この、おかしな国、日本!どうやって生きていくのが楽しいか?

あ~あ~こんな国に生まれちゃったよ・・・・

新天皇の即位で天皇家の代替わりが行われた・・・

2019-05-05 01:31:08 | 日記


 4月30日に、明人(あきひと)天皇が退位して、上皇(じょうこう)となり、翌日5月1日に、徳仁(なるひと)天皇が即位した。 私は、もう、今上(きんじょう)天皇というコトバは使わない。こんなコトバは、もう要らない。
  日本国は、世界に向かって、平和に新国王(しんこくおう)を迎えて、世界に向かって、まるで中世国家のように、王国(おうこく)としての姿を強調した。
徳仁天皇と雅子皇后
 私、が、これまでずっと主張してきたとおり、日本国は、外側が、王国(キングダム、モナーキー)でありながら、内側が、デモクラシー( 代議制民主政体、だいぎせいみんしゅせいたい)の、二重構造の、「入れ子」構造の国 である。立憲君主政(コンスティチューショナル・モナーキー constitutional monarchy  )の国である。この考えしか他には、成り立たない。世界中から、すなわち、諸外国から見ても、どうしても、このように見える。
 日本の憲法学者たちも、政治学者たちも、このように、「日本国は、外側が、王国(憲法1条から8条)であり、その内側が、民主政治体制(デモクラシー。「国権の最高機関は国会」とする憲法41条。 )になっている、二重構造の国である 」とする、私、副島隆彦の学説を受け入れるべきである。 
 私は、法学部出(で)であるから、大学時代に憲法学を学んだが、そのとき、東大で、‘ 戦後憲法の護(まも)り役’であった宮沢俊義(みやざわとしよし、1899-1976年)、芦辺信義(あしべのぶよし、1923-1999年)の憲法の本で、この元首(げんしゅ)問題に、拘(こだわ)っていたことを、覚えている。今は、天皇が国家元首(ソブリン)有ることに、異論を言い出す人はいなくなった。日本は、王国(君主国)なのである。
 私が、新天皇即位で、思い出すのは、3人の日本史の学者のことだ。久米邦武(くめ・くにたけ、1839-1931年)と、重野安繹(しげの・やすつぐ、1827-1910年)と、津田左右吉(つだそうきち、1873-1961年)のことだ。この3人が、明治から大正、昭和にかけて、この国で、一番、優れた歴史学者だった。
 久米邦武(くめくにたけ)は、1892(明治25)年、論文を書いて、「神道は祭天の古俗なり」という重要な学問的な定義を行った。
久米邦武
この「 神道(しんとう)は 神話(しんわ)であって、祭天(さいてん)の 古俗(こぞく)に過ぎない 」 というコトバが、今も、もの凄く重要だ。「日本書紀」と その他に国家の古文書に書かれている、神道の儀式(ぎしき、リチュアル ritual )は、祭天(さいてん)、即ち、「天(てん)を祭(まつ)る」、古俗(こぞく)、古くからの習俗(しゅうぞく)、習(なら)わし」であるに過ぎない、と断定した。神話(ミス、myth )を事実だと、学問の名で行ってはならない、とした。 
  久米は、明治の初めの権力者たちの欧米視察に随行した学者として、欧米近代(きんだい、モダーンmodern )のサイエンス(science 、スシャンス、スキエンザ、近代学問)に従った学問によって、これらの伝統的な古俗を冷静に、合理的に研究しなければいけない、とした。 
 久米邦武は、この論文を発表したことで、やり玉に挙げられて、全国の神道家(しんとうか)、神主、神官たちから、強く非難され、攻撃された。それで、東京帝国大学の国史 こくし)の教授を、その年のうちに、辞めさせれた(当時は、非職=ひしょく=と言った)。
 2人目の、重野安繹(しげのやすつぐ)も、同じく、近代学問(モダーン・サイエンス)としての冷静な歴史学を志した。
重野安繹
 3人目の、津田左右吉(つだそうきち)は、「日本書紀」(「古事記」は、それから百年後ぐらいに、漢文に書き直されたもの)の記述の、「聖徳太子の実在性は疑わしい」の箇所などを、1939(昭和14)年に、右翼の、蓑田胸喜(みのたむねき)、三井甲之(みついこうし)から糾弾されて、翌年、文部省から、津田の4冊の論文集が、発売禁止にされ、早大教授を辞めさせられた。1919年刊の『古事記及び日本書紀の新研究』と、1924(大正13)年刊の『神代史の研究』が、主著である。津田左右吉の研究は、戦後の日本史学者たちの模範となった。
津田左右吉
