アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

横山と浜名は警察署仲間で相馬市長までやってた 雷鳴ってるのこいつらのせいだと思うね うちの熊野権現移動を調べる

2023-09-18 14:53:45 | 日記

大日本帝国の人達は
すり替えが巧みでうまい 二重にして自分達の集団権利と利権作って
あとは篭に入れて虐待してたようなものだ
そういう人殺しが市長なんて 警察なんてやってはダメだな

東北でここだけホットスポットみたくなってるぞ 今

他所で熊野神社と称し 本物置いてるとこはいくつもない
レプリカ状態であっても それで済ませてる
あたしの家のパクリもしてないなら 尚更すがすがしい

本物がうちにあって それを狙って窃盗 横流し 隠し自称持ち主
持ち主というと疑われるから 「安置したのは俺」って言葉を使う
まるで 「昔は親類のようだったのよ」みたいな惑わせ文句

鹿島の神社仏閣の本を調べてるが 一時期 上真野にいたな うちで

その連中は嘘と真実を混ぜて語る
ウソは犯罪を隠し 真実は相手を信用させ自分に利権を呼び込む為だ
だから、嘘は犯罪の痕跡 真実はうちの歴史で背乗りされちゃってる事象

【鹿島の神社仏閣】

P96-97
 ー安倉観音堂ー 渡部成美
創建大同2年(807)年ー嘘っぽい
👈使える部分ナシ
十一面観音 正観音 馬頭観音の3体
江戸中期建造の観音堂は明治20年箕輪山草焼きの大火で焼失
堂宇・本尊・什物は再建後のもの

ー安倉山王大権現堂ー 
渡部成美の協力者に郡と京都坂下の誰かがいる
内容は全部嘘

創建正長元年1428年
京都坂下よりこの地へ勧請 明治4年(1871)年に安倉観音堂境内へ遷座
小祠内に「山王大権現尊の由緒」と題し、南北朝争乱では霊山城が落城し
北畠顕家の臣真野五郎道直が下向。その時奉じてきた山王大権現であると言い
木板に墨書きされている

①熊野権現は霊山城に置いてた物で京都から持ち込んだ物なら霊山城落城に関わる仏と書くのは間違いでしょ
まるで、霊山城のヤツが京都にいってたみたいな言い回し
だったら、霊山城落城に関わる混乱で〇〇が京都へ持って逃げていたが、ここにあったという事で明治4年に戻す形になったんだとか書かないか?
それが意識されてない時点で、書いてる内容は嘘でしかない
②山王大権現の由緒とした木板は、窃盗してから作ったコジツケ
これが山王大権現だと言う為の捏造証拠品
山王大権現とは阿弥陀の事だから


P49-50
 ー熊野神社ー 大谷家(横山)
創建不詳
👈1663年の棟札があるという部分が窃盗された時期の見込みあり

大谷家の西北20mの丘陵の麓にあり、家を見守る位置にある、大谷弘家の氏神である。熊野大権現・春日大権現・八幡大菩薩の3社には寛文3卯年(1663)4月吉日の棟札があり天文の頃の知行書もある

大谷家は藤原氏の末流、その昔佐藤越中守常より栃窪出て御山に定着
天文12年(1543)年には領主より高3貫6百文(36石)をいただき、藩政時代には
在郷給人として仕え廃藩にいたる
明治中期に大谷貢は福島県会議員、その甥保は八沢尋常高等小学校長、実弟横山宗延は福島警察署長、退職後は相馬郡大野村村長、相馬市長となり世に有為な人材を輩出
そのゆえに、340年も前の棟札が現存、今も拝まれている
三社とも棟札で最も古いものは寛文3年(1663)年であるが、「熊野大権現」の棟札が鮮明なのでこれで掲載する
棟札の導師宝積院は鹿島区山下字安倉の法印である


①1543年の領主は相馬藩が捏造した顕家の子孫で当家だ 
②自分の親族が重用されてるから拝まれてると言ってるようだが終わりだ
帝国工作員で使えるから重用したのが帝国側で、顕家の子を顕胤に改ざんした主要メンバーなんじゃないのかな?
まるで神仏より俺が神で俺を拝めって言ってるようなもの
③1663年の法印は冊子に印刷されていないので信用できないのと、あんた達はグルだから作る!捏造する 
1663年熊野大権現がこのメンツにいったん流れた事を意味するんだな?

