赤間利晴 未来企画創造学舎

赤間利晴の人生 古希以降の社会活動等

短編 百足と大蛇の友情 創作・・六供六社祭創始に向けて

2013年08月30日 20時10分43秒 | 日記
短編作品 百足と大蛇の友情 創作・・六供六社祭創始に向けて、その背景となる物語として

平成25年8月28日                                    
信夫山振興会  赤間 利晴  御神坂・六供六社祭の創始に向けて・・・・その祭りのイベントとして昔から伝わる大蛇や百足を主役にし、その出会いの場をメーンにすることとした。そのシーンを演出するに当たって、新たなもうひとつの伝説を創作し、内容の豊な祭りを作り上げたいと思う。
平成25年8月30日                                               
赤間 利晴 著
創作   信夫山/百足(むかで)と大蛇(おろち)の友情(ゆうじょう) 
その昔、陸奥(みちのく)は岩代(いわしろ)の国といわれた幸福(こうふく)の島・福島市。その街のど真ん中に、標高275メートルという、周辺の山脈(さんみゃく)などと全く無縁(むえん)な平地に、独立した信夫山(しのぶやま)があります。
そこに、昔々(むかしむかし)、山の大主(おおぬし)として古代(こだい)から棲(す)み付いていた巨大(きょだい)な生(い)き物(もの)たちがいました。
それは信夫山の神々(かみがみ)の使者(ししゃ)として崇(あが)められていた、真っ白で綺麗(きれい)な「大蛇(おろち)」と、神の守り役であった真っ黒な「百(むか)足(で)」でありました。この白と黒と対照的(たいしょうてき)な色(いろ)分(わ)けをされた「大蛇」と「百足」たちには、これといった天敵(てんてき)がいなかったので、わが世の春とそれぞれの人生?を謳歌(おうか)していました。
ある年、そこに降(ふ)って湧(わ)いたように、欽(きん)明天皇(めいてんのう)の次の座を狙(ねら)う争          
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いで弟に敗(やぶ)れた兄の皇子(おうじ)が都落(みやこお)ちで、予(かね)てから憧(あこが)れていた陸奥(みちのく)
の信夫山に居(きょ)を構え(かま)られたのでした。
皇子は生れ育った都(みやこ)の明日香(あすか)にも似(に)て、緑(みどり)豊(ゆた)かで自然に恵まれ風光(ふうこう)明媚(めいび)な風土(ふうど)が、とてもお気に召(め)され、都での争いの傷を癒(いや)され元気を回復(かいふく)されました。
とても明るく人情(にんじょう)が豊かで祭りの大好きな村人たちに囲まれ、都にいたとき以上に気力もみなぎり、元皇族(こうぞく)にふさわしく心豊かで尊厳(そんげん)のある人生を送られていました。
それまでの「大蛇」と「百足」は、共に神々に仕(つか)える身でありながらも、常にライバルとして長年いがみ合い、罵り合(ののしりあ)い時には山を揺(ゆ)るがす大(おお)喧嘩(けんか)も珍(めずら)しくありませんでした。
そのようなことを長年繰り返していましたが、高貴(こうき)で心(こころ)優(やさ)しい皇子の仲裁(ちゅうさい)で、両者(りょうしゃ)は心底(しんそこ)から今までを反省(はんせい)し、堅(かた)く握手(あくしゅ)を交(か)わして和解(わかい)したのでありました。
それ以来(いらい)、血を分けた兄弟以上にお互いを思いやり、助け合い励ましあって、世のために人々のために役立とうと誓(ちか)い合って生きてきたのでありました。
ある年の紅葉(こうよう)の頃、こともあろうに石(いし)姫(ひめ)皇后(こうごう)陛下(へいか)様(さま)が、果(は)てしな
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く遠い奈良(なら)の明日香(あすか)から遠路(えんろ)はるばる、我が子の皇子(おうじ)を訪ねて陸奥の信夫山にきたのでありました。
なんと驚いたことに石(いし)姫(ひめ)皇后(こうごう)陛下(へいか)様(さま)は、両者にとって命にも代(か)えがたい恩義(おんぎ)のある皇子の母親だったのであります。
皇子を心から敬愛(けいあい)していた「大蛇」も「百足」も、この我が子を思う母の情愛(じょうあい)にほだされ、感激(かんげき)して互いに抱き合って喜び、その様(さま)は今にも天にも舞うほどでありました。
しかしながら、残念(ざんねん)なことに、その皇子は数年前に信夫山を直撃(ちょくげき)した未曾有(みぞう)の大きな雷(かみなり)に打たれ、その雷光(らいこう)をさかのぼる様にして、天(てん)にお昇(のぼ)りになられていました。
歓迎(かんげい)の宴(うたげ)のあとで、このことを知らされた皇后(こうごう)様(さま)は、まさに青天(せいてん)の霹靂(へきれき)で思わず絶句(ぜっく)され、腰も抜かさんばかりの大変な驚きようでありました。
一瞬(いっしゅん)、凍(こお)りついたように身動(みうご)きひとつせず、やや暫(しばら)くして皇子が昇られた天(てん)を仰(あお)ぎ落涙(らくるい)し、嗚咽(おえつ)をこらえ深い悲しみに包まれました。
そのショックは非常(ひじょう)に大きく、明日香(あすか)からの長旅(ながたび)の疲(つか)れと、それがもとで重い病(やまい)となり床(とこ)に伏(ふ)すようになり、毎日まいにち、うわ言のように我が皇子の名を呼び続けられました。
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お取り巻き人(びと)たちの必死(ひっし)の看病(かんびょう)の甲斐(かい)も虚(むな)しく、皇后様は悲しいことに、愛する皇子のあとを追うようにして、黄泉(よみ)の世界に旅立(たびだ)たれていったのでありました。
その日は、御神坂(おみさか)の桜が例年よりも綺麗(きれい)な季節であったといいます。此の世に、このような地も涙もない運命(うんめい)の悪戯(いたずら)があってよいものだろうかと、村人達は嘆(なげ)き悲しみ桜の花が一片(いっぺん)散るたびに涙したのでありました。

