赤間利晴 未来企画創造学舎

赤間利晴の人生 古希以降の社会活動等

簡単手づくり自分史講座受講者の「シベリア抑留自記」受ける

2013年08月19日 21時48分13秒 | 福島県簡単自分史協会
22年の受講者 当時90歳  このほどシベリア特集のテレビを見て思い出し
電話をしたがご本人は昨年ご逝去

ご遺族が自分史にして、印刷製本して告別式に参列された皆様に差し上げた。

残部があり、まげて頂戴しました。

丁重に電話でお礼申し上げ、明日礼状を差し出すことしている。



新伝説・「大蛇と百足の友情」創作 信夫山伝説

2013年08月19日 21時42分46秒 | 信夫山
来年の七社祭創設に向けて・駄作であるが、


平成25年8月19日                                               
信夫山振興会  赤間 利晴 著
忘れられているもうひとつの信夫山伝説・創作

伝説・百足(むかで)と大蛇(おろち)の友情
福島市のど真ん中に標高が275メートルという、山脈などと全く無縁な平地に独立した信夫山があります。
そこにその昔、山の大主(おおぬし)として棲み付いていた巨大な生き物がいました。
それは神の使者として崇(あが)められていた真っ白な「大蛇(おろち)」であり、神の守り役であった真っ黒な「百(むか)足(で)」でありました。
信夫山には、これといった天敵(てんてき)がいなかったので、「大蛇」と「百足」はノビノビとわが世の春とそれぞれの人生?を謳歌(おうか)していました。
そこに降って湧いたように、欽(きん)明天皇(めいてんのう)の次の座を狙(ねら)う争いで敗れ、弟に譲った兄の皇子(おうじ)が、都落(みやこお)ちであこがれていた陸奥(みちのく)の信夫山に居(きょ)を構え(かま)られたのでした。
皇子は都の明日香(あすか)にも似たここが、緑も多く風光(ふうこう)明媚(めいび)で、心と人情豊かな村人たちに囲まれ、とてもお気に入りになられ心静かな人生を送られていました。
それまでの「大蛇」も「百足」は、共に神に仕える身でありながらも、常にライバルとして長年いがみ合い、時には喧嘩(けんか)になると言うことも珍しくありませんでした。
そのようなことを長年繰り返していたある年に、心(こころ)優(やさ)しい皇子の仲裁(ちゅうさい)で心底(しんそこ)から和解(わかい)したのでありました。以来、血を分けた兄弟以上にお互いを思いやり、助け合い励ましあって世のために役立とうと生きてきたのでありました。
その命にも代えがたい恩義(おんぎ)のある皇子の母親であられる石(いし)姫(ひめ)皇后(こうごう)様が、ある年、果てしなく遠い奈良の明日香から遠路はるばる我が子である皇子(おうじ)を訪ねてきたのでありました。
これを知ると皇子を心から敬愛していた「大蛇」も「百足も」、この我が子を思う母の情愛にほだされ、天にも舞うほどに大喜びで迎えしました。
しかしながら、残念なことに、その皇子は数年前に信夫山を直撃した未曾有(みぞう)の大きな雷(かみなり)に打たれ天にお昇(のぼ)りになられていました。
歓迎の宴(うたげ)のあとで、このことを知らされた皇后は、大変驚き天を仰(あお)ぎ絶句(ぜっく)し落涙(らくるい)し、嗚咽(おえつ)をこらえ深い悲しみに包まれました。
そのショックは非常に大きく長旅の疲れとそれがもとで重い病(やまい)となり、毎日うわ言のように我が皇子の名を呼び続けられました。
取り巻き人たちの必死の看病(かんびょう)の甲斐(かい)もなく、皇后は愛する皇子のあとを追うようにして、黄泉(よみ)の世界に旅立たれたのでありました。
それは、全山春四月。桜の綺麗な季節であったといいます。此の世に、このような運命の悪戯(いたずら)があってよいものだろうかと、村人は嘆き悲しみ桜の花が一片散るたびに涙しました。
付き人や村人たちは石姫皇后を慕(した)い、とてもとても忘れ難く(がた)、信夫山の麓(ふもと)に黒沼神社を建立(こんりゅう)しその祭神(さいじん)としてお祀(まつ)りしてご遺徳(いとく)を偲(しの)んでいるという。
