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Real Reality in a Dream

「夢の中のリアルな現実」?? …その肌感を求めて彷徨う日々の記録

旅立ちの日

2007-02-19 00:50:06 |  -think/works
4月から約2ヶ月(+α)、先輩とともに9人の新入社員の面倒をみることになった。
(学校でいうところのいわば担任と副担任、という感じだろうか。)
そんな事情もあり、その新入社員達のプロフィールを眺めながら、「そういえば、僕は入社した当時どんなことを考えていたんだっけ」ということを、なんとなく振り返ってみる必要性を感じて、自分が書いたエントリーシートや学生最後の頃に綴っていた文章を、探し出してきて読みかえしてみたり。

そんな時、京都での最後の日(その日は、いつものあの店を貸し切って飲む予定だった)に向けて、僕が書き残していたメッセージが、見つかった。
いつかここにも書いたとおり、結局その京都での最後の日は、東京で病院のベッドの上にいたわけで、その日にその店のらくがき帳(その店には、都度都度お客さんが好きなことを書き記す「らくがき帳」があった。今でもたまにその店で当時のそのノートを読みかえしてみたりする。まぁ、若気の至りというか、恥ずかしい限りの青臭いコトバが、そこには並んでいる)に書こうと思って準備していた文章や、その店のスタッフ一人一人に宛てたメッセージカードは、結局人の目に触れることなく、そのまま僕の部屋に埋もれていた。
(そういえば、その日は確か、「東京に向かって黙祷しつつ乾杯」なんて勝手にみんなで盛り上がった・・・なんて話を、後から聞いたような気がする。看護婦さんに頼んで、「夜中だけどその日だけは」って、病室に電話を回して貰ったりもしたっけ。)

・・・そこには、確かに、その旅立ちの日に向けてそれなりに一生懸命考えて、新しいスタートを切ろうとしている自分が、いた。
入社当初は、結局日々をとにかく生き抜くのが精一杯な状況に追い込まれて、そんな決意とかそんなことを意識している間もなく怒濤の日々に突入してしまったわけで、そう、だからそんな初心のことなど、まったく実感がないのはむしろ当たり前のことなのかも知れない。(その頃から丸6年、本当に休まず走り続けてきたような感じだもんなぁ・・・。)

しかし、見つかったそのメッセージには、おそらくとても純粋でまっすぐな、感謝のコトバが並んでいる。
 それまで自分にいろんな意味で影響を与えてくれた人々に対する感謝。
 そして、京都で起こった様々な出来事に対する感謝。
 笑顔で僕を送り出してくれようとしていた全ての人々に対する感謝。

そして、それをチカラに、前へ進んでいこうとする僕の決意が、そこには綴られていた。

思わず、忘れていた宝物を、もう一度取り戻したような、そんな気にさえなる。
そうだね、例えばそんな気持ちで入ってくる新入社員達に対面したときに、僕はどんな姿を、見せてあげることが出来るだろう。

10歳近く年下の彼ら彼女らには、今の僕がどんな風に映るのか。
・・・なんだかそれも、楽しみだね。

ダンスはうまく踊れない

2007-02-10 01:26:20 |  -think/works
かつて、「11月祭」という大学の学園祭に関わっていた頃の話。
学園祭には毎年「統一テーマ」と呼ばれるキャッチコピーのようなものがあった。

当時後輩が提示したコピー案の中に「無人島ダンス」というワードがあり、これにインスパイアされてちょっとした文章を寄せたことがある。(結果これはとある年の統一テーマとなった。)

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今年は、20世紀最後のNF(※)、ということになるのだろう。
世紀末だ、ミレニアムだ、新世紀だ、と世の中は騒ぎたてている。
あるいは学園祭もまた、そうした流れの中で、センチメンタルな盛り上がりと予定調和を期待されているのかも知れない。

・・・・だが、僕らにはそんなコトはカンケーないハズなのだ。
何らかの目的のために、あるいは誰かのために、世の中のために、世界のために、僕らは生きているわけではナイ。
僕は、ただ、僕のために、僕のやりたいことのために、僕の喜びのために、僕の楽しみのために、そして僕の哀しみのために、今、僕の生を、精一杯、生きる。

