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読書の森

五木寛之『わが人生の歌がたり』

五木寛之は存在感のある大作家であると同時に、永遠の旅を続ける若者の魂を持つ人と、私はイメージしています。

この方、1932年生まれです。
父が朝鮮半島の学校長として赴任、彼は生後間もなく、母と共に玄海灘を渡りました。

過ぎ去りし激動の時代を、その頃見聞きした歌謡曲と共に五木寛之が語ったのがこの本です。


これは、戦後帰国して、高校生となった作者の写真です。
私には何処か寂しげに見えます。

実はこの時、母は故人で、父は魂を失った様な状態だったのです。
戦後60年過ぎて、五木寛之はようやく辛い思い出の封印を解いてくれました。


母も教師でしたが、当時の事で結婚と同時に仕事を辞め、父の希望を叶える為に初めて外地に渡ったのです。
さぞ、寂しく心細い日々だった事でしょう。子どもの目にもそう映った様です。

そして日本の敗戦、それは徐々に分かった事でなく、ある日突入という感じだったそうです。
支配する側とされる側が一夜にして逆転し、難民となった一家は一気に苦境に落ちます。

占領軍であるソ連兵が一家に押し入った時、母は体を壊して床に着いた状態でした。
自動小銃を突き付けた大男達は家財の掠奪を始めました。家にあるもの洗いざらいです。
それだけでは済まず、病人の母を庭に放り出して見るに耐えない暴行を繰り返したのです。

気がついた時、家の中は落下狼藉状態、母は半裸で庭に放り出されたまま、起き上がる事も出来ない状態でした。
以後二度と母が話す事はありませんでした。
そしてそれからしばらくして、一家が難民として逃亡する中で、母は見るも無惨に痩せ細った姿で息を引き取りました。

「助ける事が出来なかった」それは、父親の心にも、まだ幼いと言える中学生の作者の心にも決して癒やす事が出来ない深い傷痕を残したのです。

以後、五木寛之は母の写真を見るのも辛くて出来ない状態だったそうです。


思春期の入り口で、絶対に語りたく無いだろう残酷過ぎる別れの体験をした五木寛之。
その後の人生観、女性観に多大な影響を与えたと想像してしまいます。

辛い苦しい中でも、巷を流れる歌の思い出は消えていません。

「旅のつばくろ 淋しかないか
 俺もさみしい サーカス暮らし
 とんぼがえりで 今年もくれて
 知らぬ他国の 花を見た」

敗戦後流れた『サーカスの唄』です。
「ああもうこんな歌を大ぴらに歌えるんだな」と五木寛之は思ったそうです。
戦争は好きな歌を聞く自由さえ奪ってしまいます。
どんな歌でも聞いて歌える自由は、絶対失いたくないと思います。





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