平昌のパラリンピックの開会式をテレビで観た。
それは、現実に平昌で開催されている夢の様なセレモニーだった。
不自由な障がいを持ちながらも、健常者も顔負けの神業の様な戦いを連日続ける選手たちに、魅了された人は多いだろう。
この大会に漕ぎ着けるまで、彼らの日常的な努力の積み重ねがあった。
つまり、奇跡的な結果が出たとしても、その背後に日々の努力があったのだ。
リア充とは、この目的に向かってを充実した状態を言うのではないか?
夢の実現は、仮想空間では瞬く間に出来る様に思いがちである。
しかし、現実にはいきなり夢の様な結果を出す事は不可能だと思う。
仮想空間のゲームでボタンを操る如き安易な気持ちが、危険を招き易いのではないか?
例えば、仮想空間で人を殺しても決して罪にはならないだろう。
しかし、仮想空間と同様な感覚を持って、現実の世界で人間を殺せば重罪になるのだ。
現実と仮想空間を同一視するのは絶対に避けて欲しい事だ。
私は最近、リアルにいる人達とリア充な世界で生きたいと心から願う様になった。
夢を見る事は生活に潤いを与えてくれるが、最も大切なのは基盤となる日常生活だと思う。
これも2018年の記事の再喝です。
お目に止まれば幸いです。