~続き
かつて、1980年代の若者の代弁者と呼ばれた歌手、尾崎豊(1965-1992)に、『卒業』という曲がある。その中で彼はこう歌った。「あと何度 自分自身 卒業すれば 本当の自分にたどりつけるだろう」と。自分は何のために生まれてきたのか、私は何者で、何をするために今ここにいるのか、いったいどこがゴールなのか、このまま走り続けた先にいったいなにがあるのか…。確かに、こうした問いは、主体的に生きようと心に決めた人間が必ず直面する大問題である。
ところが、ここに、「本当の自分」などというものは存在しないし、そんなものにはいつまでたっても到達出来はしないと言い、「何のために??」を求めてしまうことそれ自体を目的従属というニヒリズムだと言い放った思想家がいる。現実の生を超えたところに超越的な究極的目的を定め、そこに向かって生きようとすること、それは、多様性と複雑性、割り切れなさをそもそもの状態とするこの現実の生の手触りから目を背けようとする弱さの現れ、怠惰だと、彼は断言するのである。その思想家こそ、F.ニーチェ[Friedrich Nietzsche (1844-1900)]である。辿り着くべき場所が初めから決まっているなら、そこへ向かうあいだにどんな苦痛や困難があっても、それに耐えることはさほど難しいことではない。だが、双六の「人生ゲーム」にあるような「あがり」など、現実にはどこにも存在しない。つまり、先に述べた「教育」の挫折は、もともとそのような究極目的など存在し得ないところにでっち上げられた作り物が単にその正体を暴露されたということにすぎず、ニーチェによれば、必然なのである。「あがり」の不在に耐えきれずに何らかの固定化された目的を超越的な存在として頭上に掲げ、安定し安心しようとすることが、不健康で危険かつ他律的な在り方であるという強烈な批判、そこにニーチェの凄さ・おもしろさの真骨頂があると言えよう。
こうした考え方に従えば、あらゆる教育目的論はニヒリズムだ、ということにもなるのだが 、しかし、ニーチェは、無気力で頽廃的な生や、投げやりで刹那的な快楽主義を容認したわけでは決してない。むしろ、彼が一貫して追究したテーマは、目標も意味も失った世界にあって人間はいかにして生き生きと生きることができるのか、というものであったと言える。これは同時に、私自身の問題でもある。そして、これが重要なのだが、われわれの囚われる例の「何のために??」という問いのでどころ、その問いを発する動機もまた、実は、「どうすれば生き生きと生きられるのか??」というところにあるのである。その意味で、われわれは皆生き生きと生きたいと欲している。
ならば、そのニーチェは、この「生き生きと生きるということ」についてどう考えたのかを、以下、詳しく検討してみなければなるまい。先に述べた、「何のために??」と問うてしまうことから始まる堂々巡りから抜け出す手がかりをニーチェの論考から掴みだしていこう。
・・・かつて僕は、こんな風に、問いを発していた。
かつて、1980年代の若者の代弁者と呼ばれた歌手、尾崎豊(1965-1992)に、『卒業』という曲がある。その中で彼はこう歌った。「あと何度 自分自身 卒業すれば 本当の自分にたどりつけるだろう」と。自分は何のために生まれてきたのか、私は何者で、何をするために今ここにいるのか、いったいどこがゴールなのか、このまま走り続けた先にいったいなにがあるのか…。確かに、こうした問いは、主体的に生きようと心に決めた人間が必ず直面する大問題である。
ところが、ここに、「本当の自分」などというものは存在しないし、そんなものにはいつまでたっても到達出来はしないと言い、「何のために??」を求めてしまうことそれ自体を目的従属というニヒリズムだと言い放った思想家がいる。現実の生を超えたところに超越的な究極的目的を定め、そこに向かって生きようとすること、それは、多様性と複雑性、割り切れなさをそもそもの状態とするこの現実の生の手触りから目を背けようとする弱さの現れ、怠惰だと、彼は断言するのである。その思想家こそ、F.ニーチェ[Friedrich Nietzsche (1844-1900)]である。辿り着くべき場所が初めから決まっているなら、そこへ向かうあいだにどんな苦痛や困難があっても、それに耐えることはさほど難しいことではない。だが、双六の「人生ゲーム」にあるような「あがり」など、現実にはどこにも存在しない。つまり、先に述べた「教育」の挫折は、もともとそのような究極目的など存在し得ないところにでっち上げられた作り物が単にその正体を暴露されたということにすぎず、ニーチェによれば、必然なのである。「あがり」の不在に耐えきれずに何らかの固定化された目的を超越的な存在として頭上に掲げ、安定し安心しようとすることが、不健康で危険かつ他律的な在り方であるという強烈な批判、そこにニーチェの凄さ・おもしろさの真骨頂があると言えよう。
こうした考え方に従えば、あらゆる教育目的論はニヒリズムだ、ということにもなるのだが 、しかし、ニーチェは、無気力で頽廃的な生や、投げやりで刹那的な快楽主義を容認したわけでは決してない。むしろ、彼が一貫して追究したテーマは、目標も意味も失った世界にあって人間はいかにして生き生きと生きることができるのか、というものであったと言える。これは同時に、私自身の問題でもある。そして、これが重要なのだが、われわれの囚われる例の「何のために??」という問いのでどころ、その問いを発する動機もまた、実は、「どうすれば生き生きと生きられるのか??」というところにあるのである。その意味で、われわれは皆生き生きと生きたいと欲している。
ならば、そのニーチェは、この「生き生きと生きるということ」についてどう考えたのかを、以下、詳しく検討してみなければなるまい。先に述べた、「何のために??」と問うてしまうことから始まる堂々巡りから抜け出す手がかりをニーチェの論考から掴みだしていこう。
・・・かつて僕は、こんな風に、問いを発していた。