ツレヅレグサ

雑記と愚痴と、時々小説

やれる事とやっていい事。

2007-10-27 10:49:11 | 批評
 法では取り締まっていないから、ルールには記載されていないからやってもいい事なのか。そこまでして、何を得たいのか。

 この三年間ロボコンを間近で見つめてきて、そう思う事が何度もあった。ルールの網を潜り抜けるようなマシンで勝ち上がろうとするチームを幾つも見てきた。それを見る度に胸を締め付けられる思いがした。どんな手段を使っても勝つ。狙うは優勝のみ。……そんな事のために、彼らは全力で取り組んでいたというのか。ロボコンの趣旨である「知恵と技術の祭典」とは、所詮そんなものなのか、彼らにとっては。

 確かにロボコンは競技大会であって、それ故トーナメントが存在する。しかし、元々は順位ではなくアイデアの質と高い技術力を求めていたはずだった。いかなる制約においても、いかなる状況においても対応できる柔軟さ、あるいは観客を魅了するような奇抜なアイデア。
 そういうものを求めていたはずなのに、ここ数年高専生が考え出した物は、勝つ為だけの、それしか能がないようなマシンだった。昨年の豊田高専のホバークラフト、あるいは詫間電波高専の超高速マシン。ああいう技術者倫理を無視したものを、堂々と出展できる精神は異常以外の何物でもない。

 そして、主催者のNHKもそういう傾向を見て見ぬ振りしている事にも、大きな問題がある。今年のロボコンは制約があってないようなものだったが、まだ健全な技術者精神を持っていた高専はまじめに考え、まじめにロボを作ってきた。一方、勝利する事に全てを賭けているような高専は、ルール違反にならなければ何を使ってもいいと考え、実際にそういうマシンを大会に出している。旗がついていればマシンだと言い張り、回路駆動系ほぼ全てを搭載した「自称アーム」を考え出したり、それに加えてのぼりを旗の前方に置くという卑怯極まりない行動を取ったり。おそらく、今年もNHKはこういったマシンを取り上げ、こう言うはずだ。

「実にすばらしい、画期的なアイデアです」

こんな事で、主催者が務まると思っているのだろうか。私は、そんな言葉で誤魔化し、勝つ為なら倫理に反してもいいという態度がとても気に食わない。本来ならこう言うべきだ。

「こんな行為が許されてはいけない、正々堂々と勝負するべきだ」と。

 実のところ、制約がなければどんな技術、どんな戦法も実現可能だ。しかし、それは「やれる事」、つまり可能なだけであって「やってもいい事」ではない。規模は相当違うだろうが、原爆を「作れる」から作った技術者と、ルール違反にならず「作れる」から酷いロボを作った高専生は同じようなものだ。
 本来のロボコンは「やってもいい事」という制限の中で、いかに独自のアイデアを詰め込むかを競うものだ。決して「やれる事」を駆使して勝利する事が目的ではない。たとえそういうアイデアで勝ったとしても、その瞬間大切なものが失われているはずだ。技術者としての誇りを捨てるか、ただの優勝トロフィーを捨てるかは今後の参加者次第だと思う。だからこそ、私はこれまでやってきたように誇りを持ってマシンを作りたい。勝つ為のマシンではなく、魅せる為のマシンを目指したい。誰が何と思おうと、それだけは曲げたくないと思う。

 ロボコンをただの競技大会としか見ない人間に、ロボコン大賞を取る事などできない。何故なら、そういう人間の作ったマシンはただの道具でしかないからだ。勝利するという事にこだわる位なら、負けても皆に賞賛されるような物を作れ。それでこそ、未来への道が開ける。

早くプログラムできればいいのか?