ー相馬略史ーP50-51
慶安4年(1651)年領主相馬義胤33歳で死亡、家臣金沢はその後殉死
承応元年(1652)長門守忠胤が上総国(千葉)来里よりきて婿養子となり相馬家を継いだ
侍の供、岡部五郎左衛門、荒井弥市右衛門、志賀三左衛門、志賀八右衛門、鴇田新五兵衛、松下、飯塚等
寛文11年(1671)に至り、田地開発の士は800人に及び、家老軍代の判で知行書を得て中村在郷の士は1400人になった


P50 
 ー御山(葉山)神社ー 鹿島御子神社
👈医王山玉東院 葉山ハヤマ お浜下り列帳
藩政までは医王山玉東院があった
葉山は羽山・麓山・端山などと書き奥山に対し里山の意味
安政3年(1856)年「葉山宮 御浜下り列帳」がある
明治20年箕輪山草焼きの火事で神社焼失 神仏什器焼失

藩政までは医王山玉東院があった←これうちの関係でしょ❓
※ある限定された時期 山形月山から鹿島山中に何人か来てる
それは北畠顕信の配下連中ではない
※相馬藩は顕信のほうにかばってもらってる 顕信のパクリした相馬秀胤(織田信恒)の親族が原因
※相馬秀胤が山形天童城主を捏造で作って北畠顕信役を演じてる
これわかってるのは、山形でこの捏造に関わった連中で、その他の人は
顕信役を相馬がやってる認識がなかった 騙されてたんだ
※鹿島のこの本にいくつか載ってる仏はうちが持ってたか、関わった人の仏
※顕信の方面はこれを自分達が顕信だ、顕信と顕家の子は一緒だ!と捏造し
相馬藩主側の利権にしてたんだ
※山形から、鹿島に入る途中 宮城の大倉ダムを経由してる
大倉ダムの下方 愛子の近くに名残りが残ってる
しかし馬頭観音は嫌だ
※顕信役をやってたヤツは伊勢と繋がりを持ち、青森との接点をアピール
※青森県庁にかなり相馬〇〇メンバーが在籍してるようだがこれも
相馬秀胤(織田信恒)が北畠顕信側を自演演出してたせい
この人の名は、織田信長でなく信雄だ 信雄が伊勢北畠を継いだと言ってる
織田信雄は豊臣・松平の配下だ
それに相馬の名使ってたら相馬一派の利権よ
※医王山玉東院の名から医王 つまり薬師如来を意味するかもしれないが
昔の天台宗の派生で、密教にしてた薬師学を伴う人の関わりの施設
うちでしょって
※葉山の名付けたのは例による当て字で もともとは月山方面の羽山信仰の
羽山 
月山方面から持ってきたんじゃないかと思われる仏が掲載あるんだ
古いヤツ
源孫遺書の「真野に隠れてた」って記述の真野は上真野っぽい
※上真野にそれらしき仏あっても、実際馬頭観音は山手に行ったらほとんどないと思う 見に行かないとわからないが、こう書くと捏造連中は運んでいくかもしれない あったんだ!昔からあったんだ!って
※お浜下り列帳は昔からあったという連中は作ってる連中で、うちにこれは作れない げんに、お浜下りの主役が桑折にされてるし脚色だらけ
これを中館の日吉神社が相馬農業高校と組んで行事ストーリーを作った
桑折が仏を日吉神社に安置したという土台がインチキ使って
うちに仏あるから 「持ち出したんだ💢」とキレる窃盗集団
相馬藩は相馬秀胤(織田信恒)を北畠天童丸と捏造し、相馬の人間複数が
顕家の子吉左衛門のパクリしてきたんだ 何人も
それ 子孫のうちの前では口から悪霊出すように高慢に話すし偉そうにしてるから、この連中が仏窃盗や成りすまししてたのが追及しづらかった
あたしだけじゃないわ もう何人も嫌気さすほどに
※お浜下り列帳は織田信恒(相馬秀胤)を北畠顕家の子に仕立て、桑折が従属家臣に作って桑折が仏安置したとか 松代を匿った真野は桑折だとか
「北畠顕家の子孫は真野になってる!真野は桑折だ!」と言う利権を作ってたんだ 福島県伊達市 宮城県仙南コレに協力してたな?
桑折は郡だ 郡は桑折の文字変えた同族だ
コオリ コオリ 小切手やカード 外国文献じゃ同じスペルになって
同じ発音でトークする 成りすまし替え玉は相手が気づかない


