黒猫のつぶやき

法科大学院問題やその他の法律問題,資格,時事問題などについて日々つぶやいています。かなりの辛口ブログです。

「国際法」にはどんな意味があるか?

2006-02-07 19:38:04 | 司法一般
 このブログで,ラッチェバムさん及び横槍さんにコメントを頂いた国際(公)法の存在意義について,黒猫の見解をここで整理したいと思います。

 前提として,ある学問分野が実社会において役に立つ学問であるかどうかは,その学問を実際に使っている人がどれだけいるかによって決まります。いかに高度であり精緻であっても,実際に実社会で使われていない学問を学ぶ意味はほとんどありません。
 そして,その学問分野が役に立つ学問であるかを,その分野を専攻する学者に尋ねるのは全くのナンセンスです。学者は,もし自分の専攻する学問に意味がなければ,自らの存在意義も食い扶持も失ってしまうことになるので,そのような問いがなされれば,必死になって自らの専攻する学問の存在意義を強調しようとするに決まっています。
 したがって,学問を学ぶ意義があるかどうかは,学ぼうとする側が各自の判断で決する必要があることになります。
 特に日本の法律学においては,いつからそういう傾向になったのかは知りませんが,どうやら実務の動向など無視して独自の理論体系を構築していくのが優れた学問であるというような風潮があり,学問の「実用性」はかなり軽視されてきた感があります。したがって,法律学を学ぶ場合には,他の分野の学問を学ぶ場合と比較しても,各分野毎に「その学問を学ぶ意義があるかどうか」を熟慮する必要性が高いと思われます。

 そして,国際(公)法を学ぶ必要性についてですが,国際(公)法は,一般的に大学で学習する他の実定法とは決定的な違いがあります。すなわち,通常の実定法は,実際に裁判所等において法規範として使用されているものであり,その解釈が現実の問題をダイレクトに規律するのに対し,国際法には(少なくとも今日においては)その解釈の結果を当事者に強制する権能を持った強力な司法機関が存在しておらず,現実の国際社会が「国際法」どおりに動くための制度的保障が存在しないということです。
(これに対し「国際私法」の方は,現実に裁判規範として機能しているものであり,近年における国際的な法律問題の飛躍的増大を考えると,国際私法を学ぶ必要性について疑問を呈する余地は特にないと考えています。国際私法の勉強にどれほどのウェイトを置くべきかという問題は別途ありますが。)
 いま,大学時代に使っていた国際法のテキスト(大沼保昭編著「資料で読み解く国際法」初版)のはしがきを読みながらこの記事を書いていますが,大沼教授はどうやら法学というものを「裁判規範である法の解釈」だけではなく,「人々が自己の行動を正当化するための根拠として,相手方の行動の正当性を否認する道具としてなど,国際社会において広く登場する「法」を取り扱う学問であると考えているようです。
 「国際法」がこのようなものであると考える場合,「国際法」学が国際政治学,国際経済学,あるいは国際社会学などといった諸学問から区別された独自の意味を持つためには,相当数の人が「国際法」を法として認識し,自らの態度や行動を決する際の拠り所として使用している必要があります。
 このように,法の存在意義を実態に照らして判断する立場を採る場合,その存在意義の有無及び程度は,当然ながら時代によっても異なり,また所属する国家や社会の実情によっても異なることとなります。
 これが,「法の民」と言われたローマ人の末裔であり,「法」が人々の思考を強く規律しているという欧米の社会であれば,例え裁判規範となっていない「法」に関する学問であっても,一般教養として学ぶ価値は十分あるでしょう。
 しかし,日本やその属する東アジア(中国文化圏)の社会では,法が人々の思考様式を規律していたわけではありません。近代以前の中国や日本にも法律のようなものはありましたが,それは西欧諸国の「法」とは異なり,単に国家権力の発動基準を定めたものに過ぎません。それによって人々の行動が規律されるとしても,それは「法」そのものによって規律されるのではなく,「法」に従って発動される国家権力によって規律されていたに過ぎません。
 近代になると,わが国では西欧諸国(主にドイツとフランス)の法を継受して,いわゆる近代法の法典類がひととおり整備されましたが,規定の内容自体は西欧諸国の法を真似たものであっても,法が人々の思考を規律する西欧人の精神まで継受したわけではありませんから,近代法典が日本人の行動を規律するのはあくまで「法律に従って発動される国家権力」によってであり,法そのものが日本人の思考様式を規律してきたわけではありません。
 これは今日のわが国でも同じであり,その証拠に,日本人のほとんどはつい最近になるまで,大学の法学部に入学するか,あるいは司法試験などを受験するのでない限り,法律学を勉強すること自体ほとんどありませんでした。
 最近は,テレビで法律関係の番組がかなり増え,理系の学生が特許法などを多少勉強するようになったりしており,法律に対する社会的関心は従来よりは高まっているといえますが,それも多くは「罪になるか」「訴えられるか」「慰謝料などを取れるか」などという,法律に基づく国家権力発動のメカニズムに対する関心であり,別に日本人が法に従って思考するようになったわけではありません。
 そのように考えると,大沼教授の指摘するところによれば,日本の法律学は「法」が「組織化された実力により裏打ちされた裁判によって実現される拘束規範」であるという前提に依拠しており,法学教育においては解釈論が重視されるあまり,法の変容や立法過程の解明という課題には十分応えてこなかったそうですが,そうなったのは日本人の法意識を考えれば当然の結果ということになります。

 そうであれば,実際に外交官にでもなって「法」を重視する外国の人々(特に欧米諸国の人々)と交渉する立場にあるなら,国際法を学ぶのも重要となるでしょうが,それらの外交活動に従事するわけでもなく,単に日本において法律事務に従事しようとする人が,敢えて国際法を学ぶ意義はかなり疑問視されます(仮に学ぶとしても,合理的に付けられる優先順位はかなり低くなります)。
 また,現実の国際関係について議論する場合でも,国際法の考え方が伝統的に深く根付いている欧米諸国間の,あるいは欧米諸国との間の関係について国際法を考慮するのは有益ですが,講学上の「国際法」といえるものがあったとしても欧米諸国のものとは異質であったと思われる東アジア諸国間の国際関係について,欧米諸国で発達した国際法に基づいて議論するのは,単に現実に合わない議論を生む結果になるだけであると思われます。
 実際,現に日本と北朝鮮との間で行われている国交正常化交渉を見ても,表向きの外交辞令はともかく,当事国の戦略や意思決定に国際法がさしたる役割を果たしているとは思えませんし,仮に小泉総理の靖国参拝に対する中国・韓国政府の抗議を国際法違反だと言ってみたところで,それで日本の立場に同調してくれる国はないでしょう。

 以上が黒猫の考え方です。なお,学問の重要性は学ぶ側が自ら判断すべきであるという前提に立つ以上,黒猫の考え方に異議を唱える人が国際法を熱心に勉強することを止める気はありません。ただし,熱心に勉強した結果何も得られず,多額の費用と貴重な青春の時間を無駄にしたとしても,もちろん黒猫の知るところではありません。