2007-05-10 15:27:57 | 批評
 まずはこのサイトを見てほしい。
どうしてプログラマに・・・プログラムが書けないのか?
これによると、某プログラマ曰く、プログラミングの仕事を希望する者の99%以上がどのようなコードも書けないらしい。業界の人々は、希望者は簡単なプログラムさえも作れない、と嘆いているわけだ。それはわかるが、その後いろいろと説明が続く中でこういう一節がある。

「(前略)それで、そういった類の開発者を見分けるための質問を作り始め、私が「Fizz-Buzz問題」と呼んでいる問題のクラスを考え出した。これはイギリスの学校の子供たちがよくやっている遊び(というかやらされている遊び)にちなんで名付けた。Fizz-Buzz問題の例はこんな感じだ。
『1から100までの数をプリントするプログラムを書け。ただし3の倍数のときは数の代わりに「Fizz」と、5の倍数のときは「Buzz」とプリントし、3と5両方の倍数の場合には「FizzBuzz」とプリントすること。』
ちゃんとしたプログラマであれば、これを実行するプログラムを2分とかからずに紙に書き出せるはずだ。怖い事実を聞きたい? コンピュータサイエンス学科卒業生の過半数にはそれができないのだ。自称上級プログラマが答えを書くのに10-15分もかかっているのを見たこともある。」

 ここで問題なのは、プログラミングの技量を問題を解くまでの時間だけで見ている事だ。これでは、自分達のレベルと新人のレベルを比較して、お前らあまりにも役立たずだ、と言っているようでもある。確かに、簡単な問題を解くのに長時間費やすのは問題だと思うが、たったの2分でできる人間は問題を暗記しているか、あるいは経験を積んだ人間くらいだと思う。そんな連中と、大半が座学の学生を比べてどうするのだろうか。ちなみに、自分の場合は解くまでにおそらく30分近くかかると思う。
 基本事項を含め、プログラムが全くできない人間を雇うのは論外にしても、解けるけど時間がかかるという人間をプロ基準で裁くのはちょっと抵抗がある。プログラミングで生計を立てている人間と違い、自分は素人なので何とも言えないのだが、「俺達は2分足らずで解けるんだ。専門的に勉強してきたお前らも当然できるだろ?」というのは強引な気がする。それがその道での常識ならば仕方ないのかもしれないが。

 ちなみに、プログラムを作る早さを計測してやっている学校なんてあるのだろうか。もしあるのなら、どういう感じなのか詳細を訊いてみたい気もする。それともうひとつ。時間に追われるお雇いプログラマよりは、じっくり考えるフリーのプログラマの方が、クオリティの高いプログラムを作ると思う。だから市販ソフトよりもフリーソフトの方が利便性が高・・・ゲホゲホ。スピードだけならそういうのに長けたインド人を雇えばいいじゃないか、という気がするのは自分だけだろうか。その分、プログラムを作る早さが遅い人間は新たなもの、独自性のあるものを追求するとか、そういった路線にも向けられるのではないだろうか。


集団心理による犯罪の正当化

2007-04-12 16:38:20 | 批評
 最初に言っておくが、犯罪という表現は過激かもしれない。だが、集団心理による行動は、時として犯罪さえも許してしまう危険性がある。その為、このような表現を用いた次第だ。