それはまるで、ダンスのようであるはずだろう。

そこには何らの外部に設定される目標などない。それはただただ、それ自体が目的であるような活動。
他人のコトなんてこの際まったくカンケーない。

無人島で、ひとり、ひたすら踊る。

・・・・・その単純さと、美しさ。

NFが、そうした美の発現する場所でありますように・・・・。
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※November Festival(=11月祭)


学生ならではの価値観がそこにあり、そして、「無人島ダンス」というその不可思議な日本語の響きとともに、ある種の孤独と、そしてある種の自尊心を、そこに見ることが出来る。

そしてまた一方で、いま、また違う目線を、僕自身は獲得しているとも言えるのかも知れない。
陽水が歌った、あの詩のように。

ダンスはうまく踊れない 井上陽水 歌詞情報 - goo 音楽
ダンスはうまく踊れない 井上陽水 歌詞情報 - goo 音楽

僕は「弱さ」を獲得したのだろうか、それとも「強さ」を獲得したのだろうか。
・・・あるいはその両方か。

幸福への扉(再掲)

2006-05-13 00:21:28 |  -think/works
もしある日、あるいはある朝、天使があなたのもとに舞い降りてきて、こう告げたとしたら、どうだろうか、-「幸福への扉は内側に開くのです」と。

想像してみてほしい。あなたは大きな扉の前に立っている。

僕らはその扉を押して中に入ろうとするから、いつまでたっても幸せになれないのだとしたら?
ならば、扉を手前に引けばそこに入れるのだろうか?
いや、きっとそれも違うのだろう。なぜなら、その扉には把手なんてついていないはずだから。
そう、その扉は、僕らが自分で開けるわけじゃない。あるいは扉の存在なんてすっかり忘れているようなときに、ふと見ると、開いている。そういうものなのだ、たぶん。


「求めたいものではあるけれど、求めているうちはたどり着けない場所」そんな場所のことを、ちょうど今から7年ほど前の5月に、僕はこんな風に書いていた。


参照:Happyの法則

三つの変化

2005-11-29 22:12:01 |  -think/works
かつて理解したはずのこと。
この囚われからは、脱したはずではなかったのか・・・???


 ニヒリズムを超えたところにある新たな肯定性への転回とは、ニーチェにおいて一体どんなものだとされているのだろうか。このことを考える際に、『ツァラトゥストラ』第一部のはじめで描かれている「精神の三つの変化」が非常に示唆にとんでいる。すなわち、「精神が駱駝になり、そして駱駝が獅子になり、そして最後に獅子が子どもになる(※1)」として、ニーチェは三つのあり方を提示しているのである。

 ここで、ひとつめの「駱駝の精神」とは、重い荷を背負う駱駝の如く「なんじ、なすべし(※2)」という義務を背負い込み、道徳などの伝統的価値観や他者に服従を誓う状態をあらわしている。この「駱駝の精神」をあえて徹底すると、やがて一切の他者さらには自分自身を徹底的に否定するに至る。これが「獅子の精神」であり、まさに、キリスト教道徳が育てた誠実性が道徳自身に向かいその欺瞞を暴き出し、さらに人々は道徳から切り離されてしまった焦燥を自己破壊衝動に転化させてみずからの生を軽蔑するに至ったという事情に対応している。「獅子の精神」はそれまで自己を縛りつけてきた一切の本性を暴き、それに対して否定を突きつけ、「われ欲す(※3)」と叫ぶ自由の精神である。ところが、この哮り狂う「獅子の精神」は新たな価値を創造するための地盤を用意しはするものの、いまだそれを創造するだけの力を持たない。では、その創造の力を持ったものとして想定されているのは何か。それこそが、「子どもの精神」である。子どもについてツァラトゥストラはこう語る。「子どもは無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力で転がる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である。(※4)」と。ここで、肯定性へと転回した姿は「子ども」という形象によって描かれているのである。これは一体どういうことなのだろうか。