 だから、私、は、この3人の優れた先達(せんだつ)に倣(なら)って、神話のようなものを、無上(むじょう)にありがたがる風潮に強く反対する。
 戦前に、天皇は、現人神(あらひとがみ)にまで祭(まつ)り上げられた。現人神というのは、生神(いきがみ)、生き神さま、である。 天皇を、生き神 として、祀(まつり上げて、信仰の対象にしたことは、国家体制として大間違いだった。だから、最後は、広島と長崎に原爆を落とされて、打ち倒されて、日本の国家神道(こっかしんとう)は、木っ端みじんにされて、滅んだのだ。それまで、全国の神官(神主)は国家公務員だったが、敗戦後は、その資格は剥奪された。
 今の天皇家(皇室)は、これらのことを重々(じゅうじゅう)と、腹の底から知っている。だから、神式の儀式を強調しないで、コソコソと宮中三殿で行った。あれでいい。あくまで天皇家の儀式である。
 私が、もう一つ、知識人として思い出すのは、内村鑑三(うちむらかんぞう、1869-1930年)のことである。クリスチャン(アメリカのカルヴァン派プロテスタントに学んだ。同志社の創立者、新島淳が資金を出して留学させてくれた)である内村鑑三は、1891(明治24)年のp1月に、第一高等学校(今の東大の駒場、教養学部)の始業式で、ご真影(ごしんえい、天皇の写真)と教育勅語(きょういくちょくご)に拝礼せず、自分だけ直立のままだった。
内村鑑三
 そのことが、大騒動になって、却(かえ)って、内村鑑三は、有名人の「キリスト者」で、キリスト教の伝道者で、日本の独特の思想家 になった。私は、あのときの内村鑑三のような人が、今も出てくるべきだと思っている。今は、流石(さすが)に、奉安殿(ほうあんでん)とか、ご真影(ただの写真だゾ)に 頭を下げないと、不敬罪(ふけいざい)で逮捕されて、処罰される、ということはない。だが、ほんの74年前まで、日本は、そういう国だったのだ。 
 今の日本国憲法が出来るまで、日本には、人権(じんけん)というコトバは、無かったのだ。本当だ。人権(ヒューマン・ライツ)の思想は、ほんの75年前まで日本になかった。
 吉野作造(よしのさくぞう、1878-1933年)が、大正デモクラシーで、「中央公論」に、民本主義(みんぽんしゅぎ)というコトバで、盛んに、人権思想を説いたときにも、国家主権( しゅけん、ソブリーンティ、 sovereignty )は、天皇にあったので、民主主義(みんしゅしゅぎ)とうコトバは、使えなかったのだ。それで、遠慮して、ちょっと工夫して、吉野作造は、民本主義(みんぽんしゅぎ)と言うコトバを、使った。明らかに、democracy  デモクラシー(代議制民主政体)の訳語である。
吉野作造
***  ***  *** 
 今の 日本国は、国民の多くが貧乏のまま、ヒドい不況のまま、優れていない(つまり、愚か者の)政治指導者たちがいて、国民生活が圧迫されたままの、「貧乏でもいい、平和で有りさえすれば」の、ギリギリの選択をしながら生き延びている。 
 日本の最大の弱点は、指導者である。国民の各層はしっかりしているのに、政権政治家たちの能力が、あまりにヒドい。あまりにも低劣な、愚かな者たちが、一番上にいるものだから、日本は、元気が出ない。碌な国家運営をしていない。諸外国の指導者に現れているように、優れた見識と、ずば抜けた能力を持ち、だから、国民に敬愛される指導者がいない。
 だから、日本は、ちっとも元気が出ない。皆、おろおろしている。指導者が、国民から軽蔑されている。諸外国と較べて、どうしても、このように見える。このことが、日本国の最大の危機である。
アメリカによる、日本国からの大きな収奪(しゅうだつ)、資金の強奪(ごうだつ)が続いている。安倍首相は、先週、トランプ大統領 に、ゴルフに誘われて、チンコロ忠犬、ポチ公のまま、何でも卑屈に、アメリカ帝国の言いなりになることで、自分の立場を守っている。 
 アメリカと、対等な交渉をする、ということが全く出来ない。言いたいことを言うことが出来ない。だから、相手にバカにされる。軽く見られる。そのように長年、仕組んだ、アメリカも悪い。 another  Ozawa   「アナザー・オザワ」すなわち、もう一人別の新しい小沢一郎(田中角栄の後継ぎ)が、出てくるのが、アメリカとしては、困る。そうでなければ誰でもいい、ということだ。
 安倍は、4月27日に、首脳会談の時に、トランクに対して、「4.4兆円の、アメリカ製の軍需品 を買うと、この場で最終的に決断しますから、新天皇に会いに来て下さい。これが、正式のお願いの最終のお願い(取引)です」 と、来たる5月27日(日)、28日(月)のトランプ訪日を公式に決定した。   安倍晋三首相とドナルド・トランプ大統領