P15
 ー男山八幡神社摂社 諏訪神社ー 
旧称諏訪神社
創建建武年間(1334)年ー(1338)年

建武年間(1334-38)年、国司源顕家の一族が伊達郡桑折から真野郷に移住し、真野五郎を称した。その3男真野三郎は寺内村に隠居し、守護神として諏訪明神を祀り神田を寄せたのでその地を諏訪田と言う
👈男山八幡神社はもともと諏訪神社だったみたいね

①北畠顕家の一族が桑折から移住←嘘
これは桑折側的に、松代がいったん桑折に逃げて真野へ行ったという記述に対してか、それとも真野五郎が桑折に逃げ真野に戻った話に対してか
両方嘘だけど 真野長者の子は桑折に落ち延びたのではなく連行されたか捕まってたとあたしは言ってる
桑折町に逃げて殺され、真野五郎役を演じた桑折の誰かが真野に戻ってきたなら、真野五郎が戻ったというより、殺害したヤツが成りすましして戻った計算
一時的にいなくなってるのは事実だろうから、五郎が戻った時真野長者の農民は入れ替わってる事に気づかない
顕胤と呼ばれた顕家の子孫が、「俺は真野の子!」だと言われて遭遇したら真野長者だと思ってしまうだろう 中身が桑折の工作員で入れ替わっていても
その後に田中城の戦い起きて真野長者の農民は沢山死んでるんだが
②真野五郎を桑折が継いだ!という記述が多数あるが、桑折が真野役をやっていても桑折の守護仏は諏訪明神じゃないだろ

P16
 ー愛宕神社ー 
創建 江戸時代
神社縁起は境内の石碑銘に記されている。田園の土中から金田茂治兵衛が天保年間(1830-44)年のはじめ頃、愛宕さまの神像を発見した
金田茂治兵衛は富山県東礪波郡城端町出身、文政年間(1818-30)年行方郡江垂村に移住 
👈これが福島県警察本部長金田孝俊の出目作った関係場所
金田孝俊も北陸の一向宗移民 県の警察トップ 桜平(真野古城)占拠してた金田

P16
ー真野神社ー
創建 神護景雲年間(767-70)
神殿内部は明治初めの神仏分離によって整理され、真野明神当時の別当の祈願による資料はなくなり、御正体も衣冠式の太刀を佩く(はく)神像になってる。
「奥相志」によると浮田国造(うだのくにのみやつこ)が勧請し、真野長者の守護神であると伝える。一説に大同元年(806)坂上田村麻呂が奥州の賊を征伐する時に建立し、田村麻呂の所持の笛を納めたとも言う。
神宝としては青銅製「片葉葦」がある。棟札は「享保7壬寅吉兆日」ほか5枚ある。

👈真野長者の話を全部桑折が独占してた傾向から、真野長者の話題は桑折のハク付に利用されてた 真野長者を殺してきたのは桑折で、郡が真野を継承したと言ってる、桑折は自分を顕家の子だと言い混合させてる。桑折が顕家の親戚と称し、郡が顕家の子と言ってる雰囲気だ
吉左衛門を殺害 土地を名義替え 郡源左衛門の方が実行者本体
顕家の遺品は親と祖父が死んだ時遺児の吉左衛門が郡の家に遺品持って避難先にしてた為、郡の家でそれを盗んでいる

由五郎=由右エ門も只野の姓を使った郡と只野のどちらかの愛人の子?

郡=宮城県大河原に移動した伊達崎の桑折の改姓した苗字※仲間が石川
天神堂は大河原 昔の大河原小山田城に関わる当時の伊達政宗臣下で秩父も
仲間うちの類・後醍醐天皇が関わっていたと流布される場所もある方面
この土地、城主に関わる情報から大河原氏、小山田氏の情報、後醍醐天皇うんたらに加え、諏訪神党が出てきたから、この先に諏訪神社・桃井が接点出る
※霊山記略にある霊山城を襲い、宇津峯城襲った軍と人の名 石川・桃井
伊達朝宗の派生伊達崎・伊達行朝 
※相馬義胤複数いるうち、多分1人は伊達義広の関係から1文字取ってる
梁川が相馬義胤の1人