 「子ども」は「無邪気そのもの」である、ということは、もはや「ニヒリズム」という囚われを脱してしまっている、いやむしろさらに、そういう囚われを知らない、という意味であろう。その意味で「肯定」とか「否定」とかいうことがまったく意識されていないのであって、それはまさにルサンチマンに汚染されることのない「神聖な肯定」である。また、「子ども」は「忘却」である、ということは、人は物事を忘れようと意志しても忘れることができず、知らぬ間に、いつのまにか忘れている、という事情を想起すれば、それはたとえ理想であるとしてもそもそも目指すことなど不可能な状態であることが理解されるだろう。忘れよう忘れようと強く念じれば念じるほど、余計そのことが頭から消え去らないということを、われわれはみなよく知っているはずである。さらに、「子ども」は「一つの新しい始まり」である、というならば、「獅子」から「子ども」への転回は非連続なものであるということに他なるまい。「一つの遊戯」であるということは、外部に目的や理由などもたないただそれ自体が目的であるような活動がすなわち遊びであることを想起すれば理解されるだろうし、そして、「自力で転がる車輪」であるならば、それを駆動する力はいかなる外部からも調達されてはいないということになろう。さらに、「一つの第一運動」であるとはおそらく、そのときそれが「力への意志」そのものとなっていることを示唆しているのであろう。これは、「「ニヒリズム」は精神の最高の力強さが掲げる理想、このうえなく豊饒な生が掲げる理想である(※5)」と言われるときのニヒリズムとも、すなわち、力の充溢ゆえもはやどこからも意味や目的を与えてもらうことなど望まずにみずからの生をよろこんで引き受けている人間の姿とも連動していようが、しかし、この瞬間においては、人は「力への意志」そのものであるが故にもはや自己は消失しており、すでに自己は自己ですらないといった方がよいほどであろう。つまり、その時人はそのような理想を定立しているなどとはそもそも感じていないか、あるいはすっかり忘れてしまっているのである。

 「子ども」はこうした形象として描かれている。それゆえ、肯定性への転回というのは、「能動的ニヒリズム」の破壊の力をさらに強めることによって自己を徹底的に破壊しつくし、消失させることを「起こす」ことが必要だという議論ではなくて、大いなる肯定がなされている瞬間には自己が消失することが「起きている」ということを語ったものだと理解するべきだろう。「獅子」は「獅子」であるかぎり、その内部から発する自分自身の意志によっては「子ども」になることができないのである。この非連続性を忘れてはならない。

 ここで、こうした「子ども」イメージは、われわれのある実感とも適合するものであるように思われる。すなわち、例えば、衝撃的な音楽に出会ったときに自己と世界との境界がわからなくなるほどに溶解してしまうような、言い換えるなら、圧倒的に理解不能な「生成」を前にして「自己」が消失し、えもいわれぬ悦楽と一体になっているような、そんな感覚に陥ることが実際にある、という実感である(※6)。ニーチェもまた、われわれがある瞬間にまさにそうした大いなる肯定を、すなわち、生成の「非-知」に圧倒されて「肯定・否定」を超えた聖なる肯定を体験しているということを直観的に嗅ぎとり、そのことをここで「子ども」という形象によって何とかして描写しようとしたのではないだろうか。そもそも、ニーチェにとって永遠回帰の「啓示」とは、まさにそうした性質のものだったのではないだろうか。ここでは軽く触れるにとどめるが、後にニヒリズムの「最も恐るべき形態(※7)」・「最も極端な形態(※8)」であると同時に「およそ到達されうる限りの最高の肯定方式(※9)」であるとされる永遠回帰の思想もまた、「真理は存在しないということ。事物の絶対的性質、「物自体」など存在しないということ(※10)」をとことん知った上で、さらに、意味も目的もないこの生がまったく同じ形で繰り返すことを望んでしまえるほどにこのあるがままの生成流転する生をそのまま肯定している姿を描写したものとして位置づけることができるだろうし、また、戯れる「子ども」となって悦びを感受している瞬間の生き生きとした実感を描写するために、この思想が登場したのだと考えることができると思われるのである。

