人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

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菊隱宗意【4】

2020年10月20日 00時00分17秒 | 日記

  薩摩軍が奄美大島に到着の報告を受け

琉球国は和議を申し入れるため

 

天龍寺の以文を派遣したが、以文は恐れ

隠れて接触すらしなかった

後に勘を蒙ったと言われている

 

薩摩軍が今帰仁運天港に到着したとき

王府は再び和睦の使者として

 

三司官名護親方・茶人の喜案

そして菊隠らを送った

 

戦禍の中をなんとか今帰仁に着き

和睦を申し入れた、交渉の結果

名護親方が人質になり

 

首里で和睦の交渉を行う事が決まった

薩摩軍は進攻し、三月二十九日読谷大湾に上陸した

 

軍は二手に分け本体は陸路で首里を目指した

一方の船隊は那覇港へ

 

四月一日首里に到着し

二日から講和交渉が開始された

 

琉球側は摂政具志頭朝盛・喜案・菊隠ら

八人が列席して始まった、

 

組織的な軍事行動は終結した

四日尚寧王は降伏(無条件降伏に等しかった)し

首里城を下城した

 

五日から城内荷物御改し宝物の目録作成が行われ

十日~十三日かかった

 

五月十五日尚寧王は、薩摩へ連行され、

翌年1610年尚寧王と随行者百余人(琉球側)

藩主島津忠恒と共に、

 

徳川将軍に謁見のため江戸へ向かった

そのとき菊隠も同行している

 

この戦争で薩摩側は、二百人近く戦死者

多数の負傷者が出た

 

琉球は戦兵・住民を含めると薩摩より

数倍あったと言われているが正確な数の記録がない

コメント (2)
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