桑折=福島県伊達崎の桑折西山城起点の伊達朝宗の派生
図星 梁川が相馬義胤の1人
現在の順位
12781位
福島県伊達市梁川が相馬藩の捏造藩主の1人 相馬義胤は顕家子孫から産まれたと捏造した梁川(伊達)
現在の順位
12837位
梁川氏の派生が福島市立子山の日蓮宗坊主のグループで玉野式部大輔(顕成)の出目を捏造した者
現在の順位
10219位
懸田俊宗の子懸田義宗は梁川義宗 これが相馬義胤と思う
懸田俊宗を斬り殺した伊達晴宗が米沢移って伊達政宗を作り家臣に石川・桑折達を据えた 伊達政宗に嫁に行った愛姫はうちの顕家の子孫の娘で戦勝品扱いで取られた その前に田村清顕が伊達政宗側に暗殺された
伊達晴宗の子伊達政宗は輝宗までハメて二本松で殺した 
懸田俊宗の子懸田義宗が相馬義胤と化し顕家の子を顕胤と加工した側につき、
黒木・桑折達を傘下に使った政宗側についた
懸田義宗は梁川義広の子孫で、真野長者やその子を殺害し真野領を相馬(当時の領主らが相馬を称しただけで、各々の血統は相馬という血ではない)の一部、桑折・郡らと組んで占拠した
ブチギレた顕家の子孫の一部、師清側(浅野長政)が伊達政宗と絶縁した
その浅野長政を使ってたのが豊臣秀吉で、豊臣秀吉は浅野長政が長慶天皇時代の海軍・漁民にまつわる伝手をアテにし重用してた
これの前に織田信長がうちに頼まれたか、誰かの伝手で比叡山を焼き討ちにした その信長を暗殺した滋賀近江。そこの出身・当時の石田も浅野長政に土地を占拠された妬み幕府側が浅野長政に土地を与えてしまってた為)で、浅野長政を敵対視し、伊勢北畠という弱小武家を継いだ信長の息子信雄は、うちと身分をすり替えようと工作・これに協力したのが織田信長の臣下森可成。
森可成が池田恒興自身か、池田恒興の参謀となり、うちの子孫だった池田輝政を洗脳・後に子孫のすり替えを工作した。この池田輝政界隈の不穏な環境に危険感じた池田輝政側が鶴姫を浅野長政方面に預け(逃がした)、自身の環境をうやむやにした。その為配下が池田輝政や家族情報を改ざんしたり、替え玉を用いて池田輝政環境を操作した。(長慶天皇時代にも、同じ事が起きてた)
池田輝政は子が断絶させられた・史実上は子がいて池田家が続いてるように見せかけされてるが、子供を他人が継いで個人の偉業歴史的地位や、遺産、当時の縄張りを他人が継ぐ・乗っ取り これをやられてきている
池田輝政の子は一時的に浅野長政方面に行ってるか・その環境に立ち向かってる そして大勢にハメられてとんでもない目に合わされ殺される
これも史実では隠されて、ちゃんと子が受け継がれているようにされてる、それを他人がかぶってる・自演して継承してるフリをしてる
伊勢北畠を継いだという立場で武家として冴えない信雄が森可成を使って、うちの血統の地位を他人が乗っ取るようあちこちで工作。1つは池田輝政方面、森可成自体が三左衛門を称したのは吉左衛門の兄弟が3人いて三左衛門と言われてた立場を乗っ取りし自分が吉左衛門の子であるように自演する為
※織田信雄が北畠顕信になってる計算

推測の三左衛門 吉左衛門が3人で三左衛門 ※吉左衛門は長慶天皇の子で北畠顕家の子顕成の血統 長慶天皇の父は後村上天皇ではなく北畠顕成
後村上天皇は即位後継者がいなくて北畠顕家の子顕成の息子熙成親王を長慶天皇と認め即位させ、自分の系図に勝手に組み込んだ

長慶天皇時代に九州征伐?統治?これを莫大な金で船を使っている
のちに、後亀山天皇とし即位した貞成親王は熙成親王=長慶天皇の子で伊勢北畠に繋がる血統ではない

熙成親王の「熙」の字は『かがやく・ひかる』+顕成の「成」
この名は顕成がつけた

後村上天皇の親王時代の名が義良 つまり長慶天皇が後村上天皇の子ならば、「義」か「良」を名前にもってくるはずだ 

熙成親王とは北畠顕家の息子顕成の子 北畠顕家の孫にあたる
後亀山天皇時代は即位期間が短く、神器を後小松天皇へ渡したとされてるが、
この後亀山天皇の親王時代の名が貞成 貞成親王が後亀山天皇
つまり、貞成親王の貞を、当時亡くなってる新田義貞の貞 これに
顕成・熙成の成を1文字足すと 貞成親王になる
貞成親王は熙成親王の兄弟ではなく息子だ 
時系列を参考で数度出しているでしょ