トランプは、きっと大相撲の最終日(千秋楽、せんしゅうらく)に蔵前の国技館の、土俵に現れて、決勝戦 を観戦した上で、必ず、土俵に上がって、優勝カップを、優勝力士に与える儀式をやるだろう。昔、パンナムの名物(めいぶつ)会長が、やったように、「ヒョーショージョー(表彰状)ジューヨー(授与)」をやるだろう。パンナムPANNAMは、もうかなり前に無くなった米航空会社だ。
 トランプは、プロレス興行が、大好きで、自分も興行主(こうぎょうぬし。プロモーター)をやっていた男だから、プロレスと、相撲が同じものだと、知っている。相撲取りの褌(ふんどし。アンダーローイン)姿を、嫌わない。ビルとヒラリー・クリントンは、嫌って、大相撲を見に来なかった。
 各種の格闘技の奴隷戦士たち(フットボールでも、バスケットでも、サッカー、ボクシングでも同じだ。競馬の馬主も。古代ローマの剣闘士=グラディエイター=も )を、自分でオウナーとして飼うことは、ある種の 支配者、権力者、大金持ちにとっては、無上の喜びなのだろう。
 今や、独裁者である、トランプは、「こいつ(安倍)は、私の言うことを何でもきく、頭の足りないやつだ」と、軽く扱っている。この事実を、一番、惨(みじ)めに噛みしめているのは、当の安倍首相本人だろう。 
 日本国民の大半も、「もう、安倍、辞めろ」と、思っている。アメリカ(トランプ)と、対等に、激しく、厳しく交渉する人間が出てこないと、日本はダメなのだ。
 安倍晋三 は、来年の8月(炎天下だぞ)の、2020年の東京オリンピックまでは、首相の席にしがみつて花道を飾ろうとしている。 そして、そのあと、9月に、自民党の総裁選で、次の首相が決まる。 
 さあ、菅義偉(すがよしひで)官房長官が、次の首相になる、いや、アメリカが、「菅(すが)でいい」と、言うか。次の属国の指導者として、アメリカ帝国が認めるか。この問題は、あとの方で書く。 今年の3月から、公然と、「スガが次か」と自民党内で、騒がれ出した。
菅義偉
 5月8日から、菅義偉は、官房長官(首相の女房役)なのに、留守をして、アメリカに呼ばれて、首実検(くびじっけん)を受けにゆく。「果たして、こいつでいいのか。アメリカの言うことをちゃんと聞くかな。文句を言わないで、カネを払うか。そして日本国内を、きちんと治めることがで着るのか」の検査を受けに行く。 さあ、この重要な問題を、私は、予測、予言しなければいけない。 
 ・・・・私は、たった今、決めたが、もう、「菅義偉が、次の首相になるか」問題は、今日は書くのをやめた。次回に回す。 今日は、天皇家の代替わりの話だけにしよう。それで、このあとに、BBC(英国国営放送局)の、特派員の、新天皇の即位と、皇室のことについての、記事があったので、長いが、それを、貼り付ける。これだけにする。 
(転載貼り付け始め)
〇 「 天皇陛下、その人間らしさ 」 Japanese Emperor Akihito's human touch 
2019年04月30日 BBC ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ 東京特派員

 春らしい清々しい朝だった。私は先週、東京西部の郊外の路上に立っていた。道路の両側には何百メートルにもわたり、興奮した面持ちの人の列が続いていた。そのとき、ほとんど何の前触れもなく、黒色の大きなリムジンが両側にオートバイの警護隊を従えて橋を渡ってきた。
その車両が通り過ぎたとき、ほんの一瞬、明仁天皇、美智子皇后の両陛下が体を前に傾け、軽く手を振るのが見えた。歓声のうねりとビニール旗の波が起こり、やがて消えた。私にとって、それは少々あっけなく思えたし、そう思ったのは私だけではなかった。近くにいた高齢の女性は警察官を責めた。
  「どうしてあんなに速く行ったの?」と女性は聞いた。「普段はもっとゆっくりなのに。お顔を見る機会なんてめったにないのに」。
 警察官は辛抱強くほほ笑んだ。警察官が車列の速度を決めることは、もちろんできない。この日の天皇・皇后両陛下の昭和天皇山稜への拝礼には、筋金入りの皇族ファンが数百人集まる程度だろうと思っていた。だが実際には、5000人以上は集まっていたはずだ。集まった人たちが三々五々に散らばり始めると、中には涙を拭う姿もあった。
  「日本人のためにしていただいたことを、ありがたく思っています」と、美しい着物姿の女性は話した。「長い年月に対する深い感謝の気持ちを込めて手を振りました」。「本当に感動しました」と女性の友人は言った。「長年のおつとめを終えられた天皇陛下が、ゆっくりと幸せな時間を過ごされることを願っています」。
