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Real Reality in a Dream

「夢の中のリアルな現実」?? …その肌感を求めて彷徨う日々の記録

かつての問題意識②

2005-09-04 06:42:04 |  -think/works
~続き

 かつて、1980年代の若者の代弁者と呼ばれた歌手、尾崎豊(1965-1992)に、『卒業』という曲がある。その中で彼はこう歌った。「あと何度 自分自身 卒業すれば 本当の自分にたどりつけるだろう」と。自分は何のために生まれてきたのか、私は何者で、何をするために今ここにいるのか、いったいどこがゴールなのか、このまま走り続けた先にいったいなにがあるのか…。確かに、こうした問いは、主体的に生きようと心に決めた人間が必ず直面する大問題である。
 ところが、ここに、「本当の自分」などというものは存在しないし、そんなものにはいつまでたっても到達出来はしないと言い、「何のために??」を求めてしまうことそれ自体を目的従属というニヒリズムだと言い放った思想家がいる。現実の生を超えたところに超越的な究極的目的を定め、そこに向かって生きようとすること、それは、多様性と複雑性、割り切れなさをそもそもの状態とするこの現実の生の手触りから目を背けようとする弱さの現れ、怠惰だと、彼は断言するのである。その思想家こそ、F.ニーチェ[Friedrich Nietzsche (1844-1900)]である。辿り着くべき場所が初めから決まっているなら、そこへ向かうあいだにどんな苦痛や困難があっても、それに耐えることはさほど難しいことではない。だが、双六の「人生ゲーム」にあるような「あがり」など、現実にはどこにも存在しない。つまり、先に述べた「教育」の挫折は、もともとそのような究極目的など存在し得ないところにでっち上げられた作り物が単にその正体を暴露されたということにすぎず、ニーチェによれば、必然なのである。「あがり」の不在に耐えきれずに何らかの固定化された目的を超越的な存在として頭上に掲げ、安定し安心しようとすることが、不健康で危険かつ他律的な在り方であるという強烈な批判、そこにニーチェの凄さ・おもしろさの真骨頂があると言えよう。
 こうした考え方に従えば、あらゆる教育目的論はニヒリズムだ、ということにもなるのだが 、しかし、ニーチェは、無気力で頽廃的な生や、投げやりで刹那的な快楽主義を容認したわけでは決してない。むしろ、彼が一貫して追究したテーマは、目標も意味も失った世界にあって人間はいかにして生き生きと生きることができるのか、というものであったと言える。これは同時に、私自身の問題でもある。そして、これが重要なのだが、われわれの囚われる例の「何のために??」という問いのでどころ、その問いを発する動機もまた、実は、「どうすれば生き生きと生きられるのか??」というところにあるのである。その意味で、われわれは皆生き生きと生きたいと欲している。
 ならば、そのニーチェは、この「生き生きと生きるということ」についてどう考えたのかを、以下、詳しく検討してみなければなるまい。先に述べた、「何のために??」と問うてしまうことから始まる堂々巡りから抜け出す手がかりをニーチェの論考から掴みだしていこう。


・・・かつて僕は、こんな風に、問いを発していた。

かつての問題意識①

2005-09-04 06:37:46 |  -think/works
はじめに -「何のために」という問い

 現在、例えば善悪の判断基準であるとか道徳の指標であるとか、そうした個人の生き方にかかわる諸々の価値的なものが教育に絡んでくる際に、万人の視点から是認され得るような「正しさ」など、もはや誰一人として主張することが出来ない、ということは否定できない状況だと言わざるをえまい。教育可能性の問題を持ち出すまでもなく、生き方や価値観が多様化して、客観的で堅固な価値の基盤、あるいは生きる意味や究極的目標を提示することなど不可能であることを認めざるを得ない現代、「教育」という営みは糸の切れた凧のように彷徨い始めている。
 ここで、「臨床教育学」という学問が、現代の「教育」なり「人間」なりに纏わるきわめて「リアルな」問題にアプローチしていくことをそのテーマとするならば、今、この私自身にとってリアルな問題、端的に表現すれば「いかに生きるのか」という問題、それは必然的に人間存在にとって根源的なテーマでもあるが、その問題について、まず自分自身から出発して考え抜いてみること、それが必要不可欠なことであることを主張することも許されよう。さらに言えば、そこを出発点にする以外には、この時代の中で「教育」や「人間」について何かを語ることはできない、と私は考えるのである。そして、そうした論考が、例えば「なぜ人を殺してはいけないのか??」と問う少年に、「生きていても辛いことばかり。もう自殺したい。」と泣く少女に、あるいは「学校なんて行ってもつまらない。何か意味があるのか??」と訊ねる子どもに、何らかの示唆を与えるはずだと信じるのは、何よりも私自身が、彼らと同様にそうした問題への回答を求めてやまないからである。
 さて、ここで彼らが回答を求めている問いは、端的に表現すれば、「何のために??」という問い、であると言えよう。そしてまた、彼らはその「何のために??」への回答に導かれて生きることを欲している。そういう意味で、かの問いを投げかけてくる彼らは、その時点では、大人がある「正しさ」を提示してくれることを心の底では期待している。その意味で、実は「教育」に期待している。しかし、そうした問いに正面から答えてくれる大人など、ほとんど存在しない。彼らは遅かれ早かれ、大人達がそうした問いにきちんと答え得ないことにも気付いてしまうことになるのである。いやそれどころか、大人達自身もまた、そうした問いのただなかでもがいているのだ。それは、明快に答えるには問いの抽象度があまりに高すぎるということや、この問いが、近代化をはたして豊かな成熟社会を迎え、次の目的が見つからないという停滞感が漂い、闘うべき相手も反抗する対象も既にないという空虚な気分の流れる現代という、いわば時代の病いであるということにもよろうが、そもそもの問題の核心は、われわれが、理由に呪縛された生を生きているということ、「生きることに理由があるならば誰かどうか教えてくれ」という世界を脱していないということにあろう。
 言い換えるなら、こうした問いに囚われるということは、われわれが今なお、何らかの確固たる超越的価値にもとづいて自らの生を意味づけたいという欲求の中にあるということを説明している。価値の基盤が揺らげば揺らぐほど、われわれはさらに体を強張らせ、悲壮な顔つきでそうした究極的な正しさや目的を探し求めようとする。ところが、そうした試みのすべては、冒頭で述べたとおり、挫折するのである。
 この堂々巡りが、現代のわれわれが置かれている状況であろう。

~続く