霊山記略P107-140
ちなみに村上方面 義良親王・尊良親王・護良親王・邦良親王(後醍醐天皇の皇子)・成良親王・恒良親王・懐良親王・宗良親王・陸良親王(護良の息子)
守永親王(宇津峯宮)・興良親王

ちなみに伏見方面 量仁親王(光厳天皇)・豊仁親王・

ー三左衛門ー
1人目 うち 多田野吉左衛門 一時青森浪岡に行ってた事があり、浪岡に吉左衛門の名が残ったと推測 浪岡吉左衛門の後裔が名前違うのはうちが青森から離れて鹿島の戻っているから
多田野吉左衛門=浪岡吉左衛門
2人目 池田輝政
3人目 浅野長政

①多田野吉左衛門は郡山に一時いた新田顕成(田村清顕と当時親類)で顕成の子孫 貞成親王の名つける時に新田義貞を意識してるように思う・郡山のはずれに新田顕成の名が残ってるのは多田野吉左衛門の前の名
※この時長慶天皇・後亀山天皇の時代から相当経過してるから臣籍降下みたいな状態で名門までいかない武家として存在 
田村清顕は坂上田村麻呂の子孫ではない 田村姓の連中は坂上田村麻呂の子孫だと騒いでる この当時坂上田村麻呂の子孫というなら、顕家の子孫は田村側に殺害される 逆に近代の田村は坂上田村麻呂の子孫を演じ泥棒側にまわってる だから田村清顕は殺されてるんだ その連中に不都合で
逆に坂上田村麻呂の子孫演じてる連中は田村清顕に背乗りし続けている他人
桓武天皇の東北征伐が正しいという史実を作るために田村清顕は殺された
殺した側に田村がいたら、これは桓武天皇史を正当化する坂上田村麻呂の派閥
で、これを三春役場方面では利用してる 鹿島町にいた田村町長とは一向宗の田村自演組で三春方面の役場と結託者

②浪岡吉左衛門は相馬顕胤とでっち上げされた顕成の子孫は多田野吉左衛門の兄弟か
鹿島に来て真野長者支援をしてたら真野長者役を桑折久家がしていて
この桑折は北海老にいたヤツ。真野長者の農夫が田中城襲撃事件の際に
農民が大量に死んで、桑折久家・桑折直家らが農夫を移民させ始まったのはこの事件以降。この事件の時、顕成の子孫仮名で親成としよう。山形へ行き、青森へ行って、山形へ戻って、兵隊連れて上真野に入山し、山形と往来をした
この山形行った時、行った先は顕信の子が行った方面で青森に行ってるよと言われて青森の浪岡まで訪ねて行ってるだけかもしれない。浪岡吉左衛門の名が残ってるから、この時吉左衛門の名を青森で使用してると思われるため、郡山にいた多田野吉左衛門とはその当時連絡を取り合っている。
青森に行ってどのくらいいたかわからないが青森から鹿島へ戻ってるのは、この人。昔も書いたとおり、霊山に置いてた仏が鹿島にあるから戻らないといけなかった。結局、鹿島に戻ったのが多田野吉左衛門の方なのかもしれない。
そして浪岡吉左衛門のほうが南部と組んで色々とやっていたかもしれない。
①と②のその後
浪岡吉左衛門のほうが上真野に山形勢を連れてきた※数名か10人未満か
上真野にある月山由来の仏は浪岡吉左衛門のほうが山形勢と持ってきて住み着いた※一向宗移民から全部ここの連中が乗っ取りしてる
ここの連中の修験者を称する連中はその当時の人の物を継承した自演してる一向宗 横山宗延の家は大谷家と称する佐藤越中の派生で、領主からそこのエリアの一部をもらったと言ってる、この領主とはうちの事であり、これがわかっていながらうちの仏を自分達の氏神と言ってる件について、山形の修験者達がこの連中に殺されて古文奪われたりしてるとあたしは思っている
うちは古い家だと称する警察幹部が、上真野にいた浪岡吉左衛門が山形修験者を連れてきてる事を知らない訳がない!山形から連れてきた修験者はマタギの前身にあたるんだ。安倉観音堂の主渡部成美は修験者を自称してるが、この名は一向宗の名で会津臭いが山形からの修験者を殺してる側
御山を葉山と言ってるのは、山形から浪岡吉左衛門が連れてきた修験者達が月山にいた人達で、第二の羽山に見立てこの名を付けたと、あたしは思ってる
それすら鹿島の警察幹部大谷の家や、修験者渡部成美は知らない
青森浪岡が、山王大権現について無知だったのも青森浪岡はまったく他人が
名だけ継承したフリの末裔なだけだからだ
山形に行った時に月山ダムまで行かない手前の、昔の神社境内に菊紋入った墓石みたいなものあった あれはうちの関係
こういう全部を、相馬秀胤が北畠顕家の子を自演して、乗っ取っている
天童丸は顕家の子だと嘘をついて。相馬秀胤のバックは安倍で安倍は尊良親王達を自演する村上側 だから山寺に松尾芭蕉と曽良の像がある。
諏訪務朝鮮総督府の幹部が山形に入りこんでたのは安倍(義良・護良側)の
傘下で山形工作する為。諏訪神社とは諏訪神党の連中。
曾良とは尊良親王の子孫だ たぶん。相馬藩は村上と伏見の2本立てを持ち上げて全ての干渉材に顕家の血統吉左衛門を使っている。 
〇そもそも顕家が朝廷エリートなのに修験者が付いてこない訳がない
これに対抗するのに安倍方面が陰陽師を売名し自分達が封じる役者を輩出してくる 山形に諏訪務が入り込んでるのは47都道府県の中で重要な隠し事をする地点だと思われてたからだ 諏訪務は偽名だろうが、諏訪の名使ってるだけでなく、これは諏訪神党で朝鮮勢が実権占拠する組織で朝鮮総督府の一部。
これが鹿島の御山で、伊勢と諏訪と出雲がおさえてるとしたら、浜名と横山はこの大日本帝国の内務省本体となる。

