アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

ウィキの大間違いを指摘しますが直す気ありますか?? ウィキよりうちの書物の信憑性ありますけど。

2015-08-13 23:56:37 | 自然と天災


このウィキはねつ造するために書いてるヤツもいるんだよな

沿革[編集]
明治4年(1871年)11月2日 - 第1次府県統合により、中村県・磐城平県・湯長谷県・泉県・三春県・棚倉県が合併され、平県が設置された。県庁は磐前郡磐城平に設置されたが、この時に磐城平は略称の一つである「平」に改名された。
明治4年11月29日(新暦1872年1月9日) - 磐前県に改名された。
明治9年(1876年)4月22日 - 刈田郡・伊具郡・亘理郡および宇多郡のうち9か村(現:新地町域)が、宮城県から磐前県に入れ替えられた。
明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により、磐前県は廃止された。刈田・伊具・亘理の三郡は宮城県に復帰した。残りは福島県(中通り)や若松県(会津地方)と合併され、現在の福島県に入れられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%89%8D%E7%9C%8C






明治丗九年五月廿四日 (明治39年5月24日) 磐城国鹿島町という住所が用いられてることから明治39年には磐城国と使用されていた。

丗 [訓] よ さんじゅう

廿 [訓] にじゅう









間違い指摘します↓明治9年では行方郡鹿島村で使用されています。

近現代[編集]

明治政府が誕生すると、日本は中央集権体制の下に組み込まれたが、東北地方支配の政治的拠点とされた仙台市を中心に発展が始まった。

仙台藩を前身とする仙台県は廃藩置県後も存続し、旧領である登米県、角田県の編入、宮城県への改称、磐前県(現福島県浜通り)、磐井県(現岩手県南部)との管轄区域の変更を経て、現在の県域が確定した。






天保時代で 鹿島村 つまり行方郡鹿島村↓ 天保

デジタル大辞泉 - 天保の用語解説 - 江戸後期、仁孝天皇の時の年号。1830年12月10 日~1844年12月2日。





嘉永時代でも 鹿島村 つまり行方郡鹿島村 ↓ 嘉永

デジタル大辞泉 - 嘉永の用語解説 - 江戸末期、孝明天皇の時の年号。1848年2月28日 ~1854年11月27日。







古代[編集]

現在の宮城県の地には、古墳時代からヤマト王権の影響力が及んでおり、“東北地方最大級(第3位)”の遠見塚古墳(仙台市)、“東北地方最大”の雷神山古墳(名取市)などの前方後円墳が造られていた。古墳時代後期には、厚葬禁止の令に従い、横穴式古墳も多く造られた。

大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。孝徳朝(645年 - 654年)の後半に第2次使者が派遣されて国造制が評制へ転換され、評の上に国が設けられ、国司の前身である国宰が派遣された。この時期に道奥国(みちのおくくに)が設けられた。その領域は、国造制が施行されていた宮城県南端と福島県で、最初に置かれた評は曰理(わたり)・伊具(いぐ)・宇多(うだ)・行方(なめかた)・標葉(しめは)・信夫(しのぶ)・安積(あさか)・岩背(盤;いわせ)・白河・会津の10評。菊多(きくた)・安達(あだち)・耶麻(やま)郡は後に分置された郡で、石城(磐城)評ははじめ常陸国の管轄であった。この10評のうち行方・会津評を除く8評が国造のクニであって、行方評は分割・新置された評。曰理・伊具評が宮城県南端、宇多評以下が福島県域である。道奥国の表記は、後に陸奥国(みちのおくくに)と改められた[13]。

最初の陸奥国府と推定される官衙(郡山遺跡)は、現在の仙台市太白区郡山(旧名取郡)に設置された。724年には、多賀城(旧宮城郡)が設置され、現在の宮城県中南部は奥六郡(日高見国)と対峙する軍事・政治の拠点化が進んだ。又、陸奥国分寺・国分尼寺が、現在の仙台市若林区木下周辺(旧宮城郡)に設置された。後に多賀城は、現在の仙台市宮城野区岩切(旧宮城郡)に移転したと考えられている(遺構は発見されていない)。

奈良時代末期から平安時代初期、仙台平野北部・三陸沿岸の蝦夷がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し、三十八年戦争が勃発した。伊治(コレハル、栗原?)を拠点とするアザマロは当初大和朝廷側に帰属し多賀城に出仕していたが、蝦夷への差別に怒って反乱を起こし多賀城を滅ぼした。これをきっかけに胆沢[要曖昧さ回避]のアテルイ・モレによる抵抗戦争が起こった。11世紀半ば北上平野の俘囚の奥州安倍氏が仙台平野に影響力を拡大し、多賀城の国司と対立した。安倍氏討伐の命を受けた源頼義が下向しても仙台平野の郡司らは中立を守り、苦戦した朝廷軍は仙北の俘囚主清原氏の参戦でようやく安倍氏を滅ぼすことができた。その後12世紀、奥州藤原氏の時代になると、奥州の軍事警察権が平泉に遷り、仙台平野は中央勢力の荘園と在地勢力の自治が混在するようになった。奥州藤原氏の行政権の程度については諸説がある。

中世[編集]

鎌倉時代には、奥州藤原氏追討の恩賞により、葛西氏などの関東地方の有力氏族や武士たちが守護・地頭として現在の宮城県域に多く入植した。それら有力氏族の中で、源頼朝の側近・伊澤家景が多賀城の“留守所長官”として陸奥留守職に任ぜられ、東北地方の統治を任された。

