黒猫のつぶやき

法科大学院問題やその他の法律問題,資格,時事問題などについて日々つぶやいています。かなりの辛口ブログです。

「法科大学院は何をもたらすのか または法知識の分布モデルについて」

2006-04-12 12:44:24 | 法曹養成関係(H25.1まで)
 「ボツネタ」経由で読んだ記事。

http://www.utp.or.jp/todai-club/2006/04/10/eeacoioaeithieaiieeuyaycyeeaae/#more-116

 東京大学の内田貴教授が,新司法試験・法科大学院制度などに関する論考を書かれているようです。
 黒猫がこれまで書いてきたこととは,当然ながら見解の相違もあるようですが,感想をいくつかコメントしたいと思います。

1 新司法試験について
 内田先生の見解としては,司法試験考査委員経験者としての意見(voice of experience)として,「一発勝負の試験の難易度を上げれば法曹の資質を確保できるなどという考えは幻想に過ぎない」とされていますが,別に黒猫も,単純に司法試験の難易度を上げさえすれば質を確保できるという考え方は採っていません。
 ただ,内田教授自身も「合格者数を格段に拡大し,かつ,司法試験の難易度を下げるべきだ」とまでは言い切っていないように(そのような論旨であるような記述をしつつ,断言まではしないというのが内田教授のずるいところですが),「試験の難易度を上げればよいというものではない」という意見は,直ちに「試験の難易度はいくら下げても良い」という結論を導きうるものではないはずです。
 黒猫としては,前提となっている法科大学院の理念自体に重大な問題があるという見解を採っているので,内田教授のご意見には当然ながら賛同しかねます。

2 法科大学院の「標準化」の問題について
 もともと,頑張って相当高度な教育を施そうとしている東大ローの教授であれば,文部科学省や外部評価による標準化はかえって「足枷」になると感じるのもやむを得ないかもしれませんが,実際の法科大学院の中には,そもそもこんな大学が法科大学院など本当にやれるのか,と言いたくなるほど低レベルの大学が作ったものも相当数ありますから,最低限の質を確保するための「標準化」自体は必要な規制であると思われます。
 問題は,標準化の規制制度そのものよりも,規制する側の文部科学省自体が,法曹教育にどのようなプロセスが必要なのかあまり分かっていないまま規制をかけていることでしょう。

3 「法知識の分布モデル」の問題について
 内田教授の定義された法知識の「拡散型モデル」と「集中型モデル」は,ある意味で黒猫が以前書いた「西洋的弁護士像と東洋的弁護士像」の話と一部かぶるところがあるように思われます。
 拡散型モデル≒東洋的モデル,集中型モデル≒西洋的モデル,ということになるでしょうが,ヨーロッパ諸国の法曹制度は西洋的モデルでも拡散型モデルに属するということなので,必ずしも一致はしません。
 もっとも,アメリカで弁護士資格を持っている人は,日本のようにほぼ全員が純粋な法曹として仕事をしているわけではなく,弁護士資格を持ちながら法律とは直接関係ない普通の仕事をしている人も多いわけですから,そのような実態をもって法知識の「集中型モデル」と定義するのがそもそも適当なのか,という問題は残ると思われます。
 また,仮にアメリカの実態を法知識の「集中型モデル」と呼ぶのが適当であることを前提としても,そのようになっているのは,アメリカには弁護士資格を持った人が約100万人もいる一方で,大学には法学部が存在せず,法律を勉強するにはとりあえずロースクールへ行くしかないこと,及び司法制度も州の裁判所と連邦の裁判所が併存していて,裁判管轄自体もやたら複雑であるため本人訴訟は事実上不可能に近いこと,といった事情も影響しているように思われます。
 現在のところ,法曹人口の増加に伴って大学法学部を廃止すべきだというような議論をしている人はいませんし,国家公務員試験の法律職を廃止するという議論をしている人もいませんし,弁護士が増加したからといって公務員や弁護士以外の人による企業法務の業界が直ちに廃れるとは考えにくいと思います。
 また,日本の司法制度が急速にアメリカ型に移行するとも到底思えませんから,「法知識の分布」に関する内田教授のご心配は,単なる杞憂に過ぎないのではないかと思われます。
 むしろ,本当に心配すべきは,法科大学院を卒業した人の多くが,実際には法曹実務を担うことの無いペーパー弁護士になってしまい,一方で法曹実務は弁護士でない企業法務担当者や司法書士などにどんどん取られてしまい,弁護士という資格制度が実態とさらにかけ離れてしまうことではないかと思われます。