P17-18
 ー日吉神社ー 
創建 康永3年(1344)
改築 明治15年(1882)
神職 西綾成
明治34年(1901)郷社となる
👈すべて犯罪者一向宗のすり替え 
12年ごとの申年にお浜下り大祭がある、昭和53年(1978)福島県無形文化財の指定
宮方四尺、拝殿2間半に2間。3体あり、秘仏にして別当といえども之を拝視する事は能はず。
当社山王権現は往古霊山の鎮守なり。康永元年壬午3月上旬国司北畠顕信敗軍
霊山城陥る。この時に当たり、桑折五郎元家山王・熊野両神を勧請し、主従7人、その他6人凡そ十三人之に従属し武人の体を変じ七福神に准じ、宝財獅子踊と名付け皆姿を変ずと云々(以下省略)

①西綾成の名は顕成の名をパクって成を使用してた場合成りすまし顕成となる
ここ日吉神社は平成初期 森鎮雄が宮司だ 
森鎮雄でなく西徹雄が住み着いてた
西徹雄側と森鎮雄側は結託者だった 森鎮雄の家はこの敷地ではない
②創建が1344年になってるが、これは顕家時代であり、当時顕家軍として真野長者がいた事を証明してるよね?ここはその時日吉神社ではないわ💢
日吉神社としての創建で書くべきであり、顕家臣下の真野長者居住城の時代をここに日吉神社の創建として記載するなら、真野長者が1344年いた場所が書かれるべき真実 顕家が産まれたのは1318年 顕家が死んだのは1338年で顕家は満20歳(享年で21歳) その1338年に顕成は誕生し、6年後に日吉神社創建と決めた人達は1344年石塔・相馬親胤・伊賀盛光らが宇津峯を囲んで襲撃してる時期に決めているようだ
自分は1340年に顕成(2歳1ケ月)が宇津峯に入っていると見込んでおり、1344年に日吉神社創建とした人達は1344年真野長者を殺害しそこに日吉神社を建てた記念日にしたのか❓何かきっかけがあるはず
③12年ごとの🐵申年にお浜下りというのは日吉神社側がうちを不幸にし、乗っ取りして作った「嘘と真実を混ぜた」畜生イベント
これをでっち上げるのに桑折と郡が日吉神社へ協力したような感じ
その見返りだろうか 相馬市に住んでる郡と桑折の敷地に日吉神社があるみたいだ


