雑誌「丸」は、戦後50年特別号として「本土決戦と終戦」を発刊しました。戦後80年特別号は発刊する予定はないようです。
やはり「戦後50年」が大きな節目なのでしょうか。「戦後100年」には、生きてはいないでしょうから「戦後80年」を大事な節目と考えています。
保阪正康著・毎日新聞刊「本土決戦幻想 コロネット作戦編」
軍部は、天皇家、宮中三殿、学習院を長野県松代に移動するため大本営の工事をしていました。
一方、アメリカ軍やイギリス軍を主力とする連合国軍による日本本土上陸計画「ダンフォール作戦」を考えていました。中央大学吉見義明教授は、日本軍が国際法違反の毒ガス兵器を使用しているので同作戦には毒ガスを使用する予定だったと言われています。「日本軍と毒ガス戦」
連合軍は、1945年11月1日に九州南部への上陸作戦「オリンピック作戦」、翌年1月に関東地方上陸作戦「コロネット作戦」を予定していました。日本軍も本土決戦準備と国民に竹槍訓練を進めていました。
「オリンピック作戦」
「コロネット作戦」(日本軍の防衛態勢と米軍の上陸作戦計画)
日本海軍最後の特攻兵器「伏龍」は、米軍の上陸作戦のためでした。
「伏龍」の教官だった岩井忠正さんが、遊就館内で説明されているところです。
世田谷区議会議員上川あや(一人会派「虹」)さん提供の世田谷区瀬田玉川神社の地下壕。何故、何時、地下壕がつくられたのか、文献史資料がありません。マンション建設工事が始まる前に、建設会社が作成し、写真を撮ったようです。入口は埋められています。連合軍は、「コロネット作戦」の時に多摩川を渡河して、二子玉川から東京に向かうことを想定して陸軍部隊が準備したと想像しています。
防空壕の掘削時期は、1944年(昭和19年)で、陸軍の司令部が相模原方面に対する防衛拠点として、秘密裡に卜ロッコを使用して掘削したものといわれている。しかし。実際に使われた痕跡は認められなかった。(世田谷区教育委員会調べ)
参考Blog記事
世田谷区の戦争遺跡「瀬田玉川神社地下壕跡」の資料
(了)