読書の森

蛍有情 最終章


翠が帰った後、千種はテーブルの上を片付けもせず、暫く考えていた。

一昨日小川美里殺人の報を聞いてから、今日翠に遠い過去の話をするまで考えていた事である。

現場から何も盗まれていないと言うのは嘘である。
美里の携帯、手帳、出納帳、もう一つ借用書が盗まれた事実を密かに知った。

借用書の内容は、小川美里から園山翠が300万円借り、返済日は事件当日となったものである。
これは美里の温情だろうか、保証人も無く、無利子である。
恐らく返す当てが当初確実だったのだろう。

美里が大金を翠に貸したのは、おそらく昔の罪の意識からだろう。


なぜ千種がこれを知ってるかというと、小川美里から翠について問い合わせが来たからである。
翠に返却の見込みがあるのか確認したのだ。

そして、千種は翠の人間性を保証した。
実際に学生時代の翠は義理堅く約束を守る人間だった。


千種は今日の会話でもわざと何も触れなかった。
翠の告白を引き出したかった。


千種と翠は大学の同級生で仲が良い。
全く違う境遇に置かれた今も行き来していた。

多分翠も懐かしさに引かれてあのビルを通ったのだろう。
そして、美里に会った。

新婚早々の夫が、翠への見栄から会社の金を使い込んでいた。
当てにしていた親戚から断られた。
苦しんでいる夫を見て、翠は何とかして会社に知られぬ内に埋め合わせをしたかった。

悩んだ挙句、美里に借金を申し込んだ。
惨めな気分であったに違いない。

そして、期限が来ても金は作れなかった。
使い込みの事も金を借りた事も明るみに出ては困る。
思い余った翠は、ついに美里殺害を企てた。
金と引き換えに借用書を渡そうと、後ろを向いた美里の頭を鈍器で殴ったのである。
何度も何度も打ち付けた時、半ば狂っていたのかも知れない。


彼女が『蛍有情』の話に熱中したのも、自分とは無関係の話にしたかったからに他ならない。
現実の犯人探しに触れるた時、逃げてしまったのだ。

最初翠が、小川美里の名前を知らない振りをした時、千種は『蛍有情』の思い出話をした。
この話から、切ない青春時代が蘇って、翠の良心が目覚めるのを待った。
犯行の一端でも言ってくれれば、密告などしないのに。

千種は捜査本部の刑事宛に、沈んだ顔で電話をした。
テーブルの引き出しの封筒には、美里から預かった例の借用書のコピーがある。
これは動かぬ証拠となるだろう。

『蛍有情』の最終章で、夥しい蛍が漆黒の闇の谷間を飛び交う情景が、千種の脳裏にふと浮かんだ。

蛍の群れが遠く彼方に飛び去っていく幻が見えた。
もはや青春時代は戻らないのが、初めて実感となった。




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