上げないと、なくなっていく。





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