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Real Reality in a Dream

「夢の中のリアルな現実」?? …その肌感を求めて彷徨う日々の記録

忘年会のピーク

2006-12-23 12:25:29 | night
なんやかんやで忘年会まっ盛り。昨日は金曜日、街も人だらけでした。
しかし、「今年もお世話になりました」なんて、あちらでもこちらでも「こんにちは」くらいの軽さで発せられているみたいで、正直そういうのはとてもバカバカしいなぁ、と思いつつも、まぁ、なんとか我慢我慢。ただ「12月だから」ってだけでそれをなにかの区切りにして、とりあえず水に流してしまおうとするなんて、ね。

ところで、昨日は、「気持ちが切れる(途切れる)瞬間」を、二度持った。
これは僕にとって哀しいことなのか良いことなのか、それはわからないけれど、「あぁ、まぁ、もういいか」と、切り捨てる気になれたというのは、たぶん、意味のあることだろう。
繋いでいく気が無くなったモノは切り離していけばいいし、「そういうことなのだ」と理解できたモノはあきらめていけばいい。


そんな忘年会のシーズンにあわせて、いろいろな店からの営業も多数。
・・・でも、カラダは一つしかないのでね、ごめんなさい。

で、週末はクリスマス、翌週は仕事納め、気付いたら大晦日、新年、と。

ある意味、新鮮

2006-12-18 22:13:24 | night
やっぱり、世界を閉じさせていてはいけないなぁ・・・とふと思った。
日々、居心地の良い場所に留まりがちな中、とはいえやはりちょっと無理をしてでもいろいろな人に会い、いろいろな生き方・考え方に接し続けることは、どうしても僕にとって必要なことで、そもそもそういう体験が自分自身のエネルギーになっていくハズのものなわけで。

そういう意味では、ちょっと毛色の違う人達と飲んだりするのも、たまには、良いよね。

銀座 八時

2006-12-13 03:19:46 | night
いや、すごい。
久々にビックリするくらい面白い店に出会いました。

銀座 八時」。四ッ谷にあるマジックバーです。

とある番組の忘年会で初めて行ったのですが、いや、本当に面白かった。
お店の内装やテーブルの感じ・全体の雰囲気も、ある意味「マジックバー」というイメージから考えるととってもいい意味で予想を裏切られる感じ。

ここはまた絶対行きたいお店の一つですね。拍手喝采。

様々な人の様々な人生

2006-12-09 00:19:11 | night
みんないろいろある。当たり前だけれど。
みんなそれぞれいろいろ考え、感じながら生きている。当たり前だけれど。

ただ、本来当たり前のそうしたことを、アタマだけでなく、少なくともちゃんと肌で感じながら、翻って自分自身に取り組む・・・という在り方を、もう一度取り戻せている今は、少し前の僕の状況よりは、だいぶマシなんじゃないだろうか。

むろん、レベルの差はあるし、「上から目線」でものを語るつもりはないけれども、それでもハタチそこそこの頃に比べたらそれなりにやはり積み重ねてきたものもあるし、どうしても「見えてしまう」部分はあるけれども、とはいえ、様々な人の様々な人生を、応援できるなら応援したいなぁ、と思います。

まぁ、自分のことも、もちろんだけれど。

六十の色恋

2006-11-23 03:00:00 | night
いくつになっても、花街の中では、様々な人間模様が、繰り広げられている。
久々に、ドロドロした、というか、生々しい、というか、人間臭い、というか、そうした夜の世界のど真ん中に引き戻されて、懐かしく感じつつも、普段自分がそういう面で、どれほど手を抜いていたのかを、痛感。
気配りとか、会話への集中力とか、隙の見せられない感じとか、駆け引きとか。……そして、何よりも、アルコールの量とか。
対等に話してくれて、相変わらず先斗町を引きずり回してくれたママに、感謝。
……といいつつ、久々に本当に「もう飲めない!!」という状態まで飲みました。いったい何軒行ったんだろう。
ママをタクシーに乗せて送り出して以降、あんまり記憶がありません。

