人生黄昏時

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羽地朝秀【3】

2020年07月05日 03時08分21秒 | 日記

   羽地朝秀の生存中の姓名は呉象賢・羽地按司重家と呼ばれていた
1691年以降王家の分家は氏が「向」、名乗り頭が「朝」に統一され

王族であった朝秀は向象賢・羽地按司朝秀と呼ばれる

「向」は姓「象賢」は諱、「羽地」は家名、按司は位階もしくは称号
「朝秀」は名乗りで、姓と諱の組み合わせは、からなー(唐名)と言い
中国との朝貢、外交の際公文書に使用された

王家の姓は「尚」、分家は「向」、名乗り頭は「朝」の一字が付いた

家名・称号・名乗りを合わせた構成は、大和名と呼ばれ
日本との外交の際公文書に用いられた

家族、仲間内では大人になっても、わらびなー(童名)で
呼びあっていた、朝秀のわらびなーは「思亀」である

琉球は中継交易よって国として成り立っていた
ところが西洋諸国のアジアへ進出

清国の海禁政策の緩和により琉球の中継交易は
急速に衰え国の経済は衰退した

激変する国際情勢に旧体制の琉球は国として
機能を果たすことが出来なかった

経済は衰退し政治は混迷、人、国全体が疲弊していった
このような状況に誰もが危機感を抱いていた

大和に留学し政治や経済に精通していた羽地朝秀を
尚質王は行政のトップ(摂政)に任命した

当時の琉球は薩摩藩、幕藩体制の中に組み込まれ
政治的には独立を失い、その上莫大な借金があった

独立国としてなんとか維持していた琉球は
独立国として幕府、薩摩藩に物を言える
主張できるような、主体的な国に立て直すため

旧体制下の政治機構、全ての組織、政教分離を
強力なリーダーシップで大胆に改革を断行する

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