伊澤景家は現在の宮城県利府町に居城を築き、生涯を利府で過ごした。伊澤家景の子の代から伊澤氏は留守氏と呼ばれるようになり、家景の子孫たちも代々、陸奥留守職に任ぜられた。

室町時代に入ると、南北朝の争いが起こったが、足利一族の斯波氏が奥州探題を称して多賀城に入ると、争いは次第に沈静化していった。

斯波氏の傍流である大崎氏(宮城県古川市)が奥州管領職に着くと、大崎氏が東北地方(奥羽両国)の盟主となった。1392年に奥羽両国が鎌倉府直轄支配下に置かれ、大崎氏の奥州管領権は大きく制約を受けた。1400年に大崎氏が奥州探題となると、再び大崎氏は東北地方の盟主の座に上り、以後、戦国時代に到るまで、東北地方は室町幕府→奥州探題・大崎氏を中心とした支配体制となる。

戦国時代から江戸時代まで[編集]

戦国時代になると、南東北の奥羽山脈西側に連なる盆地群に拠点を置く武将たちの勢力が強くなり、大崎氏の権勢は衰退し、最終的に福島盆地(伊達郡・信夫郡)と米沢盆地(置賜郡)を本拠地とする伊達氏の軍門に下った。

安土桃山時代に戦国大名・伊達政宗は常陸国の戦国大名・佐竹義重や会津地方の戦国大名・蘆名氏らに勝利し、東北地方(奥羽)の南半分を征服して奥羽の覇者となった。しかし、政宗は豊臣秀吉に服属し、秀吉の奥州仕置によって、征服した会津地方や先祖ゆかりの伊達郡などを奪い取られた。この処分に不満を抱いた政宗は、秀吉の奥州仕置によって取り潰された葛西氏・大崎氏の旧臣を扇動して、「葛西大崎一揆」を起こさせるが、この一揆扇動は蒲生氏郷に露見し、政宗は秀吉から一揆の鎮圧を命じられる。政宗は佐沼城から秀吉の家臣・木村吉清を救出し、「葛西大崎一揆」を鎮圧した。戦後、秀吉は政宗の領地を、それまでの山形県南部・福島県・宮城県南部から宮城県・岩手県南部へと北へ追いやった。政宗は旧・岩出山(現・大崎市)に居城の岩出山城を築き、新しい領地の統治に当たった。この頃から政宗は徳川家康に接近し、秀吉が死ぬと徳川家康の政権奪取に協力する。1600年の関ヶ原の戦いでは、政宗は東軍の重鎮として家康の勝利に貢献した。

伊達政宗は、豊臣氏や徳川氏との緊張関係を考慮して、天然の地形が防御に適した青葉山に居城として仙台城を構えた。1600年に城の縄張りを始め、「千代(せんだい)」を「仙臺(仙台)」に改めて、城下町の建設も開始した。冬季の乾燥や季節風対策として、防火林や防風林、防雪林の植樹を城下町に奨励した。又、四ツ谷用水の開削もあって、仙台は多くの居住者を涵養できるようになり、62万石の仙台藩の藩経済を背景に、仙台城下は奥州一の都会となった。江戸中期には実石高は100万石を超え、港町である石巻は江戸(東京都区部)との交易で栄えた。家老の片倉氏は代々白石城(現宮城県白石市)を居城とし、家臣や一族を一国一城令にもかかわらず「要害」と言う特有の制度化で藩内を治めさせた。要害としては涌谷城、岩出山城、金山城、岩沼城、角田城、丸森城、寺池城、佐沼城、宮沢城、高清水城、不動堂城、川崎城、平沢城、船岡城、亘理城、坂本城、岩ケ崎城、滝野館、石森城、米谷城、武田館、宮崎館、宮崎城、千石城、大窪城、吉岡城、宮床館、村田城などがあった。

伊達氏は源頼朝の奥州合戦で功を立てて伊達郡に封じられた関東武士の末裔で、鎌倉時代から陸奥国伊達郡(現在の福島県伊達市と福島県伊達郡、福島市の一部)を中心に勢力を拡大した。戦国時代 - 安土桃山時代に本拠地を伊達郡から置賜郡(米沢)、岩出山、仙台と家臣団や寺社、職人集団を引き連れて移動したため、現在仙台に残る寺社や旧家、職人の家系には、伊達郡をルーツとする系図あるいは伝承の残る家柄が少なくない。

伊達氏は代々「陸奥守」を称し、初代仙台藩祖・伊達政宗以来、東北の雄藩であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C



そして過去帳 放火で焼かれたのがコレ↓ 



小池観音堂 相双ビューロー SOSO BUREAU - 相双地域の総合的な地域 ...


yumesoso.jp > トップページ > 観る - キャッシュ

貞治(1362~1368)年間と、
寛文八(1668)年の二度火災に遭うもその都度観音の 威徳を顕し難を逃れたとの霊験譚も。 奥相三十三観音、第三十一番札所。
御朱印受所: 真言宗久保山安養寺。 ... 住所(所在地):, 福島県南相馬市鹿島区小池ミタラセ74.


貞治 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/貞治 - キャッシュ
貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後 、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光 厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。
改元-出典-貞治期におきた出来事-死去


寛文(カンブン)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/寛文-471394 - キャッシュ
デジタル大辞泉 - 寛文の用語解説 - 江戸初期、後西(ごさい)天皇・霊元天皇の時の年号 。1661年4月25日~1673年9月21日。
辞書別に見る:日本の元号がわかる事典-大辞林 第三版

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納骨

2015-08-13 23:29:28 | 日記

納骨

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