➃「桑折五郎元家山王・熊野両神を勧請」とあるように、山王大権現と熊野権現はセットでうちの物で霊山城を護るのに当時霊山に置いてた顕家の私物
国のものでも天台宗のものでもない この連中はそれをわかってるから、顕家の上司は後村上だとか 顕家の子孫の一族は桑折だとか捏造やってたんだと思う
山王神道という名称はそこの連中になかった※日吉(日枝)神社のページを過去ブログに貼ってる
もともと日枝ヒエ(比叡ヒエイ神社)の名を使ってた滋賀県
これが日吉になった理由は比叡(ヒエ)日枝(ヒエ)の頭文字と、吉田神道の吉を組み合わせて日吉(ヒヨシ)にしてると思う
日吉神社はもともとうちが作ったものではなく、江戸時代に滋賀集団がうちの何かをパクって装飾した人間たちが宗派に用いたと思われる
そもそも天台宗と真言宗がなぜ密教と言われてたか、うちが昔独自にやってた修験者と作ったものを隠してたからだ たぶん
その云われをすべてパクった滋賀天台宗と 馬キチガイに汚染された山形真言宗が後世の天皇家朝鮮部隊の直参

➄何人も見てはならない これはそもそも「うち」側の当時の云われだ💢
当時盗まれないようにヒ素を塗ってたと記録ある!!!
そしてしばらく真野に隠してたような記述もある! 隠してたんだ、うちで。
桑折らがたらい回しにする前 うちは隠してた
こんな事されないように💢
だからこそ、上真野にはそれの護衛番で月山方面から修験者が複数来てたんだ💢山形のそれらを殺されてすり替えされてるのが現実

相馬貞胤って名が延宝5年(1677)に21歳で死んだと、森鎮雄の本P53にある
これが貞成の子孫で名前に貞って使ってた場合 相馬の連中が相馬〇胤に
名を変え藩主側にカウントしてる可能性ある 出羽守ってされてる

P20 
ー熊野神社ー 熊野様 熊野権現
創建 不詳
熊野本宮大社の分霊
👈桑折のバックに熊野本宮和歌山の田辺も加担 田辺製薬の田辺
SS製薬(幾世橋)に続き田辺製薬(和歌山田辺)
奥相志によれば、創建は日吉神社と同じく霊山在城の南朝軍の一族桑折五郎元家の守護神として祀られていたが、康永3年(1344)霊山城落城ののち、日吉神社とともに移されたと言われている。日吉神社は中館に、熊野神社は柚原の地に祀られたとの由緒になっている。現在は江垂柚原組の管理である。
鰐口年号「宝暦13年(1763)癸羊11月吉日」とある
〇相馬略史 森鎮雄の宝暦時代
寛保年間(1741-1744)宇多郡中村の町の立谷勘吉は財を投じ中丸の堤を築いたので勘吉の霊璽を観音堂におさめ拜した←立谷相馬市長の出目?
行方郡行津村(小高村)の末永半兵衛の父は下浦(小高)の人であるが、飢饉あり末永は人々に分け与えたので領主が城下の士に準ぜしめ田170石を与え半兵衛は一郷の富豪となった←末永相馬市長助役の出目?
※北陸一向宗流入は1800年から 
①桑折五郎元家は伊達朝宗庶子でそもそも、江垂熊野前に霊山戦前に仏を置くような一族ではなかったが、よく読めばこの文書自体がおかしい。創建について書くべきところで桑折関係ないんだが、地図見て確認した。江垂熊野前は2軒しかない、柚原と遠藤。個人で持ってたとでも言うのか?

