アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

美濃国の城 過去 焼失したのはどこだ??

2015-07-29 23:56:36 | 日記





過去 城を焼かれてるとこ どこかと思い探そうと思ったけど

美濃は城が多くてちょっとわからない。あと、どの程度の築城してたかもわからんし。明治頃だったら資料ももっと残ってたと思うし。

なんつっても、うちの過去帳あずけてた寺さえ放火で焼かれてるんだしな。

そのものに、いろいろ書かれてたはずなのに。




なんて事するんだ 相馬藩は!




金を100億近くはうちから借りてるくせにトンズラこいて、あげくコレだぜ??

うちの家系がどんだけ嫌がらせを長いことされてきたかわかるたんび、教育者たちをすべて抹殺したいと思う毎日毎日。




来月墓参りなのに。




http://www.hb.pei.jp/shiro/mino/

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青野原の戦い

2015-07-29 23:41:18 | 日記
青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)1月20日から1月29日にかけて、美濃国青野原(現、岐阜県大垣市)を含む地域において、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、土岐頼遠ら北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。
1337年(延元2年/建武4年)8月、鎮守府将軍北畠顕家は、吉野の後醍醐天皇の足利尊氏追討の呼びかけに応じ、義良親王(後に後村上天皇)を奉じ、腹心結城宗広や伊達行朝ら奥州勢を率い、霊山(福島県相馬市および伊達市)を出発した。2度目の上洛戦である。




※これ誰書いてんの??なんで相馬市と伊達市って書ける??
はっきり言ったらその周辺というのが正解であって、これはのちに誤解を生む書き方かもしれないよ??ちなみに相馬一族は北朝勢だから相馬一族=北朝 南朝ではない。南朝と自称してる立谷秀清でさえ北朝の金詐欺って放火してきた相馬一族を大将と位置付ける南朝との戦いに勝ったという誇示する野馬追を観光行事にしてあちこち馬だらけにしてる市長だからな。前の市長の今野繁の時はここまで馬だらけじゃなかったのに。
それが自称南朝の立谷市長の、南朝に対する不貞だから。
野馬追は、相馬一族が北畠軍から土地や城を奪ったと、勝利したーと世間にアピールするための行事であって、まったく神事ではない。その根拠にえんえんと、うちから金を借りておきながらトンズラした相馬一族を大将に迎え入れた行事内容となっている。それを神事扱いしてんのが、相馬一族から宮司になってる小高神社の相馬宮司と、相馬神社・中村神社の田代宮司の仕切りだから。
それを何十年も武士道語って移民たちに武士の階級を与え、南朝に勝ったと誇示したい自称神事を、うちの先祖の墓の前で通りすぎて毎年やってきたんだ、このあたりの土地の人間は。





北畠勢は利根川の戦いで足利勢を破り、新田徳寿丸(後に新田義興)など南朝方の関東諸侯を吸収しつつ、12月足利義詮が守る鎌倉を攻略。足利勢は、斯波家長が戦死したものの(杉本城の戦い)、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは房総方面に脱出した。この前後、北条時行が南朝に降伏し、北畠勢に合流している。
翌1338年(延元3年/暦応元年)1月2日、北畠勢は鎌倉を出発し、足利勢と戦いながら東海道を西上する。途中宗良親王と合流し、1月20日には美濃国に到達した。京都の足利尊氏は、当時北陸で勢力を回復していた新田義貞への対処に苦慮しており、北畠勢の速い西上に対応が取れなかった。
鎌倉を脱出していた上杉憲顕ら足利勢は、北畠勢西上後に鎌倉を奪回し、さらに北畠勢を挟み撃ちにすべく西進を開始した。遠江国で今川範国、三河国で吉良満義・高師兼、美濃国で高師冬・土岐頼遠らの諸侯と合流し、約8万の軍勢になったと言われる。
美濃国の守護である土岐頼遠は、美濃国での決戦を主張した。北畠勢も、京都へ攻め入る前に、まず背後の足利勢と戦うことに決した。
足利方は、くじ引きで陣立ての順番を決め、墨俣川(現長良川)など美濃の各地で順次北畠勢に攻撃をかけたと言われる。最終的に、1月28日から29日にかけて、北畠勢は青野原で足利勢に対し決定的な勝利を収めた。土岐頼遠は一時的に行方不明になった(後に帰還)。
青野原の敗報に接し、京都の足利尊氏は高師泰・佐々木道誉(京極道誉)・佐々木氏頼(六角氏頼)・細川頼春ら約5万の軍勢を差し向けた。援軍は、近江国・美濃国の国境である黒地川(黒血川)に布陣し、背水の陣を構えたと言われる。
北畠勢は青野原の戦いに勝利したものの、長期の行軍と度重なる戦闘に疲弊したため、新手の足利勢と戦う力はなく、近江から京都への突破をあきらめた。北陸の新田義貞と合流する選択肢もあったが、北畠勢は伊勢国・伊賀国を経て吉野へ向かった。伊勢方面に転進した理由としては、北畠氏が根拠地化しつつあった伊勢で力を立て直すためとも、新田義貞に功を立てさせるのをきらったためとも言われる。





