週刊新潮の昭和の墓碑銘(その時期の物故者の生涯を振り返るコラム)、昭和51年の記事に加藤哲太郎氏を取り上げています。
加藤さんは7月29日、食道癌で59歳で不遇の内に無名の一生を終えました。
彼は人の為に尽くした人でもなく、何か残る仕事を成し遂げた人でもありません。
その彼を、殆ど著名人の名が並ぶこのコラムで取り上げた理由は、昭和30年代センセーショナルな話題になった『私は貝になりたい』事件の当事者だからです。
『私は貝になりたい』はテレビや映画でドラマ化された、戦犯容疑者が描かれています。
平凡な庶民である主人公が、上官の命令で捕虜の米兵の処刑に関与したばっかりに戦後ほっとした暮らしの中で、突然捕らえられて巣鴨裁判によって死刑に処せられるという哀しいドラマです。
私は、フランキー堺演じる主人公が、苦痛の表情で死刑台を上りながら「今度生まれてくるときは人間なんかじゃない、貝になって生まれたい」と叫んだ姿を映像で観た記憶があります。
加藤さんはこのドラマの原作者だと主張して、作者とテレビ局を著作権侵害で訴えたのです。部分的勝訴という形で裁判は終わりました。
確かにこのような作品を彼が書いて発表したことは事実でしょうが、あまり勝ち目のない裁判を起こした背景に生活の困窮があったことは事実です。
昭和15年慶応大学経済学部卒業、英語に非常に堪能、その抜群の英語力を買われて東京捕虜収容所で通訳として働く、いわば戦中のエリートとして活躍した彼が、敗戦と同時に逃亡生活を強いられたのは、英米兵にとっては憎き敵側の標的だったからです。
彼自身が好むと好まざるにかかわらず、彼の通訳した会話は当然日本軍の命令だった訳で、それなりの威嚇的な行為も起こしたのだと思えます。
昭和20年8月15日、彼は部下に即時逃亡を命令し、身を隠しながら新戸籍を作って、各地を転々とするのでした。
彼は昭和23年、捕らえられて米軍軍事法廷でアメリカ人捕虜虐殺のかどで絞首刑の判決を下されました。
彼が死刑を執行されるかされないか危機一髪のところで、彼を知る親米派の知己たちによって除名嘆願されて、助かります。
彼が死刑を執行されるかされないか危機一髪のところで、彼を知る親米派の知己たちによって除名嘆願されて、助かります。
しかし、これで生活が安定した訳ではさらさらありません。
服役したという汚点は、生涯彼につきまといます。過酷な巣鴨プリズンでの暮らしで身体も壊していました。
彼は、仕事にも健康にも恵まれず、親切な友人の紹介で結ばれた妻との仲も壊れ、翻訳家としての夢を果たせないままこの世を去りました。
不遇の中で彼が起こした著作権侵害の訴えは、「私は人間だ、努力して学んだ結果を活かして与えられた仕事に熱心だった有益であるはずの人間だった、それなのにこの待遇はあまりにも不当ではないか」という悲鳴のように思えます。
「世の中は無常で、いくら才能があろうと無常に泣くものは数限りない、悪あがきは止めなさい」という言葉で諦めきれるものでしょうか?
戦争は一般人の信じていた常識や善の観念を根底から覆すものだと思います。
加藤氏は逃亡中に「死ぬまでに結婚して普通の生活がしたい」と友人に打ち明けたそうです。
結果的にごく普通の生活も果たせなかった訳ですが、忌まわしい戦争さえなければこの有為の人の不幸は起こらなかったと私は思います。