付き人や村人たちは石姫皇后様を慕(した)い、とてもとても忘れ難(がた)い思いが日増しに募(つの)っていきました。
ついには、信夫山の麓(ふもと)に黒沼(くろぬま)神社を建立(こんりゅう)し、その祭神(さいじん)としてお祀(まつ)りして、ご遺徳(いとく)を偲(しの)んでおられるといわれています。
「大蛇」と「百足」は心から敬愛(けいあい)していた皇子に続いて、事もあろう
に母(はは)君(ぎみ)の皇后様までもが黄泉(よみ)の旅に出られたことで、互いに喪(も)に服(ふく)し地中深くにある我が巣(す)穴(あな)に籠(こ)もって瞑想(めいそう)し、心静かに時を過ごしていました。
けれども、度重(たびかさ)なったあまりの悲しみに耐え切れず疲労(ひろう)困憊(こんぱい)となり、お二人の在(あ)りし日の元気なお姿を偲(しの)びつつ、いつの間にかそのまま
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深いふかい冬眠(とうみん)状態(じょうたい)に入ってしまいました。
それから時代は、どれぐらい経過(けいか)したのでしょうか。時は21世紀初頭(しょとう)、平成二十三年、春の足音が聞こえそうな三月十一日のことでありました。
硬(かた)い岩石(がんせき)に囲まれている巣(す)穴(あな)が、今にも崩(くず)れ落ちてしまうのではと思うほどの強烈(きょうれつ)な衝撃(しょうげき)が続いたことから、深い眠りから思わず眼を覚ましたのでありました。
 もう時代は、人類(じんるい)が月世界に行ける時代になっており、とても昔のように自分たちが大手を振って、信夫山を我がもの顔に闊歩(かっぽ)できる時代でないことを悟(さと)ったのでした。
 敬愛(けいあい)してやまなかった皇子も石姫皇后様もそれぞれ羽黒神社と黒沼神社の祭神(さいじん)として祀(まつ)られ、地元や福島市民から慕(した)われ大切に護持(ごじ)されていることを知りました。
村人たちは、百足をわらじに見立てて羽黒神社の祭礼に奉納することで、新時代に生かされていることも知りました。
 大蛇も、東日本大震災で犠牲(ぎせい)になられた方々を追悼(ついとう)し、風化(ふうか)させないために、六(ろっ)供(く)六社(ろくしゃ)祭(さい)を新(あら)たに興(おこ)し、その主役(しゅやく)の座(ざ)を与えられ華々(はなばな)しくデビューしていたのでした。
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 そのために今更(いまさら)昔のように生身(なまみ)のままで、地上に出て行くことを憚(はばか)
り、巣穴にそのまま留(とど)まり朽(く)ち果(は)てることを決意(けつい)したのでありました。
  その遺志(いし)を見事(みごと)に生かした福島市は、文字通(もじどおり)り福(ふく)満載(まんさい)の幸福(こうふく)丸(まる)と
して航海(こうかい)を続けました。
  それからの福島市は、幸福(こうふく)の島(しま)といわれ大いに発展(はってん)し、市民はこ
れまで以上に、しあわせに満ちた日々を送れるようになったのでありました。
めでたし目出度し。                         終わり








     
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