 しかし、何度も言うように、荒れ狂う「獅子」の世界から戯れる「子ども」の世界への通路は、非連続なものであり、その実体化できない世界と言うべき「子ども」の世界は、恒常的に存在するものとしては捉えられないがゆえにはっきりと提示できず、ただ示唆することしかできないものである。というのも、一度は世界に溶解したはずの自己は、またすぐ次の瞬間には形を取り戻してしまうからである。われわれは恒常的に自己を手放していることはできない。永遠回帰の啓示を体験してもなお、ニーチェは『ツァラトゥストラ』を書かざるを得なかったことがその証でもあろう。つまりニーチェはそれでもなお、生成の側からやってくるものに対して開いていることがもたらす希望を、示唆しようとしたのである。ニーチェが抱え込んだジレンマは、まさにこうした地点にあると言える。そしてそれとともに、いや、むしろそれこそが、彼の著作の魅力ともなっていると言えるのではないだろうか。


※1 F.ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部,1.三段の変化
※2 F.ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部,1.三段の変化
※3 F.ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部,1.三段の変化
※4 F.ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部,1.三段の変化
※5 F.ニーチェ(遺稿Ⅱ.10.33)[1887秋]
※6 BLANKEY JET CITY(ブランキー・ジェット・シティ)という日本のロックバンドの音楽は、私にとってまさにそういうものである。ギターの音とともに空を舞うような感覚、自分が何処にいるのか一瞬わからなくなるような感覚、訳も分からずに全身が凍りつくような感覚、あるいは、自分の体が持っているリズムとのズレのようなものを有無を言わせず叩きつけられて意識が吹っ飛ぶような感覚、そして同時にもたらされる圧倒的な悦びと神々しいまでの肯定感…。言葉ではなんとも言い表しがたいものの、実際にそういう感覚が引き起こされることがあり得る、というのが私の実感である。
※7 F.ニーチェ(遺稿Ⅱ.9.278)[1886夏-1887秋]
※8 F.ニーチェ(遺稿Ⅱ.9.278)[1886夏-1887秋]
※9 F.ニーチェ『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」1節
※10 F.ニーチェ(遺稿Ⅱ.10.32)[1887秋]


大いなる肯定

2005-11-06 01:49:44 |  -think/works
例えば、衝撃的な音楽に出会ったときに自己と世界との境界がわからなくなるほどに溶解してしまうような、言い換えるなら、圧倒的に理解不能な「生成」を前にして「自己」が消失し、えもいわれぬ悦楽と一体になっているような、そんな感覚に陥ることが実際にある、という実感。

BLANKEY JET CITY(ブランキー・ジェット・シティ)という日本のロックバンドの音楽は、私にとってまさにそういうものである。
ギターの音とともに空を舞うような感覚、自分が何処にいるのか一瞬わからなくなるような感覚、訳も分からずに全身が凍りつくような感覚、あるいは、自分の体が持っているリズムとのズレのようなものを有無を言わせず叩きつけられて意識が吹っ飛ぶような感覚、そして同時にもたらされる圧倒的な悦びと神々しいまでの肯定感・・・。

言葉ではなんとも言い表しがたいものの、実際にそういう感覚が引き起こされることがあり得る、というのが私の実感である。


Yes,Yes.Yes....

思索の跡

2005-11-05 15:14:50 |  -think/works
これもまた、遠い昔の思索の跡。


 江國香織という作家の詩集の中に『無題』という詩がある。
「どっちみち/百年たてば/誰もいない/あたしもあなたも/あのひとも」

 若い人達(特に女性)に人気があるというこの作家がシンプルに描いたこのニヒリズムは、私にとっても、妙にしっくりくるものがある。現代の(日本の)時代性、もしくは時代の空気、というものがあるとすれば、こうした詩に象徴されるような「無力感」や「寂しさ」、「徒労感」のようなものなのかもしれない。このニヒリズムから目を背けたり、あるいは、うさん臭い「物語」に寄り掛かったりせずに正面から引き受け、「にもかかわらず」生きるんだと言いたい。ただ、その「にもかかわらず」に重苦しさや説教くささが入り込んでしまうようではいけない。そんな言説は要らない・・・。
 この袋小路から抜け出すこと、それが私自身にとっても何よりも重要なテーマであると言えるし、ちょうど百年前にニーチェが考えようとしたことも同じことだったような気がしてならない。