※あと、伊勢に行ったのは顕家の父親親房公だけども、たぶん騙された。あたしは何度かそう書いてる。
伊勢と付く場所に、どうしようもない不愉快感と怒りが出てくる。それは血で。
それから、現在の伊勢は昭和天皇ヒロヒト朝鮮人の娘が入っている。それから、昭和天皇ヒロヒト朝鮮人は第二次世界大戦の前に開戦すると伊勢参拝をしている。こうなれば、確実にうちの血統ではないのが明確で、かつ伊勢は昭和天皇ヒロヒトの娘、出雲は高円宮の娘が入っている。その二か所は完璧な北朝に乗っ取られた場所。あと伊勢には六芒星があるらしいから、オカルト好きなヤツしか行かないだろ。あと、伊勢や出雲の行事については、あの連中が台本書いて行った単なる儀式であって、国としてはまったく関係がない。伊勢と出雲の共通点は日の丸、つまりアマテラスをまつっているとしている所で、実際に一番日の丸を恨んでいるのはこの天皇家たちである。
そして、日の丸は太陽神信仰という形を見えるようにしたもの。あの連中の神話は、大昔の旧約聖書や新約聖書をパクって作ったもの。
天智天皇=中大兄皇子 百済亡命民たちが過去のヤマトの過去帳を火事で焼失したと言って書き直した人間たち。 宮司たちであることも調べてわかっている。




足利方は窮地を脱し、体勢を立て直して高師直率いる軍勢を大和国に差し向けた。北畠顕家は、大和国般若坂で足利勢に敗れ、その後摂津国方面に転戦し京都奪回を狙ったものの、和泉国石津にて5月22日に戦死した(石津の戦い)。
土岐頼遠は、戦いに破れはしたものの、北畠勢の上洛を食い止めたことでさらに名声を高めた。
南朝勢、北畠勢
義良親王(後に後村上天皇)、宗良親王、北畠顕家、北畠顕信、新田徳寿丸(後に新田義興)、北条時行、結城宗広、伊達行朝、南部師行、宇都宮公綱
北朝勢、足利勢
土岐頼遠、高師冬、高師兼、上杉憲顕、上杉憲藤、桃井直常、今川範国、吉良満義、小笠原貞宗、三浦高継
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【皇室】皇后さま、心筋虚血の疑い=来月にも冠動脈CT検査―宮内庁

2015-07-29 23:07:49 | 皇室問題

【皇室】皇后さま、心筋虚血の疑い=来月にも冠動脈CT検査―宮内庁©2ch.net

1 :シャチ ★ 転載ダメ©2ch.net:2015/07/29(水) 16:43:03.89 ID:???*時事通信 7月29日(水)16時35分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150729-00000104-jij-soci
 宮内庁は29日、皇后さまに心筋虚血の疑いがあるため、
8月9日に東大病院で冠動脈のコンピューター断層撮影(CT)検査を受けられると発表した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お浜下りはうちの家系の事実だから。それに借金してトンズラしたり放火したのが相馬藩だから。

2015-07-29 20:49:32 | 日記
お浜下りはうちの家系の事実だから。それに借金してトンズラしたり放火したのが相馬藩だから。



日吉神社で勝手にお浜下りとか宮司が関与してるけど そもそもうちの先祖が宮司やってたんですから 山王宮として。

それからお浜下りの北畠顕家の子供はうちの先祖です。

うちがその血統です。赤の他人に神事語って売名されて、家系を利用されるというこの怒りがアンタ達にわかります??