「大蛇」も「百足」も敬愛(けいあい)していた皇子に続いて皇后までもが黄泉(よみ)の旅に出られたことで、喪(も)に服(ふく)し地中奥深くにある我が巣に籠(こ)もって静かに時を過ごしていました。
けれども、重なったあまりの悲しみに耐え切れず疲労(ひろう)困憊(こんぱい)となり、お二人の在(あ)りし日の元気なお姿を偲(しの)びつつ、そのまま深い深い冬眠(とうみん)状態(じょうたい)に入ってしまいました。
(ここまでが、もうひとつの伝説)
以下は、その伝説に基づいて創作した物語りであります。
昔々信夫山の大主(おおぬし)として君臨(くんりん)していた「大蛇(おろち)」と「百足(むかで)」は、石(いし)姫(ひめ)皇后(こうごう)の喪(も)に服(ふく)していました。それはそれは、とても長い長い年月であり信じられない程の時間(とき)が過ぎ去っていました。
平成23年3月11日に東日本を襲った大震災で、天地(てんち)を揺(ゆ)るがす未曾有(みぞう)の地震で地底奥深くにある巣も天井から落石があり、その石が顔面を強打(きょうだ)したのが幸いし深い眠りから覚醒(かくせい)したのでした。
目を覚まして、巣篭(すご)もりしていた穴倉(あなぐら)から這(はい)い出だし、久々にあたりを見渡してみて、余りにも多くの時代が経過していたことに驚いたのでした。
それ以上に愕然(がくぜん)としたことは、大震災で古里である福島が最悪な状態にあることでありました。福島の浜通りの町や村は跡形もなく無残にも津波に流されていました。
天然(てんねん)の要塞(ようさい)とも言えた浜通りは新時代のエネルギーである原子力発電所の立地として最高の場所と脚光を浴び、数基に及ぶ原子力発電所が建設され稼動していたのでした。
そのうちのひとつが不幸にも、東日本大震災の大津波で被害を受け水素爆発を起こし、多くの近隣住民が避難生活を余儀なくされていたのでした。
思わず眼を背けたくなるほど悲惨(ひさん)で口惜(くや)しいできごとでありましたが、その東日本大震災・大地震が切っ掛けとなり、長い眠りから覚めて再会できたのは、天命(てんめい)であると思ったのでありました。
そのことからも、長い眠りから覚める直接の切っ掛けとなった東日本大震災で、あまりにも多くの方々が亡くなられたことを追悼(ついとう)したい思いに駆(か)られました。
そこで手を取り合い、ふるさとの早期復興を祈念するために、昔のように皆と力を合わせてお役に立つ行動を起こしていこうと堅く誓い合ったのでした。
彼らは、以前平和に暮らせることに感謝して年に一度、御神坂のお花畑で横綱級の揃い踏み宜しく、華麗な祈り舞いを羽黒山頂に向かって奉納していたことを思い起こしていました。
丁度、村人たちも同じ思いから、羽黒神社旧参道(きゅうさんどう)である古道(こどう)御神坂(おみさか)沿いに祀(まつ)られている六(ろっ)供(く)の神社六社が連携(れんけい)して「六(ろっ)供(く)六社(ろくしゃ)祭(さい)」を始めていました。六(ろっ)供(く)の語呂(ごろ)合(あ)わせで本祭は六月九日としていました。
その祭りの主行事とし「巨大(きょだい)大蛇(おろち)」の練り歩きを組み込み、本祭に御神坂六供のまちに繰り出し練り歩き、舞い踊り早期復興と風評(ふうひょう)払拭(ふっしょく)を祈祷(きとう)すると共に、元気付けたのでありました。
巨大大蛇の大きさは、六供の六と六社の六から、これを掛け合わせた三十六メートルの長さの大蛇であります。これが若者に担がれて御神坂を蛇のように身をくねらせながら練り歩くという壮大な祭りが繰り広げられていました。
 その後、冬季の信夫山三山暁参りと共に、信夫山を愛する多くの人々の応援を得て毎年六月に盛大に開催されています。
祭りも復興に大きな役割を果たし、ふるさとの町村も東日本大震災以前のふるさとに復興しました。各地に避難されていた方々も住みなれた故郷に帰還(きかん)し、平和な日常と笑顔を取り戻したとさ。