 また、一方で、井上陽水はかつてこう歌った。
「探しものは何ですか? 見つけにくいものですか? / カバンの中も つくえの中も 探したけれど見つからないのに / まだまだ探す気ですか? それより僕と踊りませんか? / 夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか? / 休む事も許されず 笑う事は止められて / はいつくばって はいつくばって いったい何を探しているのか / 探すのをやめた時 見つかる事もよくある話で / 踊りましょう 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか? / 探しものは何ですか? まだまだ探す気ですか? / 夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか?」

 ニーチェの描く「生成」の世界、「戯れる子ども」の世界もまた、もしかしたらこういうことなのかもしれないと思う。ここには確かに、目的から解放された生がある。しかしこちら側では逆に、それが投げやりな刹那主義とは違うものであることを示す言説が必要だろう。

挑戦状

2005-09-24 01:09:21 |  -think/works
かつてはこんな「大きな物語」が効力を持っていたのかも知れない。

「早く偏差値の高い大学(いい大学)に入って、早く誰もが知っている大企業(いい会社)に就職して、早く安定した高い給料と地位を得て、早く可愛くて素晴らしい(??)女の子と結婚して、早く子どもを持ち、早く彼らにいい服を着せ、早くマイホームを建て、明るくて温かい家庭を築き、早く子どもを立派に一人前にまで育てあげて、早く定年を迎えて円満退社、気楽で自由気ままでお金に不自由しない老後の生活をのんびりと楽しみましょう。」ってね。

そんな「物語」を信じこんで生きちゃった人間のなれの果てをボクらは今、目の当たりにしてるんじゃない??そういうのがそもそも、「死への突進」でしかないことにボクらは気付いてしまったんじゃない??
だって、その一番先には「死」があることは誰もが知ってることなんだから。それを隠蔽して目を背けて生きるなんてねぇ・・・。

さらに言えば、いい大学に入ったってろくでもない人間はたくさんいるし、有名なデッカイ会社に入って喜んでたらバサバサとリストラされたり会社自体が潰れたりして路頭に迷ったりしてるってことだっていくらでもあることを知っちゃったんじゃない??

あるいは・・・。まかり間違って「お父さんはおまえたちのために頑張ってきたのに」みたいなことを子どもに言ってみたら、「バッカじゃないの??」って言われちゃったりしてね。さらには「そんなことのために生きてきて幸せなの??」なんて逆に説教されちゃったりして。援交とかしちゃって日々ひたすら「楽しく」それなりに「ハッピーに」過ごしてる娘とかにね。

さぁ、どうする????

教育は未来を志向する、それゆえ現在を窒息させる??

2005-09-24 01:04:47 |  -think/works
「未来を志向する」ということ。
今の自分をさらに超えて、「もっと大きく」「もっと強く」「もっと美しく」あろうとするということ。

そのことは強迫的に主張されれば恐ろしいまでの息苦しさを押しつける。

なぜなら、もっと成長しなければならないのなら、それはすなわち「今の自分ではダメだ」ということに他ならないのだから。

それでは、現在は未来の目的のための手段に成り下がる。

「早く立派な大人になりなさい????」

なら、大人になる前に死んだ子どもの生は無意味なの???
だいたい、「大人」ってなんやねん、「立派」ってなんやねん???


・・・こんなこと、当たり前だと思う。
でも、今はむしろ、こういう言い方が「甘え」のニュアンスを伴いすぎている気がするけれど。

ナンバーワンよりオンリーワン♪」なんて、努力しなかったヤツの僻みなんじゃないの???

とあるラフスケッチ②

2005-09-24 00:53:07 |  -think/works
それはそうと、このように、われわれにとって、生きるために何らかの目的を設定するということはごくごく日常的なものだと言えるだろう。

それにしても、僕らはなんでこんなにも何かを成し遂げなければならないと焦っている、もしくは、焦らされているのだろう?

しかし、しかしである。

目的が達成されなければ肯定され得ない人生というのにはかなり問題があるのではないだろうか?

例えば、(クラブ活動などで)スポーツをやっていた人は当時のことを思い出してみよう。きっと、試合に勝つという目的のため、現在を犠牲にしてつらいトレーニングに耐えたことだろう。厳しい監督がいたチームなら、「結果がすべてなのだ」「試合に負けたらすべて無意味なのだ」とたたき込まれたかも知れない。
だが、挫折したらすべて無意味であるとしてしまうのはあまりにもミもフタもなさすぎないか?あるいは逆に、目的さえ達成されればそれですべては「オールオッケー」なのか?

