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>時は昭和<「昭和12年から昭和20年まで」自分史より

2024年07月14日 | 時は昭和

Facebookグループ「時は昭和」に自分史から「昭和12年から昭和20年まで」の写真を投稿します。

昭和12年3月に東京市四谷区新宿二丁目の新宿病院で生まれました。

父は、9月第九師団輜重第九連隊に応召して、上海・蘇州・南京・徐州の戦闘に参加。母子は、蒲田区(現大田区)御園町の実家で生活します。戦地に送った写真。

父の除隊後は、杉並区井荻一丁目(現・善福寺一丁目)に住みました。

昭和16年妹が生まれました。

戦地帰りの父に敬礼の仕方を厳しく教えられましたが、友達はハイルヒットラー式敬礼をしています。

杉並区立桃井第四国民学校に入学。

昭和19年11月24日。杉並区井荻1丁目(現善福寺1丁目)の自宅から約1,000㍍の距離にある中島飛行機荻窪製作所へ米軍戦略爆撃機B29の高高度爆撃がありました。自宅から約200㍍の畑に500キロ爆弾が落ちて大きな穴が開きました。迎撃戦闘機の機銃弾一発が自宅の階段踊り場の窓ガラスを貫通し、憲兵隊が持っていきました。12月3日にも爆撃がありましたので、父はビックリして“我が家の長男大事"と八王子市元八王子村の農家に縁故疎開させました。元八王子国民学校(現・元八王子小学校)3年生に編入しました。そこは畑の中の一軒家でしたが、学校から帰って一人で家にいたところ空襲警報がなりましたので畑の中にある防空壕に入りました。そこへアメリカの戦闘機が畑すれすれに飛んできてロケット砲で校舎を爆撃しました。プロペラ部が尖っている機体と、操縦席のアメリカ兵の顔がはっきりと見えた記憶が今でも鮮明です。
その戦闘機の名前と爆撃された日にちが知りたくて2006年8月に八王子市郷土資料館に行って調べたところ、昭和20年7月28日で戦闘機は米陸軍Pー51ムスタングだったことが分かりました。8月2日には八王子大空襲。3日の午前1時頃Pー51ムスタング再度の爆撃により校舎の大部分を焼失しました。父は杉並の自宅に引き取りました。早生まれで身体が小さかったので、右最前列の二番目です。「とうきょっ子」と虐められました。

八王子市立元八王子国民学校3年生男子組61人。

米陸軍戦闘機Pー51ムスタング

(了)

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