 まず、何故人が集団を作り、その中で生活していく事を必要としているかについてだが、それは言うまでもなく、個人の能力だけで全ての危機を切り抜けられなかったからだ。それは他の動物を狩り自らの食料とするにしても、獰猛な肉食獣から逃れるにしても同じ事で、それらをたった一人でこなすには限界があったからだ。もし少数の集団ならば、獲物を包囲しつつ攻撃を仕掛ける事が出来るし、誰かが囮になり、敵の注意を向けさせている間に敵を殺す事も可能になる。生命の進化の中で、生物は危機の経験から集団化するようになっていった。狩られる側は大きな群れとなって移動するようになり、狩る側は効率よく獲物を仕留める為群れを組むようになった。もちろん、生物の中には一匹で生活するものもいるが、それはごく少数であり、ここでは考慮しない事にする。
 さて、集団となったのはいいが、最初の内はただ集団になっているだけだったと思われる。つまり、誰も指揮を執らないので連携した行動が出来なかった。この問題を解決する為に生まれたのが、誰かが集団のトップとなり指揮権を独占する事だった。そして、命令を聞かない者は排除するという掟も、集団化するにつれ自然と発生した。これによって、集団としての進化が発揮出来るようになったと言えるだろう。また、集団の中に上下関係というものが生まれたのもこの頃だったと思われる。ただし、この頃の上下関係はただ単に個体の強さであり、一度でも敗北を喫すれば上下関係が入れ替わった。
 集団化が進むにつれ、縄張り意識というものも大きくなっていった。元々、個体毎に縄張りを意識していたとは思うが、集団となった事でそれが強調され、集団の外の存在に恐怖感を募らせ始めた。それがやがて、集団間の争いへと発展していった。敗北した集団は勝利者の集団に吸収され、その権力化に置かれる。それが続くうち、ある一定の地域を統一するような集団へと成長していく集団が発生するようになった。上下関係に個体の身体能力以外が関係するようになったのもこの頃からだろう。まず最初に『神』という存在、あるいはそれとの意思疎通が図れるとされる者が集団の頂点に君臨するようになった。そして、次第に地位の固定化と世襲が行われるようになっていった。そして、指揮官の言葉は『神』の言葉であり、従わない者には天罰が下る、という考え方も加わった。
 そのうち、集団の頂点に立つ者の必須条件が次々と追加されていき、神格性や私有財産、そして先祖の地位までもが必要となっっていった。それによって、頂点に立つ者は決して崩れることのない基盤を手に入れた。だが、それも維持できなければ意味がない。やがてその体制が崩れると、頂点に立っていた者達は投獄され、処刑された。そして、武力と民衆の支持を持った者が頂点に立つ時代が来た。彼らは、縄張りを外敵から守る事よりも近隣を征服する事を求め、やがて世界全体で戦争を、しかも二度にわたって引き起こした。そして、新たな条件も生まれていた。それが、情報を操作して民衆を操れる能力だった。

 情報操作といえば、某情報番組で捏造・情報操作が行われていたという話題で盛り上がったり、あらゆる業界での偽装・隠蔽事件が取り上げられているが、これもまた集団を操る方法だ。集団に属する人間が全て最高水準の知識・知能を持っていれば騙されはしないだろうが、現実にはそういう事はありえない。それらしく言うだけで、簡単に騙せるというのがほとんどだ。しかも、情報操作する側・あるいは操作対象に権威があれば、民衆は更に騙され易くなる。東大が偉いという認識、あるいはこれこれこういう章を取った学者が言ってるんだから間違いない、という考え方。これも騙されていると言えよう。この程度のレベルなら、(問題になるにしても)大した騒ぎにはならない。だがそれが悪用される事もある。
 たとえば、第二次世界大戦のナチスドイツ(第三帝国)では、ヒトラーによるユダヤ人迫害が正当なものだと信じられていた。すなわち、民衆はユダヤ人こそが悪の根源であり、優れた民族である自分達が退治しなければならないのだ、という思想に疑いを持たなかったのだ。今だからこそ異常だと言えるのであって、その当時はそれが正しいと情報操作されていたので、誰も悪いと思っていなかっただろう。
 日本でも情報操作は行われていた。真珠湾奇襲で戦争を開始した日本は、1942年のミッドウェイ海戦以降旗色が非常に悪かったのだが、国民に対しては『連日連勝!帝国の兵士は奮戦している!』という嘘の情報を流していた。これもまた、今の世だからこそおかしいと言えるのであって、当時それを指摘したらその時点で牢獄行き・拷問責めだった。もし、政府が本当の事を報道していたら、日本は民衆の暴動によって即刻降伏していた事だろう。あるいは、現代の戦争のように国内外から激しく非難を受けただろう。
 こうして考えてみると、集団心理が犯罪さえも正当化してしまう事に同意すると思う。あの人は・・・だから殺してもいいだろ、と言って殺人を起こしても咎められない世界、その可能性はゼロではないのだ。そして、集団の中では絶対に従うべき掟が『・・・という条件に当てはまる人間を皆殺しにする』などであれば、ナチスのユダヤ人迫害同様に迫害・暴行・虐殺が平気で行われる可能性もある。そして、それが咎められる事がない事こそ、まさに恐怖なのだ。