北畠の子供はうちに入ったんです。

それを北朝のインチキ天皇サイドと天台宗や日吉神社はとことん利用するためにうちにたくさんの不幸を押し付けたんですよ。

相馬藩の相馬一族は国賊で、その配下はそれに便乗してただけ。

あと、うちにある仏像が後村上天皇の守護に比叡山から持ってきた藤原製作の阿弥陀ですから。


相馬一族に放火されたり、金を貸して返してもらえなかったりして先祖たちは悔しい思いを蔵にしまって、うちの親戚もめいめいにその事実から逃げ、

金目になるものだけをうちから出して売りはらい金にして先祖たちを裏切り続けた親族がいて、よけいにかわいそうな事になってたのを

あたしがフタ開けたんですから。


















見ろ 大正に建てたと書かれてるこの石蔵は作った当時から笹竜胆がきちんと入ってるから。




これを鹿島町役場でぶっ壊したんだ。




国宝レベルの石蔵だったのに。




もちろん そこに付いてたダイヤル式のカギも特注レベル。






何回かロック外さないと開けられないカギだから。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お浜下りが日吉神社?? それうちの先祖ですからアンタ達の金稼ぎに利用しないで。

2015-07-29 16:32:26 | 日記
これ神事でもなんでもないよ。うちだからそれ。なんで日吉神社のおまつり語ってうちの家系利用すんだアンタ達は!

金も返さないで!

だったらうちに借りた金を返せ。あと日吉神社をかませるな。なんなの このNPOは認めますって。

オタクらのやってきたは、うちの家系をとことん金稼ぎに利用し、金を借りてやり逃げし、自分たちの都合のいいように

おまつりにして集客に利用するという寄生虫のような行為だ。




被災芸能継承に専門家 支援NPO、サポーター育成へ

福島民友新聞 7月27日(月)11時33分配信
震災、原発事故で被災した本県の伝統芸能団体の復興を支援するNPO法人民俗芸能を継承するふくしまの会(理事長・富田孝志元県教育長)が発足し、26日、郡山市で臨時総会を開いた。各団体への専門家の派遣や団体同士の交流事業など本年度の活動計画を決めた。

同会は大学教授や研究者、学芸員など専門家16人で構成する。浜通りを中心に説明会や意見交換会を開き、専門家らが「伝統芸能サポーター」として参加したり団体を個別に訪問し、要望や現状を聞き、伝統芸能の復活に向け情報交換する。

また、活動を充実させていくため、サポーターの育成も進める。団体間のネットワークづくりにも力を入れる。このほか、南相馬市鹿島区江垂で行われる県指定重要無形民俗文化財の「日吉神社のお浜下(お)り」の再興にも取り組む。


“勇壮”神旗争奪戦 猛暑はねのけ、相馬野馬追の本祭り
国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」の本祭りは26日、南相馬市原町区の雲雀ケ原祭場地で開かれた。復興に向けて歩み続ける相双地方の約450騎の騎馬武者たちが ...
7月27日(月) 11時41分-福島(福島民友新聞)



浜の民俗芸能支援 NPO初会合事業計画決める

福島民報 7月27日(月)11時51分配信
NPO法人「民俗芸能を継承するふくしまの会」の初会合は26日、福島県郡山市の郡山地域職業訓練センターで開かれ、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の影響で存続の危機にひんしている浜通りの各民俗芸能団体への支援など平成27年度の事業計画を決めた。
 同会は文化財保護や民俗文化の研究家ら16人でつくる。メンバーの専門的な知識を生かし、会費のほか、県の委託や復興庁の補助を受け、南相馬市鹿島区で申(さる)年に行われる「江垂(えたり)のお浜下り」をはじめとする伝統芸能の復興を支援する。各団体の現状や要望を把握し、関係機関に伝える役割も担う。
 初会合では、富田孝志理事長があいさつし、27年度予算などを了承した。
 主な役員は次の通り。
 ▽顧問=小島美子▽副理事長=懸田弘訓▽理事=降矢美弥子、上野智子▽監事=小沢弘道

■賛助会員を募集

 同会は賛助会員を募集している。会費は1口当たり個人賛助会員が3千円、法人賛助会員が1万円。問い合わせは国分球子事務局長 電話080(1835)8845へ。
.
福島民報社

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする