人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

万次郎

2023年06月25日 00時00分25秒 | 日記

   万次郎は近代日本の夜明けとも言える時代に

日米の架け橋となる 幾多の業績を残した人物

 

万次郎は1827年1月27日現在の高知県土佐清水市中浜

漁師父悦介と母汐の2男、3女の次男として生まれた

 

万次郎14歳の時

船長伝蔵(38歳)と弟2人重助(25歳)五右衛門(16歳)と虎右衛門

万次郎は炊係としてサバ漁に出たのが1841年1月27日の事

 

ところが嵐に遭い5日間漂流後、無人島鳥島に漂着

魚や鳥、海藻などを食べ、

過酷な無人島生活を送ること 143日間

 

1841年6月27日アメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号が

食料として海亀を確保しようと、無人島鳥島に立ち寄った際に

乗組員に発見され救助され、5人は九死に一生を得る

 

やっと故郷へ帰れると思っていたが、その頃の日本は鎖国していたため

外国船は日本近海に立ち寄る事、港に入ることは出来なかった

 

船長ウィリアム・ホイットフィールドは救助した5人を乗せたまま

捕鯨活動を続けながら 中継基地ハワイへ

1841年11月20日にジョン・ハウランド号はホノルルに寄港した

 

ハワイ国王の顧問であったGerrtP・juddの計らいでこの地に4人は降りた

虎右衛門はそのまま移住した、重助は5年後病死

船長の伝蔵と五右衛門は十年後 万次郎と共に日本に帰国する

 

万次郎は船長のホイットフィールドから

アメリカ行きを誘われた万次郎は自ら進んで

アメリカ行きを望み4人と別れ 捕鯨船員となった

乗組員から船名にちなんで親しみを込めてジョン・マンと呼ばれた

 

ジョン・ハラウンド号は1843年5月7日

万次郎が救出されてから 2年後アメリカ最大の捕鯨基地

マサチューセッツ州ニュベットフォードに帰港した

 

 

 

フォロー、リアクション、コメント頂き

有難う御座います 大変励みになります

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水を制したか | トップ | ジョン・マン »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (2014biku)
2023-06-25 11:31:20
凄い勉強になります。続きが待ち遠しいです。
Unknown (naotomo3451)
2023-06-25 17:55:24
こんにちは!
現在たまたま、NHKの朝ドラマで牧野富太郎博士の話を視聴していて、万次郎が伝説の人として登場していました。当時の事を考えるて、考えられないくらい凄い人物だと思います。拝読出来て、嬉しいです。
Unknown (チョキチョキ)
2023-06-30 16:02:33
始めまして、遊童子さんの所から此方のブログ拝見しています
色々な事を知っていらっしゃる方だと思っておりました

ジョン万次郎は(椿とハナミズキ)の小説から、詳しく知りました。
明治に成るまでの過程で、表には出ませんでしたが、この人が居なかったら、上手くアメリカに着く事が出来なかったのではないか?と思っています
凄い人でしたね!
Unknown (チョキチョキ)
2023-06-30 17:22:46
何度も訪問して申し訳有りません
本を読んでから、ずっと疑問に思っていたのですが、ジョン万次郎が沖縄に上陸しても、沖縄弁で言葉は
通じたのでしょうか?
(童神)の歌が好きで歌うのですが、ウチナーグチでは難しいです
あの時代に解ったのかな?と常々思っておりました

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事