 今後も、集団の中で生きる事が必要な社会は続くだろう。それは仕方のない事だ。問題は、一人一人の行動が集団内の心理に依存し続ける事だ。この集団にいる限りは、皆と同じようにこれをやらなければならない、という考えに囚われ続ければ、歴史上の悲劇は必ず繰り返される。いや、今後もっと酷い事が起こりうるかもしれない。というのも、今の世界は全てが繋がっているのだ。珪素を主成分とする半導体素子の集合体を通じ、世界各国で情報のやり取りをする現代において、情報の操作がどれほど深刻な結果を生むかは大体想像がつくだろう。しかも、この繋がった空間上では、匿名の状態で、どんな人間であっても情報が操作できる。それを悪用すれば、気に入らない人間を指定して適当に罪を擦り付け、こいつを殺せと世界各国に送るだけで幾らかの人間が食いついてくる。世界の何処にいても、見ず知らずの人間に狙われる可能性があるのだ。そんな馬鹿なと思うだろうが、人気があり信用のおけるサイトにそういった記事があれば、それを見た人間のうち何人かは信じるのだ。そう考えると、これは単なる冗談では決して済まされないとわかるだろう。

 最後に、集団心理をそのまま飲み込んだ瞬間終わりだと言っておこう。これはどんな環境下においても同じ事だ。全てを純粋に信じ、忠実に遂行した瞬間殺戮が始まる。今は単に、昼のある情報番組の後で、スーパーマーケットの商品が陳列棚から消えるだけだが。

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ネット社会=仮面舞踏会

2007-02-11 20:20:39 | 批評
最近ネットというものに関して思考を巡らしている時間が長いです、akkiyですこんにちは。
とりあえず今のところ考えているネットでの人間関係に関する論理でも書いてみることにする。ネット社会というのは、なんとなく仮面舞踏会と同じような状況だと思える。現実世界の自分ではない人格を架空の世界に作り出し、他の人間と接するのはどうも仮面を被って(本性を隠して)パーティーに参加するのと似た感じではないか、そう思うようになってきた。両者とも本来の自分を隠した状態で他人と接する点で同じだし、相手の本性も見た目だけではわからないというのも同じだ。つまり、ネット社会というのは『仮面を被った社会』と言ってもおかしくはない。
では、どうやって他人の本質を見抜き、自分と馬の合う人間を探すのかといえば、一般的には相手の言論、考え、趣向などを客観的に見て判断する方法しかない。という事は、ネット社会では外面ではなく内面を見て判断する事が必然として求められる。現実世界のように肉親などの親戚関係も一切存在しないので、ネット社会の中での関係というのは『他人同士の関係』だ。この関係に、相手の外見や表向きの言動といったものはない。つまり内面がむき出しなのだ。そのむき出しの内面を客観的に見て、評価する事でその人間の姿がわかる。
これはある意味で素晴らしい利点だ。現実世界ではどうしても外見や表向きの態度に注目してしまいがちで、落ち着いて内側を探るなんていう事はなかなかできない。そのため、どうしても外面だけでの主観的な判断になる事がある。一方ネット社会では外見がないので内面を冷静に判断しないと他人というものが全くわからない。そのため客観的な判断が必要とされるが、その分落ち着いて相手の本質を確認できる。
ただし、ネット上の他人は現実世界の一個人と同人格とは限らない。ネット社会にいる自分と、現実世界にいる自分に多少なりとも隔たりができるのは当然だし、やろうと思えばわざと自分ではない存在になりきる事もできる。だから、ネットと現実の同一人物を同じ人格だと決めることはかなり危険だ。例えば、現実世界では明らかに内向的で陰気な感じのあるAと、ネット上での快活な印象で積極的に活動しているAは同人物かと訊かれたら、同じと定義するのには無理があると感じるはずだ。実際に、ネット上と現実では全く異なった人格を有する人間はいくらでもいる。

