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読書の森

上田駅で死んだ その4

時代は遡って、この哀しい事件の前、朝里圭子は眠れぬままに、縁側に座って夜空を見つめていた。
子供も夫も健やかな寝息を立てて床にいる。愛しい子どもと誠実な夫、安定した暮らし、この時代に贅沢と言える何の不満もない生活である。

しかし、彼女の心はひどく乱れていた。3か月前に戦死したと知らされていた藤堂隆から手紙を受け取ってから、眠ったように穏やかだった彼女の日常はバランスを失った。

圭子はもともと名古屋で生まれ育った。
当時の名古屋駅に歩いて行けるお屋敷町である。
藤堂隆とは小学生の時から仲の良い友達だった。
と言っても男女交際について、煩い時代で、保守的な名古屋の街の事である。
並んで歩けたのは、低学年の時だけで、抑えられただけ余計にお互いの感情は育っていった。

戦火が厳しくなり、彼女が高等女学校を卒業した頃、東京の大学に通う隆から厚い手紙が届いた。何枚も切手が貼られ、親展と表書きされたその手紙を郵便受けから取り出したのは彼女の母、睦子である。

「将来の事を話し合いたい。自分は未だ学生だから確約は出来ないが一緒に人生を歩みたいと思っているからだ。この夏帰郷した時にご両親にお目にかかりたいと思うが」と言うのが骨子である。
その他は隆自身が彼女に対して抱く思いや時代を憂う心を縷々と綴っていた。

封建的な道徳に凝り固まっていた睦子は手紙を突きつけて、激しく圭子を叱責した。
「ふしだらだ。こんな事不良がする事だ!藤堂の息子は未だ学生の分際で、何を考えているのか!こんな男に返事を出すのは許しません」
両親の言いつけには素直に従う圭子である。ただし何でこんなに叱られるのか、さっぱり理解出来なかった。

別にふしだらな行為をしてるとは全然思えなかったからである。
言わばプロポーズされて浮き立つ筈の心が、重く沈み込んだ。

「でも、、、。隆ちゃんはお母さんも知ってるように真面目な人だし、頭も良いし」
「藤堂家なんて成り上がり者です。家と格が違います!」

「隆ちゃん、いい人なのよ」
とうとう、圭子はポロポロ泣き出した。

睦子は困ったような顔をして、若い二人が会う事を許した。
ただし、二人だけで会う事は絶対禁止、姉千世が同行する条件である。
又隆が卒業して然るべき職に就かない限り、両親は彼の話を聞く事は無いと言う。

そして、駅近くの喫茶店で二人は会った。姉千世は渋井顔で同行していた。この姉妹は器量は大して違わないのに、何故か圭子の方が圧倒的にモテた。
彼女は愛想がよく笑顔が可愛かったし何よりも従順だった。美人だが気位が高そうな千世はどうも敬遠されがちだったのである。

それもあって、圭子はかなり硬い表情で隆とあった。
喫茶店にいそいそと入って来た、嬉しそうな隆の顔が何故かひどく憎らしく思えてきた。

「藤堂さん、あなた何故親展なんて書いたのよ!バカ」
開口一番口にしてしまった。

「一番大事な事だ。手紙が紛失するといけないから親展にしたんじゃないか!」
「だって!」

「だって、とはなんだ。君はもっと思いやりのある人だったと誤解していた。死ぬ思いで過ごして今日の日に臨んだ僕の気持ちがわからないなら、それまでだよ」
音を立てて隆は立ち上がり、憤然と喫茶店を出て行ってしまった。

千世はニヤニヤしている。
「藤堂君って短気なのね。案外ね」

二つ違いの千世は圭子より学校の成績も落ちる、いつもバカにしてる姉が自分をバカにしてる。これが圭子にとって屈辱となったのである。
彼女はただプンプンしていた。ひどく惨めな気持ちに陥って、こんな思いをさせる隆とは二度と会いたくない。

そうして若い二人の初恋はつまらないプライドから、無残な結果に終わってしまった。


この年、1943年秋、学徒動員が始まったのである。太平洋戦争下、日本の兵力は不足して聖域だった学生の徴兵猶予が停止されたのである。

不幸な事に隆も出自組に加わり、北満に配置された。
それを知らないまま、都市の空襲を避けて一家は、先祖代々の家がある信州上田に疎開した。圭子の父親が体を壊してしまったので一家はそのまま信州に住む事になった。

圭子は名古屋の学生時代の友人から隆の出陣を聞かされて、ひどく後悔した。
「戦争が終わったら、隆に会って謝りたい」
一年後、思い続けた圭子の耳に隆の戦死の噂が入った。
彼女が何度後悔しても、死んだ人間に謝る事は出来ないのである。

そして終戦を迎え、圭子に朝里家の一人息子の昭雄との縁談が起きて、一目惚れした昭雄の懇願に負けた形で彼女は朝里の妻となった。
昭雄は細やかに気をつかって、ありがちな嫁姑のいさかいを避ける為に新婚家庭を別世帯にしたのである。


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