葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「建国記念の日」に思うこと 東海林次男

2012年02月22日 | 歴史探訪その他

 1946年3月16日に創立した女性団体「婦人民主クラブ」の機関紙「婦民新聞」第1386号に掲載された論考を編集局から許諾があったので転載する。
「建国記念の日」に思うこと
東海林次男(歴史教育者協議会

Photo_2東海林次男氏は、「フィールドワーク靖国神社・遊就館」(東京の戦争遺跡を歩く会編・平和文化発刊)を共著。

 「皇紀二六〇〇年だって…。未来を描いているんだ」「いや、平成でも二〇一二年でもない日本独特のそういう数え方があるらしいよ」
 ある美術展会場で皇紀二六〇〇年を記念して出品した作品の解説を見ながらの、大学生とみられる若者たちの会話の一部です。
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 皇紀、これは若者たちにとっては死語となってよい言語ですが、使われた歴史があったことは知っておく必要があるでしょう。一九四〇(昭和十五)年、「皇紀二六〇〇年」の祝賀行事が全国的に行なわれました。「二六〇〇牢記念」と刻まれた神社の鳥居や「八紘一宇」「国威宣揚」の石碑が各地に残っているのはそのためです。
 宮崎県の平和台公園に高さ三十六・四㍍の通称「平和の搭」がありますが、戦前は「八紘一宇の搭」と呼ばれ、まさにこの時につくられたものです。礎石には中国大陸の占領地、植民地などから戦利品として集められた石が使われています。戦後、「平和の搭」と名称を変え、アジア各地への侵略を鼓舞した歴史を隠ぺいいしています。
 靖国神社遊就館の「日本の武の歴史」展示室は、神武天皇から始まっています。神武天皇と弓の先に金鵄(きんし=金色のトビ=金鵄勲章のおこり)が止まった絵が描かれ、次のように説明されています。
 「神武天皇 第一代の天皇 長途の東征と苦難を克服された神武天皇は、国のすみずみまで同じ屋根の下で、人々が安らかに暮らせるようにと願い、大和の橿原に統一国家の基礎を据えられた。皇統は連綿と継承され、今上陛下は第百二十五代である。(建国記念の日は神武天皇即位の日である)」
 「同じ屋根の下で」が「八紘一宇」であり、その美名のもとにアジア太平洋戦争を起こしました。また、一八七二(明治五)年、『日本書紀』の記述をもとに行なわれたとし、この年を日本の建国元年とする紀年法=皇紀が定められました。そして、二月十一日は建国を記念する日として紀元節という祭日となりました。紀元前六六〇年は縄文時代であり、統一国家の基礎ができるのは古墳時代が終わってからです。
 『日本善臣』では百二十七歳、『古事記』では百三十七歳まで生きた神武天皇は、天皇制神話そのものです。
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 私は、歴史教育者協議会に所属しています。会の先輩たちは、一九五七年二月五日に、委員長名で「紀元節の復活」に対して、次のような反対声明を出しています。
「こどもにウソを教えることはできない。これは日本の良心である。このことはウソの歴史によって戦火の中で殺された子どもたちの血によって、私たちが教えられたことであり、日本の親と教師が、戦争の惨禍とともに絶対に忘れてはならないことである。
 しかるにいま、建国記念日の名のもとに紀元節を復活しようとする動きをきく。かつてウソで歴史をぬりかため、国民をあざむき敗戦にまでみちびいた者が、再びウソをくりかえして私たちにだまされろといっている。のみならず、かつて日本国民がだまされた屈辱の日を祭りと休暇で祝えという。このくりかえされなかんずく歴史教育者は、紀元節復活の動きに抗議し、これに絶対に反対する」
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 この声明は五十五年も前のものでありながら、いまも通じる内容です。
 東電福島第一原発事故は、原子力発電所安全神話がウソだったことを大きな犠牲とともに白日の下にさらけ出しました。被災地・避難地で過ごしている方々と例年になく雪が多い日本海側の地域に、心まで暖まる春、生活の見通しが立つ本当の春が早く来ることを願っています。 (歴史教育者協議会常任委員)

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