考えていくと、どうやら現実世界とネット社会は同じであり別の世界でもある、という理論がなんとなく浮かんでくる。ネット社会はもう一つの世界、つまりアナザーワールド。そこに存在する自分という存在も、現実とは違う人格である。となると、現実での関係をネット上にそのまま持ち込むのは危険ではないだろうか。違う人格同士の世界で、現実世界での関係が完全に当てはまるとは思えない。現実世界と同じ接し方では、ネット上での人格と合致しないが為に関係の破壊が起こる事だってありうる。
それよりも、ネット上では別人として異なった関係を作った方が存在しやすい。実際に、自分は全国各地にいる人間とチャットで会話を交わしたり、所有する情報の交換を行ったりしているが、おそらく現実で出会った場合にはまた別の関わり合いになると思う。つまり、ネット上での自分ではなく現実世界での自分という人格で他人と接する必要がある。理由は非常に単純だ。ネットと現実は異なる世界であり、それぞれの世界に存在する自分はそれぞれ異なるのだから。今のところそういった機会はないが、もしネットと同じ感覚で接すればそのうち気まずくなってくるだろう。

最近はミクシィ等のコミュニティーサイトで、現実での友達を誘って楽しんでいる人が増加しているようだが、個人的にあまりいいとは思えない。別世界に別世界の人格・関係を持ち込む事は、前述の通り非常に大きな危険性を秘めているからだ。もし持ち込むとするなら、自分も含めた全ての人格が現実とは違う事を頭の隅にでも置くべきだと思う。現実ではこういう人間なんだからネットでも同じでしょ、と思い込んで、結果として関係を壊すような事が実際に起きて、それが原因になった事件なども実際に発生している。そういう最悪の事態はなるべく避けたいものだと思う。
付け足しだが、ネット上で現実世界における人間関係はあまり信用しない方がいい。これも理由は同じくネット上では友達も単なる他人だからである。過度に信用して痛い目を見た後で、現実世界においてその事を追及しても余計に関係が壊れるだけだ。そもそも、ネット上で信頼というものを信じる事自体が非常に危険なのだが、その事についてはまたいつか詳しく説明しようと思っている。

ではでは。

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ブログのあり方・著作権・ルール

2007-02-01 16:15:20 | 批評
最近人にウケればいいとしか考えていないようなブログが多くてブチ切れそうです、akkiyですこんにちは。
これは事実です。最近のブログに果たしてそんな文句を言えるかどうかわかりませんが、書く記事がないからといってでたらめなニュースを盛り上げる、どこかから記事をコピー&ペーストしてきたような記事を掲載する、単なる広告サイトにするなんて事はあんまり良くないんじゃないですか?そこまでしてあなた達はアクセス数を伸ばしたいんですか?自分がブログをやる意味を、もう一度考えてみてはどうですか?確かにアフィリエイトなどでお金を儲けても、つまらない日記を書いてもいいですが、他人がやってるからで始めて、結局書く事がなくてという人はどうなんでしょうかね・・・。ブログもやっぱり基本的に日記帳のようなもの。日記を書き続けるためにはそれなりのやる気がなければいけないですよね。別にやめろというわけではありませんが、書くネタがないから人の記事を盗んだり、個人・団体を中傷・誹謗するような発言で人を惹きつけるといった行動は慎むべきです。ネットなら匿名だし何を言っても許される、そんな甘い考えでそういう事をやっているのなら、あなたにはネットで発言する権利などありません。権利を持つという事は、同時に自分の行動に責任をもたなければいけないという事でもあるんですから。

それにしても2ちゃんねるって結局潰れなかったみたいですね。いまだに健在のようです。もちろん、荒らし集団や各種厨房さんも元気に活動しておられるようです。ただ、荒らすという事は何らかの形で犯人を特定されて問い詰められた時に責任を取らなければいけないので、よく考えて行動するべきではないでしょうか。それと、厨房と呼ばれてムッとした人がいるかもしれませんが、あの掲示板にだってちゃんとルールがあるわけです。それを守らずに勝手な書き込みをやっているという事は、国に例えれば無法者とでも言えばいいでしょうか。今は厨房と呼ばれているだけですんでいますが、現実ではもっとひどい目に遭います。どんな場であれ、そこのルール(法律)をきちんと呼んである程度は理解した上で、それを守るべきですよね。決してそれを忘れないように。郷に入っては郷に従え。それを忘れたら無法者でしかないのですから。

