友人からメールを受信しました。
長谷川順一さま
ブログ記事を読ませていただきました。
靖国神社の「合祀基準」を変更しなければ、戦死自衛官を合祀することはできないので、元海将大塚氏を宮司にしたのはそのための布石、とのご指摘、もっともだと思いました。
天皇は躊躇なく裁可するのでしょうか。
管理人の回答
例大祭日は「裁可」でしたが、いまも「裁可」となるかわかりません。
と言うのは、天皇の仕事には色々あります。
天皇の「祭祀」部分は、情報公開請求不可の範疇なので不明な部分です。
大塚海夫宮司は、形式的には「崇敬者総代」から辞令の交付を受けています。
しかし、宮司の権限は絶大ですので「自衛隊合祀」を進めるでしょう。
もう少し研究します。
『天皇陛下の全仕事 (講談社現代新書) | 山本 雅人』から
執務室「菊の間」で、書類決裁する方法には、大きく分けて以下の四つのパターンがある。
① 天皇が目を通した後、天皇自ら署名(御名)したうえ、天皇の公印である「御璽」という大きな印が、宮内庁職員によって押される「御名御璽」
② 天皇が「可」の印を押す「裁可」
③ 天皇が「認」の印を押す「認証」
④ 天皇が「覧」の印を押すもの
(略)
宮内庁関係書類の決裁
ここまで、国事行為に関する書類(「内閣上奏もの」と呼ばれる)の決裁について説明してきたが、「執務」では他の書類の決裁も行われている。それは「宮内庁関係書類」と呼ばれるものである。これは、「皇室関係書類」と言いかえてもいい、国事行為(つまり閣議決定など)とは直接関係のない、皇室内部や宮内庁に関する内容の書類で、侍従らが天皇に見せ、一部はおうかがいを立てる(了承をもらう)のである。年間約一〇〇〇件だという。 この宮内庁関係書類は、「お伺もの」と「ご覧もの」とに分かれる。(以下略)
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管理人は「お伺もの」「ご覧もの」という決裁があることに驚きました。
靖国神社は戦歿者を英霊とするために「霊爾簿の天皇への上奏・裁可➜招魂➜合祀」、という手順を踏んできました。
戦後は、天皇への上奏はなくなりました。しかし現在も靖国神社は毎年何人かの英霊が増えています。
遊就館展示室9「招魂齋庭」に展示されている御羽車の下に「戦歿者合祀は今に到るまで必ず天皇陛下の叡慮を受けているのである。」と書かれたパネルがあります。
天皇の私的行為なのか公的行為なのか分かりませんが、御簾に隠れた衝立の向こう側に「合祀に関する宮中と神社と何らかのやり取り」があるような気がします。
天皇が「お伺もの」「ご覧もの」として決裁しているのではなかろうと疑念がわいてきました。
そこで宮内庁の文書管理について開示請求をしました。
天皇が「ご親拝」をしている神社や勅使参向の実績(勅裁社)も知りたくなりましたので開示請求をしました。
「②勅使が参向した神社一覧」は宮内庁に文書がありますので情報開示されましたが、他の二点は「皇室関係書類」なので、宮内庁には文書がありませんから「文書不存在のため不開示」となりました。下記の内廷費を参照して下さい。
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請求する行政文書の名称等
①天皇陛下がご親拝された神社一覧
平成25年度から平成29年度までの5年間(29年度末は予定を含む)
②勅使が参向した神社一覧
平成25年度から平成29年度までの5年間(29年度末は予定を含む)
③文書受理簿中並に来訪者受付簿中、宗教法人靖国神社に関する文書
平成25年度から平成29年度までの5年間(29年度末は1月末まで)
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「宮内庁公式ホームページ」中「予算」内廷費 天皇・上皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので、法律により定額が定められ、令和6年度は、3億2,400万円です。内廷費として支出されたものは、御手元金となり、宮内庁の経理する公金ではありません(皇室経済法第4条、皇室経済法施行法第7条、天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則第4条、附則第5条)。(ゴジックは管理人)