だらりと垂れた大型の日よけ帽をかぶったスギヤマ・カオルさんも、友人たちと一緒に来た。「私は戦争世代ではありません」とスギヤマさんは言う。「でも、振り返ると、平成時代の日本が平和だったのは天皇陛下のおかげだと思います。ですから、陛下の最後の訪問でお顔を見て、感謝の気持ちを示したいと思ってやって来ました。陛下には『ありがとうございました』とお伝えしたいです」 こうした気持ちを抱かせる天皇陛下は、いったい何をしたのだろうか。
「最高慰問者」
 1989年1月、昭和天皇の死去にともない、天皇陛下が即位した。
  楽観的な時代だった。日本は金回りがよく、戦後の経済発展のピークを迎えていた。ソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収する直前で、三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターの買収を目前にしていた。世界中で、新たな「超大国」としての日本が話題になっていた。
天皇陛下(1990年撮影)
 しかし、天皇陛下が即位した翌年、災難が起こった。バブル経済がはじけ、東京の株式市場で株価が35%も暴落した。バブル崩壊から30年近くたつが、日本の株価と地価は1990年代の水準を下回ったままだ。
 ほとんどの日本人にとって、平成(「平和の達成」を意味する)時代は経済停滞を意味してきた。加えて、悲劇に見舞われた時代でもあった。1995年1月、マグニチュード6.9の大地震が神戸の街を襲った。ビルや道路の陸橋が倒壊し、火災が何日も続いて空が暗くなった。死者は6000人を超えた。
 2011年には、さらに甚大な被害をもたらす地震が東北地方の沖合で発生した。マグニチュード9は、記録が残る中で、日本における4番目に大きな地震だった。この地震は巨大津波を引き起こし、東北沿岸の町々に壊滅的な被害を及ぼして、約1万6000人の命を奪った。この2番目の災害の後、天皇陛下は過去の天皇がしなかったことをした。テレビカメラの前に座り、国民に向けて直接語りかけたのだ。
 その2週間後、天皇・皇后両陛下は、東京から離れたスタジアムに設置された避難所を訪れた。被災者たちは、床の上にわずかな所持品を積み重ねて生活していた。多くの人々は、福島第1原発の損壊によって出た放射線から避難していた。ほとんど全てを家の中に残したまま、いつ、果たして戻れるのかどうかさえわからずに、避難生活を送っていた。天皇・皇后両陛下は床に膝をつけて家族を一組ずつ訪ね、静かに話しかけ、質問をし、いたわった。
  東日本大震災の被災者と話す天皇・皇后両陛下
 保守層にとってはショッキングな、天皇陛下の姿だった。天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫にあるべき振る舞いではなかった。しかし、それを上回る数の日本人が、天皇陛下の人間味あふれる感情表現に深く感動した。
  「陛下には道徳的な権威がある」とテンプル大学東京校のジェフ・キングストン教授は話す。「陛下はその権威を自ら獲得した。最高慰問者(consoler in chief)だ。陛下は父親(昭和天皇)には決してできなかった方法で民衆と関係を築いている」。
  「陛下の避難所訪問は、政治家が写真撮影のために訪問して手を振って立ち去るのとは違う。人々の隣に座り、一緒にお茶を飲み、戦前には考えられなかった風に会話をする」
父親の罪
 天皇陛下は革命家には見えない。背は低く、控えめで語り口は柔和だ。発言と行動は戦後の憲法によって厳しく制限されている。イギリスのエリザベス女王と違い、陛下は日本の国家元首ではない。その代わり、陛下の役割は「国民統合の象徴」とあいまいに定義されている。政治的な発言は認められていない。 こうした儀礼的で窮屈な役割の中でも、陛下は見事な成果を上げてきた。
まず思い出すべきは、陛下は日本がアジアで暴挙を繰り広げた1930-40年代の約15年間に日本を治めた、神格化された昭和天皇の息子だということだ。広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えた時、陛下は12歳だった。
昭和天皇(右)と新聞を読む天皇陛下