P63
ー橲原山神社ー 
※たぶん山神教はうちで、顕信側が後からパクった
だから鹿島が先で山寺が後 山寺が北畠顕信関係先で護良親王関係の出先 
山寺と月山は同じ山形でも離れている。鹿島が先でも、そこにいたのは昔月山にいた修験者で、このメンバーは木曾義仲の関係者。木曾義仲源氏の仲間うちは安徳天皇側につき、人を集め月山と宮城・山形間も密偵が多くいた。
木曾義仲が居た木曽にも朝日村があり、月山ダムの所も朝日村で、移住先も同じ名前にしていて、そのメンバーの一部が善光寺から出てた為、相馬を行き来したメンバーが新地と相馬の境に善光寺の地名をつけた、あるいは後世善光寺の名にした人がいる※朝鮮総連で木曾義仲が当時、当家側についてかなりの人を操作してたのを知ってる、後に木曾義仲の地位を奪って多田満仲?にすり替えた
浪岡吉左衛門を称した仮名親成は顕成の兄弟と見込み、浪岡吉左衛門は鹿島の田中城の戦で農民殺され追い出された顕胤と呼ばれてた存在山形の木曾義仲外野へ支援を求め、青森に移住した当時の顕家の家臣関係へも支援を求めに行ったのかもしれない※当時、霊山に暮らしてた農民が青森と山形へ移住してたせい
そのへんを歩くと大きな「山神」の石あるだろう あれもともと、この橲原山神にいたうちの関係者が作らせた石だ
「湯殿山」という石は、神と彫ってないだろう?これもこの橲原山神を根拠に
した当時の湯殿山メンバーという意味だ たぶん
暇な人はどこに設置されてるかリスト・図面を作ってみるといい
〇山神というのは神の名・人物 これに対し湯殿山とは地名・山の名を指す
これはもともと1つで、片方は山神という名称・片方が湯殿山という地名称
うちでやってたヤツはこの時期、この人達は天台宗と真言宗を混ぜた独自の説法布教をしてた※いわばそこに帰依してた訳じゃないから




〇浪岡吉左衛門=仮)親成が山形で行った時、行った先は大江でも村上でもなく、月山の朝日村の木曽義仲のメンバーがいた場所 鹿島の上真野に持ち込んだ仏はこの木曽義仲朝日村の関係、木曽義仲は長野の木曽方部から山形に移動している。その木曾義仲の末裔、近親者が浪岡吉左衛門の護衛隠密と化し、相馬藩に入った時期、駒ケ嶺と相馬の境に善光寺の名を残した(旧国道6号と国道113号のクロスした交差点エリア) 木曾義仲と多田満仲を合わせたい連中がいるが別 木曾義仲は源平合戦の時源頼朝と朝廷にハメられた源氏。源平合戦で勝ったと言ってたのは源頼朝+北条の鎌倉幕府側と桓武平氏。対する敗者扱いされたのは木曾義仲源氏らと、平家の旧公家の子。旧平家の公家の子の遺物を宮城県大倉ダムまで持ってきて隠してた場所は山形から行き来した月山隠密の通過点。これが最初から馬頭観音崇拝だった訳でないのが、後に嗅ぎつけられ馬頭観音まみれにされた。※ある時期からの善光寺は派閥が入れ替わって、これは月山もそう。大倉ダムのとこもそう。
〇丸森町筆甫から梁川に抜ける古道を舗装した道沿い 早稲田というエリアがある。あのエリアに馬頭観音が多い。鹿島町の安養寺は馬頭観音をかき集めたように置いている。宮城の大倉ダム沿いに馬頭観音が多い。福島市の中野不動尊にも多々ある。バトゥの発音から当て字で馬頭にしたのか、馬頭の漢字からバトゥの名をジョチウルスの子が名のったか定かではないがバトゥ1200年代でこの時期は鎌倉政権と後鳥羽上皇。鎌倉を警視庁・後鳥羽上皇=伊勢と見た場合に戦後はこの体制がこの国になってる。


秩父宮作ったのが郡(大河原・角田に流れた桑折)※この先に大山倍達
        それの延長にアイリスオーヤマ 仙台のビル大河原の工場
        郡の先に李氏朝鮮の高宗と大韓赤十字(日本赤十字)
        これが清の愛新覚羅の中華を貴族に持ち上げた
高松宮作ったのが只野一郎と只野裕一の家 只野裕一の父が只野栄一
只野(由)五郎   (由)読み:ゆう・よし
只野(裕)一      (裕)読み:ゆう・ひろ
一向宗は武家の名を使った穢多非人
伏見・有栖川ら名前に「仁」が入ってた連中が光明を光明天皇(豊仁)に見立て
相馬高校のOB(多分代表が只野商事)で陣営組んでるような気がするんで、そのうち光明の戸籍も出すが こいつらが国をやってる側として盗撮盗聴やってる人殺し陣営 鹿島で吉顕死んだ時のかかった費用を払わないで逃げてる吉顕親族も出してやってもいい 費用ないなら頼まなきゃ良かったんだ
その墓に入ってるのは光と黒木で戸籍上は光明の親だから、うちは関わる物ではない 光明が自分へ金を積んだ親の墓をどのようにしてるか、写真も出してやる 崩壊してるから これが赤の他人吉顕と光明のやってた事だ

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