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江戸の刑罰 (中公新書 31) 価格:¥ 714(税込) 発売日:1964-02 |
「市ヶ谷」「刑務所」「怖い」という検索キーワードでこのブログが閲覧された。同じ検索から他のサイトを閲覧をしたところ、市ヶ谷刑務所内に「不浄門」があったことが分かった。それは下記のサイトからである。
古田大次郎を描写する小説二編
古田大次郎(ふるた・だいじろう)
1900年(明治33年)1月1日-1925年(大正14年)10月15日。
東京、麹町に生まれる。早稲田大学英法科に入学。民人同盟会。建設者同盟に参加。機関紙『小作人』を発行。 1925年9月10日、死刑判決。同年 10月15日午前8時25分、絞首される。獄中手記『死の懺悔』が出版されベストセラーとなる。
<訣別>加藤一夫 『原始』第一巻第十一号、1925年11月1日
「棺闇をゆく」
四人の持ってきた菊の花とコスモスの花が、死体と棺との間に隙間もなく詰め込まれた。そして彼は、これ等の花をもって埋められたのである。それはさながら、彼が、暖かい太陽の光に照らされながら、あんなにも憧れて居た秋の野に、而もあんなにも好いて居た菊やコスモスの花に包まれて安らかに眠って居るかのように、同志達には思われた。 「われわれの、せめてものこの心やりをうけて呉れ」こう同志達は心の中で念じたのであった。棺の蓋をして、さて愈々此所を離れようとしたとき、刑務所の役人達も、彼への告別に、いたわしそうな眼をして恭々しく頭をさげた。
…… ……… 不浄門までは囚人達が棺を擔いで呉れた。ああ名も知らぬ囚人達よ。誰にも増して君達に感謝しなければならない。死人はどんなにかそれを喜ぶことであろう。 不浄門の外には、ほかの同志達が待ちうけて呉れて居た。棺は囚人達の肩から同志達の肩に移された。日はもう、とっぷりと暮れて、道は暗かった。不浄門は三度、ギーッと音を立てて締められた。看守達は提灯をもって道を照らして暮れた。だが、道はやはり暗い。(略)
管理人の資料にある「市ヶ谷刑務所」の平面図には「不浄門」が見当たらないので、法務省「法務史料展示室」の学芸員に調査を依頼したところ本日、回答の電話があった。
まず、「江戸の刑罰」石井良介(中公新書1964年発刊)に、小伝馬町牢屋の平面図があり裏門がある。『裏門は死罪人の出口。打ち首後は俵に入れ裏門から出す。』の記述がある。
また、「中野のまちと刑務所」(中野区発刊)に市ヶ谷刑務所の平面図がある。北東、南東、南、西、正門と五ヶ所に門があったことがわかった。このことから北西角に「刑死場」があるので西の門が「不浄門」であると判断できた。(市ヶ谷刑務所は1937年に中野区豊多摩刑務所へ移転統合した。)新宿区立富久町児童遊園に、「市ヶ谷刑務所刑死者慰霊碑」が建立され、毎年秋の彼岸の日には、地元市谷台町町会と日本弁護士連合会が慰霊祭を行っている。
江戸城の平川門に「不浄門」があり、城内での死人の出口となっている。生きてこの門を出た人間は、淺野内匠頭と絵島と言われている。実際にはもっと多く出されたようである。(皇居東御苑セルフガイドブック)