 教育を受けていた時期のどこかで、陛下は強固な平和主義者となり、それは現在も続いている。このことについては、アメリカ人家庭教師のエリザベス・グレイ・ヴァイニング氏の影響を指摘する人もいる。天皇陛下は昨年12月には「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べた。平成の間に1人の自衛隊員も、戦争や武力紛争で犠牲にならなかったことに、何より満足しているという。
 陛下は日本のかつての敵や被害者とも心を通わせる努力をしてきた。北京、ジャカルタ、マニラからスペインまで、昭和天皇の下で生じた傷を癒すために尽力した。 「陛下は、日本の和解のための最高の特使という、天皇の新たな役割をつくり出し、地域内を何度も訪問し、償いと悔恨の意を示してきた。基本的に、過去の戦争の傷を癒そうとしてきた」とキングストン教授は指摘する。
天皇陛下と皇后陛下は1959年にご成婚された
 1990年代には、それはあまり議論にはならなかった。国内の政治家は陛下を支え、1992年には歴史的な中国訪問を実現させた。だが、陛下が年齢を重ねるにつれ、日本の政治は急激に右傾化した。
 かつての「謝罪外交」は、平和主義とともに支持されなくなった。安倍晋三首相は、日本の平和憲法を改めると宣言している。安倍氏や右派の人々は愛国的な教育を復活させ、彼らの言う戦後の「自虐史観」を消し去りたいと考えている。
天皇・皇后両陛下が見守る中、戦没者追悼の式典の壇上に立つ安倍晋三首相(2014年)
 目立たないように、しかし強い意志をもって、陛下は繰り返し歴史修正主義者たちに対する軽蔑心を表してきた。2015年、戦後70年の節目で、安倍氏は談話を発表した。「安倍氏は基本的に、日本がいま享受している平和と繁栄は、300万人の戦死者のおかげだと述べた」とキングストン教授は言う。
  「翌日、陛下はそれを否定した。陛下は日本がいま享受している繁栄は、国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識によるものだと、お言葉で述べた」
テレビ中継を見ていた何百万人もの日本人にとって、それは疑いようのない批判だった。東京で開かれた園遊会では、右派の東京都の教育委員会委員が、国歌を斉唱するときには全教員を起立させると陛下に誇らしげに伝えた。
  陛下は静かに、だがきっぱりとこう言って、その委員を諭した。「強制になるということではないことが望ましい」
長い別れ
 在位期間を通し、陛下は最も大切な伴侶で助言者の美智子皇后と一心同体だった。一般家庭の出身の皇后陛下にとって、時に宮中での暮らしは極めて大変だった。1993年には、皇后陛下は精神的疲労から倒れ、2カ月間、言葉が出なくなった。
皇后陛下
  皇后陛下は最近、天皇陛下の決意に対する畏敬の念を文章で表している。 「振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました」
 しかし、ここしばらく、天皇陛下の健康状態は衰えつつある。がんを患い、心臓のバイパス手術も受けた。陛下に近い人は、陛下が健康悪化によって動けなくなり、公務を果たせなくなることを一段と心配していたと述べる。2009年ごろから、陛下は皇太子さまへの皇位継承が認められるよう静かに世論に訴え始めた。これは決して簡単なことではない。
  戦後制定された憲法では、天皇は「終身」その地位にあると明確にしている。そのため、政治家たちは陛下の願いを無視してきたと、原武史放送大学教授は説明する。
  「9年間にわたって、政府は陛下のお気持ちにまったく同調しなかった。退位したいという陛下の希望を受け入れたら、天皇が重要な決定権限をもつことになってしまい、それは憲法違反だと考えたからだ」
  5月1日に新天皇に即位する皇太子さまと雅子さまご夫妻
 これは、まさに日本独特の難問だ。原教授によると、焦燥感を募らせた陛下と宮内庁は、ある計画を編み出した。「陛下と宮内庁はどんどん我慢できなくなっていった。そこで、宮内庁の職員がNHKに情報を流し、NHKが陛下の希望を報じた」 NHKにとってそれは大スクープとなり、こう着していた局面が打開された。1カ月後、陛下は再びテレビ放送されたビデオメッセージを通して国民に直接語りかけ、退位して皇位を皇太子さまに引き継ぎたい意向を示唆した。
 世論調査の結果は、大多数の日本国民が陛下の意向を支持していることを示した。安倍首相と保守層は従うしかなかった。それから2年の年月を要したが、陛下はついに退位の日を迎えた。5月1日、皇太子さまが新天皇に即位し、時代は「令和」に変わる。
(転載貼り付け終わり)