生きるために何らかの目的を設定する、その目的のために生きる、その目的がなければ生きられないということは、きっと、おそらく、病んでいる。目的が達成されなければ人生を肯定できないとするなら、われわれは人生を肯定できていないのと同じだろう。生きているということは、それ自体で、端的に肯定されなければならないはずなのだ。目的からの生の解放、それは確かに、苦しい。「どこまでいってもゴールではないとするなら、どうして努力する気になれるというのか?」確かにそうだ。

だが、その苦しさの中で、それでもなお、生きる。そのほうが健全だろう。われわれは目的があるから生きるわけではないのである。

ニヒリズムとその克服>というニーチェの思考がめざすのも、そうした端的な生の肯定なのだ。
端的なる生の肯定、それはあえて言うならば、神の祝福とでも言うべき美的な状態なのかもしれない。そのとき人は「子ども」であり芸術家である。だが、美であれ、生の肯定であれ、それらは結果としてそうなっていたということはあっても、目的として想定してはいけない。目的として想定できないのだ。

だから、いつも私がたどりつく結論は「結論づけないという結論」。芸術が、何か超越的な存在として固定化して頭上に掲げてしまった時点で死に絶えるように、何事も、固定化してしまった時点で死に絶えるのだ。その固定化されたものが「大きな物語」の姿でもある。

しかし「絶えざる生成」を欲するとは一体どういうことなのだろうか?常に自己をずらして「物語り」続けていくということは?「忘れ、笑い、戯れる」、そうしたことがキーワードとして浮かんでくるのだが・・・。



・・・そう、「悩め!!若者!!!」
こうした青臭い時代は、けっして無駄ではない。

とあるラフスケッチ①

2005-09-24 00:47:53 |  -think/works
これは、本当に古い思索の跡。
青臭い、というのはこういうことなのだろうか????


われわれが中学生であったころのことを思い出してみよう。

そこには思春期の様々な悩み事はあったにせよ、少なくとも、高校に進学するという目的はほぼ当然のごとく(?)与えられて存在していただろう。「何のために生きるか」という問いは、「とりあえず高校に入らなきゃ」ということで先送りにされたのではないか。

高校生のころはどうか。

そこでもやはり、大学に進学するというとりあえずの目的のおかげで、やるべきことが山積みになっていたに違いない。成績という自己を評価してくれる基準もそこには確かに存在していてくれた。ここでもまた、かの問いは先送りにされ、つまらない日常は、とりあえず、大学に入るための準備期間として意義づけることができたはずだ。

しかし、大学生になって、どうだっただろうか?

誰もに共通する評価の基準など、もう既にどこにも存在しないということに衝撃を受け落胆しなかったと言えるか?やるべきことを他人から与えてもらうことがどんなにか楽なことであったのかということに気づかされ、そんな優等生的自分を嫌悪するようになったりはしなかったか?そして、「何のために生きるか」という問いを、もうどうにも先送りのしようがないという事実に愕然としなかったか?3回生にもなり、自己の先行きに対する不安が現実感をともなって切迫し増大してくると、再び誰かに自分のことを評価する基準を作ってもらいたくなってきたりはしなかったか?(そこで例えば、なんとなく司法試験の勉強を始めてしまったりする人の心理のなかに、こうした傾向が決して読み取れないと言えるだろうか?)

あるいは、もしかしたらあなたは、「とりあえず大きな会社に就職しとけ」ということでまたしてもその問いを先送りにしようとしているのかもしれない・・・。

あるいはあなたは幸運にも、何か素晴らしいものと出会って、「自分は一生こんなことをやって生きていきたいのだ」と確信するに至っているのかもしれない。きっと、それは幸せなことだし、否定もしないけれど、それは本当に、目的のなさに耐えられずにでっちあげた生きる目的、自分をもだまして思い込もうとしている生きる理由ではないのか?と自問してみよう。(先に司法試験の例を挙げたけれど、それが逃避としての目標であったことに、何年も経ってから気づいてしまったりすると、取り返しがつかないことになるだろうから。)

~続く