著作権著作権となにやら作り出したものに関する問題が浮上しているわけですが、もし全てのものに著作権がどうのこうのと文句を言ったらどうなるでしょうか。あなたがもし絵を描いたとします。それは自分が勝手に創造したオリジナルであったのに、それ以前に非常に似たような作品があったとします。そうなると、事情を知らない周囲の人達は「これはパクりだ。著作権侵害だ」と訴えるわけです。そうなればいくらあなたが自分の作品が完全なオリジナルであるという事を主張しても、周囲は聞き入れる事はない。現実にそういった問題も起こっているようです。確かに人の作品をそのままコピーするのは問題ですが、だからといって過度に著作権を認めるのはなんともいえません。何事にも加減というものがあり、それを超えれば他の部分に影響を与えてしまいます。もし、いくら自分がオリジナルを作っても世間がコピーだと判断されてしまうなら、その人は創作活動をやめてしまうでしょう。つまり、過度な著作権保護は逆に創作活動を妨げる事もあるのです。
第一、新しくものを生み出すにしても、脳内では以前に五感で体験した事を参考に作り出すので、多少は共通した部分が現れてきます。つまり、小説で言えば似たようなストーリー、イラストで言えば似たようなシチュエーション・構図といったところでしょうか。そこで、過去に作り出されたものと完全に一致するのなら問題だし、許可無しにほとんどの部分をコピーするのも問題がありますが、しかし一部が似ているだけなら別のものではないでしょうか。つまり、作品に個人的な部分が現れていれば問題はないのです。個性といえばわかりやすいでしょうか。そういうものがあれば問題ないと思います。ただし、もし他人の作品・画風を参考にしたのであれば製作者にその旨を伝えるべきです。
問題は商用的な利用。タカラギコ騒動やエイベックス問題で浮き彫りになった事ですが、キャラクターを商品として使う場合、よく似た作品などを使用するのであれば一応確認は取るべきだし、著作者が使用を拒否するのであれば止めるべきです。利益ばかりを求めてルールを無視する事は決してあってはならない事です。著作者側がフィギアなどの形での商品化を依頼した場合も、著作者が許可する範囲内での商業的な使用にとどめるべきです。著作者の意見を無視して、勝手に改変などを絶対に行ってはいけないという事は理解しなければいけないと思いますよ。勝手に既存のキャラクターの一部を改変して販売、などといった強引な行為は絶対に行わないで、双方が合意して気持ちよく利用できる形が一番望ましいのではないか、と思われます。
どの場合でも一番大切な事は、著作権というのはどんな著作物であっても発生するが、それをどう利用するかは著作者が決めるべき事、という事です。誰かに真似された、というように訴える前に講じるべき対策、例えば最初から著作物に関する事項について表記しておく、著作物の利用・参考・転載などの許可を求める為の手段を確保するなどといった事が必要だし、それでも無断で利用された場合にはいきなり強気な姿勢で訴えるのではなく、相手も納得できるような、平和的な態度での交渉をまず試みるべきです。そして、もし商用利用がしたいという話を持ちかけられた際には、相手の契約内容を確認し、不明な点があれば明らかにする事、そして自分が納得のいくように意見を言う事も大切です。もし相手の意見を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに改変されたり、著作者を偽って販売されたりするので気をつけましょう。
訴えを起こす前に防衛手段を講じる。そうすれば、もし訴える事になっても著作者側が有利になります(著作者の意向を無視するという事になるので)。作ったらそれで終わり、パクられたら怒る、そういう態度では良くない方向に傾きますよ。とはいえ自分も対策をまだ講じてないという罠orz

