読書の森

男どき女どき



『男どき女どき』はあの向田邦子の最後の作品集である。
彼女らしく、さらりとしかも味わいは深く市井の男女の泣き笑いを描いている。
この作品集を遺して、彼女は台湾に旅立ち、飛行機事故で客死した。

向田邦子は作家としての盛りの時期に突然亡くなってしまった、私ショックを受けていた。
その時、私は遺作の題名を思い出した。
そして彼女が題名通り「時めいた」まま消えてしまったと受け止めたのだ。

男どきは男盛り、女どきは女盛りという程度の解釈でずっと来てしまった。
この言葉が、室町時代の能の天才世阿弥の言葉だとは全く知らなかった。
意味についても全く誤解していたのである。


世阿弥の能の理論書『風姿花伝に「男どき 女どきとて あるべし」とある。

人生において、何をやっても順調で上手くいく「男どき」と、逆にやる事に食い違いがあり、躓きが多い不調の「女どき」があるという意味だ。

最初全く気付かなかったこの言葉の意味を、今やっと身に沁みて感じる。
『男どき女どき』という呼び方には抵抗があるが、当にその通りだと思う。
人生には乗りどきと沈みどきがあるのだ。

好調の波が来たら上手く乗ってみよう、
ただ、これが永遠に続くものではないと覚悟してその備えが必要である。
天狗になるのは禁物だ。

不調に陥った時、人は何とか突破したい、自分の実力はこんなものではない、と焦る。
しかし、これは不調の時だからと歩みを遅くしてみると楽かも知れない。



最早後戻り出来はしないが、私は好調も不調も軽んじてきた気がする。
運はいつでも自分が開くものだとガムシャラに進み過ぎて、自分も人も傷つけたと後悔しきりである。

自分はたった一人で生きているのではない。
大きな流れの中で動いている。
だから方向を間違えると沈没する危険もあるのだ。
それをきっちり自覚していきたい。

人生の盛りは二度と来ないだろう、などと嘆息するより、「初心忘るべからず」である。
これも世阿弥の言葉である。
「幾つになっても、その年なりの初心」というものがある。
「幾つになっても、自分の花を咲かせる心意気を持って精進したい」と都合よく解釈をした。

私もいつか本物の花を咲かせたい。
野の花で良いのだ、確かに花の香りを届けてみたい。

🌼何と言っても、天から来るものです。私如きが喚いても致し方は無いのです。
それでもお願いいたします。
台風さんお手柔らかに願います。
もう充分お仲間が荒らした、日本の民家の
暮らしを根こそぎ持っていかないで下さい。

読んでいただきありがとうございました。

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