読書の森

松本清張 『削除の復元』



この作品は、巨匠松本清張の数ある短編から、宮部みゆきが選びだした名編集の中の一つである。
宮部みゆきは松本清張の大ファンという事で、かなりコアな作品を選んでいると思った。

宮部みゆきと松本清張、一見まるで作風に共通性がないようだが、抒情性より叙事性を重んずるという点で一致していると私は感じる。
人間心理を深く探っていきながら、作者自身はその情に溺れていかない。
冷徹な作者の視線を感じる。
非常にタフな精神力を持つ作家だと思うのだ。

前ブログの『黒き舞楽』の場合、登場人物と共に酔っていく作者の想いを感じたが、この作品は底に醒めた想いがある。
全編を貫くのが、謎めいた結果からプロセスを客観的事実に基づき推理検証していく姿勢である。
それが、清張の場合、ワクワクするほど面白い。

『削除の復元』は平成二年に書かれ、松本清張最晩年のもので、深い愛着を持つ文豪森鴎外の小倉時代の日記を題材にしている。
軍医兼医務局長として小倉に赴任していた当時、森鴎外は独身だった。
最初の妻を離別した後、29歳の歳から約十年間独り身で家事は女中(お手伝いさん)に任せた。
年頃の娘と独身の男が一つ屋根の下に暮らす訳で、かなり下種な勘繰りをされる危険性がある。
何故再婚をしないのだろう?
男盛りの生理をどうしているのだろう?
この世間の目にも泰然として小倉での独身時代、鴎外は職務の傍ら珠玉の文芸作品を発表している。


さて、鴎外は日記をつける習慣があり、昔の事だから筆で日記帳に記している。
削除訂正する場合は和紙を上に張って隠した。
その削除した文章の中で一番長い部分に、鴎外ファンのある小説家が目を付けたところから物語が始まる。

削除した部分の中身は女中の一人が自分から退職しめでたく結婚したというものだ。
ところが、結婚した相手は当時子供でしかも生涯独身だったと後で分かった。
女中はそんな相手と結婚できるはずがないのだ。
後から鴎外に分かって削除したわけである。
だが、なぜそんな嘘を女中はついたのだろう。
日記では働き者の女性で、家によくついていたというのだ。

この小説家は削除した部分の事情を知りたいという欲求にかられた。

鴎外は何故易々とその嘘に騙されたのだろう。
つまり、真実を知るため削除の復元をしたくなったのである。

小説家が、調査を依頼した相手は文豪森鴎外の秘密を探る興味に惹かれたのだろうか、辞めた女中の生い立ちや足跡を熱心に探った。
そうして、残された事象から鴎外とこの女中との関係を推理していくのである。
つまり、日記のその部分はわざと書かれ、わざと消されたのだという。
その報告を聞いた作家は怒り出す。
実は鴎外は肺疾を患っていた、ゆえに女を遠ざけたのだ、だからその推理は下手な捏造だというのだ。



さて、この調査は本当に捏造なのだろうか。
私はそれは分からないと思う。

この作品の最後に
「記録的に証明された肯定のどれもに記録に証明された否定が対立し、どの非難にも弁護が対立する」という言葉が引用されている。

これと同様に記録のみを見て事実を証明する事は非常に難しい。
松本清張が長い屈辱の歴史を経て大家となった後にこの作品を書いた意味は非常に深いと思う。

今は一旦削除した記録が二度と戻れぬ時代になったようである。
削除した記録の中に真実が存在したら、怖い場合が往々にしてある。

それにしても、鴎外が削除した全く別の理由を私は考えてしまう。
つまり、女中が自分の見栄でついた嘘を本当だと思いたい心理が鴎外に働いて日記を書かせたという事である。
その後、女中が本当の事を知られたら可哀そうだという心理が働いて削除部分にした。
鴎外は紙を貼れば、それで削除した事になると能天気に考えたのかも知れない。

などと推理すれば面白みのない人情噺になってしまうだろうか?
どちらにしても、私は削除された真実を追求する事で一番大切なものを喪う怖さも考えたいと思う。

追記:本日は記事を新しく起こしてませんが、blog の反響は気になるところです。
本blog が今結構反響があるので再度考えてみます。この場合、削除した部分はあくまでも個人的スキャンダルに当たりますね。
そして最後に私が述べた一番大切なものは「鴎外自身の人格への信頼」と捉えたのです。綺麗ごとに過ぎますが。
ただし削除したものが大多数の幸せを左右するものであれば、やはり真実を明らかにすべきだと思いますね。個人的誹謗を恐れるあまり国家の一大事に関する事実の記載を削除する事は間違いだと思います。
同時に国家が個人情報を恣意的に左右すべきでないと。
かなり、大袈裟な話になって恐縮です。



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