ではでは。

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こんな時期に核実験するなよ

2006-10-10 12:47:47 | 批評
やっちゃったか、とうとう。北の将軍様はかなり俺らを牽制したいらしい。大体中国と核実験を止めると誓った直後にこれだから、何か怪しいものを感じるのは当然なのかもしれない。てかさ、北の人たちは「放射能はまったく漏れていない」とか言ってるけど、絶対に漏れるよね。漏れてないと思う理由はたぶん機械の故障だ。まああきらめて癌になっちゃいなさい、北の科学者どもめ。
さて、こういう事態になると絶対にやばい事をしでかす男が太平洋を挟んだ向こう側にいるわけですね。ええ、J.W.Bのイニシャルを持つあの男です。まさに北朝鮮はこの男の顔をいきなり殴ったも同然。当然ながら切れたその男は全力で邪魔してきますね。たぶん核を葬るためには核も使いますよ、あの国は。まあほぼ100%の確率で日本は何らかの弊害をこうむる可能性がありますが、おそらく訴えてもシカトされるでしょうね。まあ日本はあの国から見たら単なる捨て駒なんですから。ここで「違う!わが国はアメリカと同等の(以下略」なんて言い出す人に言いますが、どの面から見ても明らかに下と見られてるんですよ。決してアメリカと肩を並べているわけじゃないんです。まあ日本という国のメリットは、あの国から見たら「前線基地として使用できる」事ぐらいなんじゃないでしょうかね。工業力もいまや中韓に引き抜かれちゃってるし、それでも企業は自分のみを守ろうとして大切な人間ばかりを切っていく。こんな国を大切にしたいとはまったく思ってませんね、あの男の国は。まあ逆らったところで、この国の原発を一斉に攻撃すれば即壊滅なんですから。おそらく原発の二次的利用というのはそれじゃないかなとね。
とにかく、アジアはかなり緊張してるわけですが、とりあえずお前らの下手なミサイルで核を打ち上げるのはやめろと言いたい。へたすりゃ漁場が一瞬にして消えて無くなるぞ。というわけでテポドン2での打ち上げには断固として反対させていただきますよ、北の方々。それと資源は大事に使いなさい。

以上、北及びいろんな国に対する批評でした。

世間ではフラッシュ衰退の声があるようですが・・・

2006-09-27 12:50:24 | 批評
 (題名から続いて)それは単に「フラッシュが何かはわからないけど、とにかく面白そう」というような人が挫折して消えただけのことではないでしょうか?むしろそういう現象はどんなものにも見られますよ。たとえば映画だって、最初にやった人は明らかに素人でしょう?それが長い年月を得たことでここまで高度化した。アニメも、漫画もまた同じ現象をたどっているわけですよ。おそらくフラッシュは今までの映像媒体作成の中ではかなりやり易くなっています。ただし、フラッシュ自体が簡単に作れても、フラッシュで使用される素材を製作する作業はやはりプロフェッショナル、つまりある程度はそういったものに慣れた人でないとできません。おそらく今まで挫折した人は、その辺りが原因ではないかと思われます。また、フラッシュも長編物にしようとすれば、それだけ時間や手間もかかるというものですから、根気のある人でなければストーリー物などはなかなか作れないものではないでしょうか。
 今後はフラッシュ界でもプロフェッショナル化・高度化が進み、素人が気軽に参加できる場所が減ってくる可能性があります。その辺りの問題は、今現在有名になっているようなフラッシュ職人さんが後輩を指導していかなくてはならないでしょう。後継者の育成こそが、今後の大きな課題になってくるのではないかと予想されます。
 ひとつだけ頭に置いてほしい事があります。それは、「素人がまったく入れない状況ではない」という事です。確かに世間のフラッシュを見る目は年々厳しくなってきていますが、今後有名フラッシュ職人だけになるという事はないでしょう。なぜなら、一般的に「無謀」といわれるような素人なりのエネルギーも、評価されるものだからです。ですから、今現在「フラッシュ職人になりたい」という方はこれからもその夢を実現させるために、日々努力して下さい。そして、フラッシュ作成の知識だけではなく、イラスト・作画関係の知識もそれなりに身につけていかれると良いと思われます。今後のフラッシュ界の発展に、私も大きな期待を寄せています。素人も玄人も、共に高みを目指して努力されることを心よりお祈りいたします。

以上、「フラッシュ衰退か?」に関する批評でした。この批評に関するご意見、ご感想などございましたらコメントしてくださると有難いです。