葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「敵艦船群ノ果敢ナル體當リ攻撃」陸軍特攻隊50名への“感状”受電綴。防研「市ヶ谷台史料」から

2015年08月07日 | 歴史探訪<市ヶ谷台・防衛省・東京裁判>

 至急電報 昭和二〇.八.一二
                   「臺北」湾部隊参謀長
 左ノ如ク感状ヲ授與セラレタリ
 誠第十六飛行隊陸軍軍曹 ◯◯◯◯
(50名の階級・氏名が書かれているが、遊就館展示室「靖国の神々」に掲載されている特攻隊員のご遺影が脳裏を過ぎり、メモするのがつらくなって略した)
 右ノ者特別攻撃隊員トシテ南西諸島方面ノ戰闘ニ参加昭和二十年三月下旬以降六月上旬ニ至ル間沖縄本島周邊海域ニ来寇セル敵艦船群ノ攻撃ヲ命ゼラルヤ勇躍挺進或ハ夜暗洋上遠距離ヲ進般シ或ハ敵戦闘機ノ執拗ナル妨害ヲ排除シテ之ヲ急襲果敢ナル體當リ攻撃ヲ結構(ママ)シテ敵ノ主力艦船ニ對シ甚大ナル打撃ヲ與ヘ全軍ノ作戰ニ寄與セル所順ナル大ナリ、之ユエ誠純忠ノ大義ニ透徹セル烈々タル攻撃精神ノ發露ニシテ其ノ成功抜群ナリ仍ツテ茲ニ感状ヲ授與シ之ヲ全軍ニ布告ス
                    昭和二十年七月八日
第十方面軍司令官 安藤利吉        受電綴
 防衛庁(現防衛省)本庁新築工事に先立って行われた尾張徳川家上屋敷跡の市谷本村町遺跡調査は江戸時代の遺跡だけが報告され、明治7年に開設された陸軍士官学校や昭和16年に設置された大本営陸軍部と三宅坂から移転をしてきた陸軍省の遺跡はウヤムヤにされてしまいました。
 ところがその後、毎日新聞社社会部吉永磨美記者の調査で、敗戦直後 に大本営陸軍部が焼却し、土中に遺棄したはずの書類の束(主として参謀本部第三課)が保管していた文書が見つかっていたことが明らかになりました。防衛庁(当時)はその書類の束を青梅市の調査会社に預けました。調査会社はその書類を冷凍保存し、書類を一枚一枚ピンセットで剥がし、分析をしました。その書類は、防衛省防衛研究所図書館で「市ヶ谷台史料」として公開されていますのでアップします。【注】敷地北側の市谷薬王寺町に住んでいる古老は、敗戦の日から一週間位は大本営から黒い煙が立ち上っているのが見えた」と証言してくれました。また、陸軍軍医学校の元看護婦石井十世さんは、軍医学校の機密書類は東一(陸軍東京第一病院)の病棟と病棟の間の草むらで、一枚一枚剥がしながら完全に焼きました」と証言してくれました。
 「市ヶ谷台史料」について
一、昭和二十年八月十四日日本政府は閣議でポツダム宣言受諾を決定するとともに重要機密文書の焼却を決定した。これに伴い陸軍は各部隊・官衛・学校などに機密文書の焼却を指令した。陸軍省、参謀本部など陸軍中枢機関の所在した市ヶ谷台では数日にわたり秘密文書が焼却された。
二、平成八年四月末、自衛隊市ヶ谷駐屯地で東京都埋蔵文化財センターが旧尾張藩上屋敷跡の発掘調査中、焼却された筈の旧陸軍文書が焼け残った状態で大量に発見された。
三、発掘された史料は、大半が焼損し、約五十年間にわたり湿気を帯びた状態で土中に埋没されていたため、劣化が著しく頁を開くことも出来ない状態であった。戦史部は文化庁国立文化財研究所の助言と修復事業者の意見を参考として修復可能でしかも史料価値の高いものを選別し、青梅市の「東京修復保存センタ ー」で修復作業を開始した。四、発掘された史料は、主として参謀本部第三課(編成・動員課)が保管していた文書で編成・動員などに関する御裁可書、編成表、電報綴等である。これらの史料は、日本陸軍の戦争指導、作戦指揮に関する史料として当防衛研究所戦史部に欠落している部分を補完する史料であり、また『戦史叢書』のなかで関係者の記憶をもとに記述された部分を裏付ける史料として重要な意義をもつものである。
 平成九年十二月十五日 防衛研究所戦史部長 辻川健二

(04.8.17)管理人が閲覧したメモ書きをワープロ文書にしたもですが、現在は「防衛研究所・公開史料目録・公開目録・陸軍<陸軍6>」に市ヶ谷台史料目録がPDFで見ることが出来ます。

旧陸軍士官学校一号館・陸軍省・大本営陸軍部庁舎


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