読書の森

宮本輝 『西瓜トラック』



蔵書整理をしている時に、本棚の隅で宮本輝の文庫本を見つけた。
忘れていたアルバムの写真に出会った様な懐かしさを感じた。
載せられた作品は、昭和55年頃に雑誌に掲載されたものを集めている。

以前にも述べたが、宮本輝は幼少期から青年期にかけて不遇だった。
父親の事業が失敗を繰り返したからである。
その為、彼は住まいを転々とせねばならず、貧しい生活を送った。

この作品集の主人公は、皆哀しみを背負った庶民である。
ただ悲劇っぽい描き方は全くされていない。
底に流れる抒情性が胸に沁みる。

ただ、背景の時代は今とかなり異なる。
この本を又読み返し強く感じたのは、昔はどんな近くへ行っても、流離の想いが味わえたという事だ。

それだけ、町も特に地方都市は鄙びて、そこから行く旅は情緒に満ちていた。
昭和55年頃は、昔の情緒を保ちながら、発展の見果てぬ夢を容易に見られる時代だったのだろう。



『西瓜トラック』をこの作品集の代表作に挙げる人は先ずないと思う。
文学的香りに満ちてもいないし、深淵に迫る内容も取り上げていない。
しかし、私にとって忘れられない鮮烈な情景を描いた作品である。
それは、遅過ぎる感はあるが、主人公の少年の立場で読んだからだろう。

舞台は関西の地方都市である。
流れ者の生き方が真面目で初心な高校生の目線で捉えられている。
遥々遠方からトラック一杯の西瓜を積んで売りながら、故郷で知った昔の女に逢いに行く若い男。
今は人妻でいる女のアパートで逢引を重ねる時の為に、高校生を雇った。

彼らの逢瀬は、ひどく悩ましい。
男女の性を描いた場面は人間観察が細やかではっとするものがあった。

野放図な男は西瓜が殆ど売れた時、風の様に故郷へ戻って行く。
これから、どう生きていくのか当てもない様だ。
彼は次の夏もう来ないかも知れない。

少年はその後地道な定職に就き変化のない日常を送っている。
しかし、彼の唯一の楽しみは一人旅である。そこで自由にロマンを夢見る。
彼はきっと、あの正体不明の男と過ごした夏の日を忘れられないのだと思う。



この物語の最後の文章が素晴らしい。

「どこかに青味の残る空で、星がひとつ鮮明に光っていた」
と少年はバイクに乗って寒風の吹きすさぶ国道に出た。
「走りながらぼくはあのアパートを見た。
田園の向こうで、潮鳴りみたいに風が巻き、女の部屋にだけ明かりが灯って、夜の海の沖合の、たったひとつきりの漁火に見えた」

女とは例の男の恋人である。

男の背徳や流浪や生活感の薄さは、丁度遠い海の漁火の様に思える。
遠く輝いてたものを見るから美しいのである。

無難で平凡な生き方を選んだ少年だが、心の中で何を描こうと、何を美しいと思おうと自由なのだ。

昔の世界から戻ってきた様な小説は一抹の寂しさと共に、遠い世界を夢見る喜びを教えてくれた気がする。
私もこの少年の様にしばらく心の旅をしたい。

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