祭りのあと

2006-11-20 00:29:17 | night
久々の家での鍋パーティ。
なんかこういうのは学生の時に戻ったみたいで楽しいね。
次の日が休みなのも、なおさら。

ただ、こうやって自分の家で集まってやることは昔から多かったけれど、いつも、みんなが帰ったあとが、逆に何か凄い寂しかったりして。

・・・「祭りのあと」。
そういう表現がピッタリくるようなこうした哀しさは、もしかしたら、常に僕の人生につきまとうものなのかもしれない。

当たり前といえば、当たり前、か

2006-11-09 11:48:03 | night
同い年くらいの女の子で、ずっと水商売を続けてきたような子は、銀座のクラブとかでももうママを張っていたりするんだなぁ・・・ということに気付く。

いや、冷静に考えれば当たり前といえば当たり前なんだけど、逆に翻って、自分がそういう年齢になっているということにちょっと驚いてみたり。

しかしまぁ、数人で飲んでいて一晩に40万も50万も払っちゃう人達が、まだちゃんと世の中には存在するんだなぁ・・・。

気付きのヒント

2006-09-28 09:03:45 | night
甘いと言われれば、確かに甘い。
とはいえ、切り捨てて投げ出すわけにもいかないような気もするので、少なくとも、気付きのヒントを、散りばめておこうか。

確かに、言葉を費やして伝えることだけが、「伝える」ということではない。
・・・おっしゃる通り。

操り人形

2006-09-18 00:04:42 | night
組織の中で生きる以上、広く見れば僕らは皆「操り人形」であらざるを得ない。

「組織に使われるのではなく、組織を使うのだ」といくら言ったところで、あるいは、「自分は自分の意志でそれをやっているのだ」といくら言ったところで、このことを自覚した上でのことでなければ、それはやはり本質的ではない。

だから、使われる側の人間にとって、おそらく、「ホンモノを見抜くチカラ」ほど、大切な能力はない。(あらゆる人にとって、と言ってもよいが。)
そして、このチカラは、どれだけ深く人と関わってきたか、どれだけ沢山の人に会ってきたか、どれだけ幅広いものの考え方の中から自分が何を選択してきたか、どれだけ凄い人達と会ってきたか・・・そういう、広い意味での「人間力」に拠るところが大きいだろう。

(夜働いている人達の中に稀に見られる圧倒的な「ホンモノ」は、そうしたチカラを持っており、同じく嗅覚の鋭い人達が、その人の周りに集まってくる・・・そういう様子は、これまでも何度となく目にしてきた。余談になるが、そうした人間の出現頻度は、もしかしたら昼間の世界よりも多いかも知れない。)

・・・「その人が奏でたい音楽を表現するための楽器になること。」
それは、冒頭で書いたとおり「操り人形」となることと広い意味では同義だが、しかし、その深みは、まったく違う。そういう気持ちで結ばれているチームは、強い。

「誰にコミットするか」というのは、若い人間にとって実は非常に重要な選択であり、それを見誤ると、確実に数年を棒に振ることになる。
そして、「見誤った」ということは、単に「ついてない」ということで済まされる問題ではなく、「見る目がない」ということそのものが、実は、最も必要な能力が決定的にない、という意味で、圧倒的な本人の欠陥なのだ。

(まぁ、会社では常に「ホンモノ」が上に行くわけではなく、むしろその逆であることの方が多いので、損得で考えるとこの通りではないような気もしますが、「僕らが獲得する人生の深み」ということに重きを置いて考えれば、やっぱりねぇ・・・。)

・・・なにげに、そういうチカラにかけては、けっこう自信ありますよ、僕。(これは本当に祇園時代のおかげだなぁ・・・。感謝、感謝。)