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靖國神社社報「靖國」令和5年3月第812号に、鈴木護雄氏が寄稿した「我が祖父 鈴木孝雄 陸軍大将から靖國神社宮司へ」を転載します。
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招魂の社・
靖國神社宮司就任
陸軍大将鈴木孝雄は、昭和八年軍事参議官を辞し現役を退いたが、支那事変の戦線が拡大し、多数の戦没者が生ずるに及び、同十三年四月二十一日、賀茂百樹宮司の後を承けて第四代靖國神社宮司を仰せ付けられ、終戦後昭和二十一年一月+七日まで神社に奉仕した。
昭和十三四月十四日、官国幣社職制の一部が改正され、これまで宮司のみを置くとされてきた別格官幣社靖國神社に於いても権宮司を置き、権宮司は、宮司を補佐し、祭儀及び庶務の任に従事させることになった。そして、十六日、官幣大社浅間神社宮司の高原正作を靖國神社の初代宮司として迎え入れた。
そして権宮司に遅れること五日、四月二十一日に、明治四十二年三月以来三十年の永きに亘り社運の発展に尽瘁(じんすい)してきた宮司賀茂百樹が退職し、陸軍大将鈴木孝雄が新たな宮司に就任したのであった。(中略)
敗戦
かくして辛うじて空襲の劫火(ごうか)から本殿・拝殿を守り抜いた靖國神社にも、やがて八月十五日が巡ってきた。
正午、玉音放送が全国民に流された。過日ポツダムに於いて日本に対し戦争終結を提議した米・英・支三国共同宣言の受諾に関する大詔渙発せられ、史上初めて、畏くも陛下御自らラジオを通し全国民に対し御放送あらせられたのである。孝雄以下靖國神社職員一同は、記念殿ラジオの前に正座してこれを謹聴した。淘に恐懼感激の至りに堪えないひとときであった。
続いて実兄・鈴木貫太郎総理大臣の告諭並びに経過大要の放送があった。そしてそれが終わると、引き続き孝雄から訓示が職員に与えられた。
午後になると早くも靖國神社の拝殿の前に人々が陸続として詰めかけてきた。拝殿前の参道の敷石の上に脆いて鴫咽する者が多く、以後数日に亘って続いた。自分達の力が足りなかったことを陛下にお詫び申し上げる心の発露であった。(以下略) 昭和二十年十月二十三日午前八時、靖國神社では〝敗戦〟というかつて経験したことのない一大岐路に遭遇して最初の例大祭が斎行された。この日、孝雄以下全職員が奉仕した。(中略)
敗戦により、今後、政府が戦没者を靖國神社に合祀することが極めて困難となった。そうした中、十一月十九日夜、満洲事変以後の未合祀者で、将来靖國神社に合紀されるべき英霊を一度に招魂する招魂式が営まれた。
招魂式は午後六時、招魂斎庭に於いて行われ、満洲事変、支那事変、大東亜戦争に於いて死没した軍人・軍属で靖國神社に未合祀の者について行われた。祭祀者の個々の祭神名は、今後慎重に調査の上、霊璽簿に記入申し上げ、例大祭に際し逐次本殿正床に合祀することとなり、これまでの慣例であった戦没者一人ひとりについて調査の上合祀するという合祀手続きが省略された。
翌二十日、午前九時からの臨時大祭招魂祭に続いて、同十時十五分、天皇陛下が行幸、招魂斎庭御拝座にて御親拝になり、高松宮、三笠宮を始めとする各白震方も続いて樺刻山された。
祭典を見たダイク准将は、靖國神社の儀式が、厳粛、平和裡に行われたことに深く感銘したと言う。
宮司辞任
聯合軍の強硬な指令により、一時は廃止の憂き目にあった靖國神社は、孝雄をはじめ関係者が繰り返し行った執拗な陳情により、遂に廃止の指令を撤回させる事に成功、宗教法人令・改正勅令の発令並びに管轄官庁であった陸・海軍省と内務省の廃止に伴って、靖國神社は日本政府の管掌を離れて、崇敬者である国民の手によって直接護持存続する組織を作るということで落着した。
その間の状況を見極め、昭和二十一年一月十七日、孝雄は陸軍省より任命されて以来八年弱を勤めた宮司を辞任し、新組織の宮司には侯爵筑波藤麿を推薦、同月二十五日に宮司に任ぜられた。
二月一日、神祇院が廃止され、靖國神社は翌二日に、宗教法人として新たに発足した。(以下略)
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「靖國神社は日本政府の管掌を離れて、崇敬者である国民の手によって直接護持存続組織を作る」ことになりました。しかし、宮司職が絶大な権限を持っていますので、新宮司大塚海夫氏が「合祀対象」に「自衛隊戦死者」を追加することを、崇敬者総代に諮る可能性大だと思っています。
令和6年1月号に掲載された崇敬者総代は下記の方々です。
(了)